0.8℃
0.8℃
「試験勉強は出来ているのか」
トーストを齧っていたところに、自室から出てきた長谷部が腕時計を留めつつ訊ねてくる。口の中のものを咀嚼して飲み込む。この家に住む人間はどちらも朝が早い。
「試験期間なんて覚えていたんだな」
「お前が三年も通えば覚える」
珍しい。嫌味か。
ごく自然な仕草でダークグレーのスーツジャケットが羽織られる。今日は気温がそれほど上がらないとテレビで言っていた。残ったコーヒーを飲み干し、朝食の食器を流しに置いた長谷部が、今日も遅くなる、お前バイトは、と訊ねるから、今日から休みだと答えた。さっきの質問の回答はなくてもいいんだろうか。ブラシをかけたコートに袖を通している背中を見る。
「英語以外に不安は無いんだろうな」
どうやら答えは必要らしい。
三者面談で赤点を取った教科をリークされた日、これからの社会において英語は必要不可欠だと長い高説を聞かされた。分かっている。しかし分からないものは仕方がないだろう。
「今のところは」
「なら苦手教科を重点的にやるといい。三十点しか取れてないならあと七十は増やせるわけだからな。確か光忠は外国語得意だぞ」
「これ以上借りを作りたくない」
「……その気持ちは分からなくもない」
少し笑った声だった。こちらの事情に口を挟める程度には仕事が落ち着いてきたのだろう。だがそう間もおかず繁忙期に入るはずだ。五年も過ごしていれば体感で覚えてくる。
「言っとくが俺は教えられんぞ」
「俺の勉強を見る暇があるなら、あんたはもう少し寝た方がいい」
通勤鞄を手にした長谷部がこちらを見て止まった。この男は俺より遅く寝て俺より早く起きる。食事の席で、光忠から体調や様子を頻繁に質問される俺の身にもなってほしい。
生意気な奴だ、言いこそすれ、悪態のような口調ではないのだから、無視してトーストを食べる。玄関の方で鍵を取る音がした。靴音が鳴る。
「行ってくる」
「行ってこい」
ドアが閉まった。テレビを消す。朝食を終え、腕を持ち上げ伸びをした。面倒ではあるがマフラーを取り出してこなければならない。流石に今日は中に着込むだけでは足りないだろう。
高校二年を二回経験した。成績が悪く、留年する事が実際にあるのだと身をもって知った。
それを伝えた時、まだどうするかとも決めていなかった俺に、長谷部は中退させるつもりは無いと言った。また一年分の金が、だとか、周囲からの目が、だとか、そういったナイーブな話を持ち出すつもりもなかったが、随分断定的だったのを覚えている。
叔父である長谷部とは互いに干渉しすぎない距離感を保っていて、しかし無関心だと言われるほど薄情な繋がりでもない。俺の両親は俺の知る一組限りで、保護者である長谷部は保護者でしかなく、お前は必要な時に俺を呼べばいいんだと言われたのが両親の葬式の日だった。
まだ中学二年の俺に代わり喪主を務めた長谷部も、当時は二十代半ばであっただろうに、両親の噂や俺の行く先を密やかに相談する親戚の中で誰よりもまともな大人に見えた。
長谷部の友人である光忠からは「社畜が面倒を見れるのか」と言われ続けているようだが、両親との繋がりも希薄だった俺に、新しい父親面で接したところでうまく続かなかったと思う。その辺りは感謝すべきなのだろう。したところで伝えるつもりは毛頭ないのだが。
朝食の食器を洗い、食器乾燥機に突っ込む。スイッチは入れない。放っておいても乾くだろう。
冬ものを詰めていた引き出しからマフラーを取りだし、戸締りをして、黒いトートを手に取った。いまは何も入っていない。靴箱上のフックからキーケースを抜き家を出る。刺すように冷えた空気の感触が心地いい。
鍵をかけ、そのまま隣の部屋のインターフォンを押す。応答はなかった。代わりにドアが開かれる。
「おはよう、伽羅ちゃん」
「ああ」
玄関で光忠から弁当の包みを受け取る。毎朝のこの流れを長谷部もこなして出勤している。友人同士で異様な距離感だとは思う。しかしこちらは男二人なのだし、どちらも料理に毛ほども興味がない。出来栄えも死ななければいい程度にしか思っていないのだから、思春期まっただ中であった俺の食育に光忠が口を挟んで以来、栄養面に関してはこの男に頼るルーチンが完成してしまっている。
長谷部曰く、毎月見合った額を「家事手伝い代金」として振り込んでいるそうだから、見知った顔で近所に住む家政婦だと思えば甘んじて受け入れることも難しくはなかった。でかくて容姿の整った料理も出来る女の影が絶えない目立つ男の家政婦。そう言ってしまえばこの男はまたうるさいだろうから口にしたことはない。一応失礼だとも思う。
しかし伽羅ちゃん呼びについては散々苦情を申し立てた結果、一向に受け入れられなかったのでもう無視することにしている。
「ねえ、ちょっと薄着なんじゃないかな。今日は寒いようだけど」
「知っている」
「マフラー一本で凌ぐつもり?」
「昨日までは何も要らなかった」
言って、弁当箱をトートに仕舞い込む。行こうとしたところでちょっと待って、と呼び止められ、中に戻った光忠がさほども経たず出てきた。
「これ、持っていくといいよ」
差し出されたのは皮の手袋だった。内側が短い起毛なのが分かる。黒いそれを見て即座に思ったのは、幾らの品だ、ということだった。明らかにブランド物だろう。
「必要ない」
「使わなかったら鞄に入れたままでいいから。お弁当以外何も入ってないんだろう」
「荷物になる」
「君が寒くなくても、一人薄着だとかっこ悪い目立ち方をするよ。それともこの程度も重くて持ち歩けないんだ?」
煽られている。このしたり顏は普通にムカつく。だが舌打ちしたところで怯む相手でもないのが癪だった。
「……これはあんたのだろう」
「心配は無用だよ。他にもいくつか持ってるから」
この男が身なりに費やす金額を聞きたくなかった。
渋々受け取り、いってらっしゃい、とホクホク顏で見送られ、眉間にシワが寄るのがわかった。ドアを閉める。マンションのエレベーターへと向かう。
実際身震いするほど寒くはない。だがエレベーターホールに着くと、サラリーマンらしい同階の住人が立っていた。マフラーとコート。順当な防寒だろう。
互いに目礼で済ませる。学ランには上から重ね着することが難しいのだと思いはするが、はめられているエレベータードアの横、縦長の鏡タイルに映る自分の姿は確かに着込んでいるようには見えなかった。学ランの下に着てはいても、見た目が変化するほどでもない。舌打ちしそうになるのを飲み込む。干渉されて揺らがされるのが不快だった。
いつもの時間の電車に乗る。珍しく席が空いていなかった。天気や気温が変わると混み具合が普段と違うことがあり、仕方なくドアのすぐ横にもたれて立つ。二駅後、見慣れたブレザーが乗車してくる。
「おはよう」
ああ、呟いて、もたれていた壁を譲る。山姥切は俺が立っているのと車内の混み具合を理解したようだった。いそいそと壁に寄る。よく見るとパーカーの下でネックウォーマーを着けているらしい。手にはめた柔らかそうなニットグローブの、フードを折り返してスマホの画面をいじっている。
「今日はずっと寒いみたいだな」
スリープにしたのか、ポケットへ突っ込みながらそう言う。俺以外は全員気温に敏感らしい。そうか、と返すと、あんたは寒くないのか、と訊かれた。やはり薄着に見えるんだろう。
「……元々体温が高い」
「そうなのか。俺は三十六度くらいだ」
「低くないか」
「わからない。あんたは」
「……七度にはいかない」
「……七度近いのか。高いな」
山姥切の視線が下りる。俺の手を見ているようだった。体の横で落としたままだった掌を、自分に向けて弱く持ち上げてみる。
ふと、掌に指が乗った。白い指と、切りそろえられた爪が自分の手の上ではひどく浮いて見えた。
「……」
「温かい気がする」
ぼんやりとした感想を告げられる。場所を替え、指先や膨らんだ親指の付け根などを、押されたり撫でられたりする。なんだこれは。
「俺の手は冷たいか?」
訊ねられても分からない。
「さあ、どうだろうな」
正直に答える。おもむろに山姥切が右側のニットグローブを外した。
何をする気だ、思いこそすれ言葉にはせず飲み込んだ。甲に筋の浮かぶ、薄い手が俺の手に合わさって、指先が弱く掴んでくる。少しかさついているのは手袋のせいか。肌が擦れる感触がする。熱を感じなかったのは俺の方が体温が高いということだろう。大きさ自体はあまり変わらないが、なんとなく、握力では勝てそうな気がした。
「低いな」
「そうか」
コメントすると手が離れた。感じなかったはずの熱が消えて、肌に物足りなさが残る。
「寒いのは苦手なんだ。これからつらくなる」
山姥切はニットグローブを着け直し、自分の指を揉んでいる。俺は、持ち上げていた手を伏せ、軽く握り、ズボンのポケットへ指をかけるだけに留めておいた。弱い混乱から胸が少し持ち上がる感覚があった。何だ今のは。
「あんたの手は温いな」
何なんだこれは。
乗り換えの多いハブの駅に着く。やはり普段より人が多いようだった。しかし混みあう程ではない。もう少し遅い時間だと慈悲の無い満員電車になるんだろう。冷えた外気が入り込んできて、少しぼうっとしていた頭がはっきりしてくる。
「そういえば、そっちの試験期間っていつなんだ」
突然学生然とした話題を振られた。瞬きをする。今朝もその話をしたのを思い出す。
予定期日を告げると、うちより遅いんだなと言われた。他校の試験期間を気にしたことが無かった。
「自習するつもりなら、もう少し早い時間のに乗ったほうがいい」
「ああ、いや、そういうつもりはないんだ。むしろ」
言いかけて、山姥切が止めた。見るが、いつもどおり長い前髪が邪魔をして視線が分からない。しかし不穏な沈黙ではなかった。
「今も、……少し早いんだ。だから、自習はできてる。問題ない」
「そうか」
「あんたも学校着くの早くならないか?」
フードの下からこちらを見たようだった。その角度では俺から向こうの表情が見えないのが不快だ。
「早いな。他は朝練で来ている奴らぐらいだ。だが三十分遅く出て、満員電車に乗るのは割に合わない」
寝るのは教室でもできる。言うと、確かに、と笑いながら返される。見えるのは口元だけで、やはり前髪に隠れて緑色は見えなかった。なんだ。最近よく笑われている気がする。
電車が減速する。駅に着き、人の流れに沿って下車し、改札へ向かう。
「なあ」
今日はよく喋る。立ち止まらず、速度だけ落として後ろを見た。
「あとでチャット、送ってもいいか」
それは確認しなければならない事なのか。いきなり「かわいい」猫スタンプを送りつけてくる割に、変なところで遠慮される。視線を前に移す。
「好きにしろ」
「分かった」
「校内では切っている。返信は早くない」
「ああ」
改札を出て、それぞれの出口へ向かう。足を止めて振り返る。学生の中に紛れ込むと、黒髪の群に生成りのフードは若干目立つようだった。
(……ああ)
腑に落ちる。目立ちたくないのだ。比較的学則が緩いと言われるうちの高校では、染髪はある程度の明るさまで認められていて、地毛である獅子王なんかはその枠にもはまらない。片や向こうの制服の中に、あからさまな染髪は見当たらないようだった。見慣れた、リュックを前に抱えるポーズを思い出す。縮こまった印象が強いのは事実そうなのだろう。南口へ向かう。外気が服の隙間から入り込む。
スマホが震えた。見れば、チャットの新着で理系か文系かと尋ねられている。触れる画面がいつもより冷えている。理系、と返し、一応、と続けて打った。
『微積はわかるか』
こいつは。俺が留年した理由を話したはずだった。しかし、確かに、その理由となった科目は文系だった。にしてもだ。聞く相手を選んだほうがいい。考えたところで、選ぶ相手がいないのかと思いあたり、ゆっくりと瞬きをする。
悩んだ。大体予想がつく。向こうは私立だが、二年で、いま俺がやっているのは工業高の応用だった。
『うちのは分かるが、そっちのレベルは知らない』
先んじて返す。間が空く。
写真が貼られた。分からないが、誰かの家で撮られたもののようだった。指が女だ。本当に誰なんだ。見るが、知らない教科書のページのようだった。提示されている内容自体には既視感がある。分からなくもない。分からなくもないが。
『このあたりだ』
『多分わかる』
答えて、無言、山姥切から返信がない。既読はすぐについた。向こうからの言葉がない。
気づいたか。こちらは仮にも高校三年で、他校で、頭が悪く留年した身でバイトをしている。一時期学校から止められたのだが、就職しながら夜間に進学したいのだとのたまい、家の事情を仄めかし、二度目の二年生時の成績が若干回復したのと出席状況から、渋々許可を取り付けていた。
学校が近くなってきている。動かないチャットを見る。もう向こうは着いただろうか。
『お前文系だろう』
訊ねるとすぐに返信があった。最近、こいつは分かりやすいのだと知った。
『ああ』
『英語分かるか』
『そっちはなにをやってる』
適当に、最近授業で見た単語を思い出す。綴りは分からないので片仮名で送信した。答えとしてそれが英単語として返ってきた。ああ、確かこんな字面だった。
『だいじょうぶか』
何がだ。思って次を待つ。
『その単語はむずかしくないだろ』
そうか。正門を目の前にして立ち止まる。近くにいた学生はいつもより着込んでいるようだった。マフラーやパーカーや手袋で、やはり学ランの上に着るのは難しいのだ。
『どこかで試験勉強するか』
打って、チャットを閉じた。スリープにする。機内モードに切り替える。正門に向かう。
途中から平仮名ばかりになっていたのは指がかじかんだのだろう。指摘したら普通に頷きそうで、揶揄い甲斐がない、勝手に笑う。朝に長谷部から指摘されていた言葉を思い出す。そうだな、と理解はできたが、赤点でなければいいかと考えていた。それから一時間もせず、わざわざ勉強をする羽目になりそうな首の突っ込み方をした。本当にどうかしている。
昼休憩に入るまでスマホは黒いトートに仕舞われたままだった。弁当を取り出すまで思い出さなかったというわけでもないが、なんとなく、見たくないと思った。獅子王が前の席に陣取り、椅子ごとこちらに振り返る。
「物理がやばい」
「お前数学できるだろ」
早弁を前の休み時間で終えており、追加した焼そばパンを齧りながら同田貫が言う。計算は出来るが問題文がよくわからん、と獅子王が頭を抱える。弁当の包みを広げる。
「言ってる意味とか、どういう状況かがよく分かんねぇんだよな。原子やべぇ」
「でも赤まで行かないだろ」
「うーん、ギリギリ。大倶利伽羅の英語よりはマシだな」
に、と笑いながらこちらを見る。この界隈では試験の点数を相互に確認し合っている。俺の試験結果を獅子王が勝手に同田貫と覗いているとも言える。別に見られたところでどうということはない。
「なら問題ないだろう」
「自分で言うか?」
「ま、別に教科書のが読めるわけじゃねぇがよ、大倶利伽羅のは見てすぐやべぇって分かるからな」
「それな。どこがやべぇかは分かんないけどな」
散々な言われようだが、実際そうなのだから仕方がない。二年の頃、英文法を担当した教師に、どこが分からないか、と訊かれ、何も分からない、と答えた時に浮かべられた顔を、長谷部が見ていたなら、おそらくバイトを続けられていないだろう。三者面談は試験の点数と担任がオブラートに包んだ苦手箇所の報告だけで済む。
「お前あれが分からないんだよな。あのSが述語とかのやつ」
「ああ」
「あの選択問題とかでよく出るやつな」
「そうそう。あそこ全部外して去年呼び出されてたもんな」
「全部はきついだろ」
「獅子王。Sは主語だ」
がた、と椅子が鳴る。一瞬間を置き、獅子王が同田貫と顔を見合わせふきだした。
「え、マジか。憶えたのか?」
「それ以外は忘れた」
笑われながら弁当を食べる。傍に置いていたスマホを見る。まだ機内モードなのだから新着も何も表示されない。
「同田貫は何がやばい?」
やばい教科がある前提で話が進む。
「世界史。今度条約名全部同じの書いたら落とすって言われた」
「二つ混ぜればいいんじゃね」
「それもダメだとよ。もうやった奴がいるらしい」
「頼むぜ先輩」
会話を聞き、時々返しながら弁当箱を空にし、片づける。トートの奥に同化していた手袋がある。確実に高い物だ。高校生の身の丈に合わないのだし、着ける気が起きない。
……電車でのことを思い出す。熱くない白い手。それを女のようだとか、細いとは思わない。ただ、弱そうだと思った。言ったら嫌がられそうだが。切りそろえた爪の形が浮かんで、途端、居心地が悪くなって椅子の背もたれに体を押しつける。ぎ、と軋む。獅子王が俺を見た。
「最近大倶利伽羅、やたらスマホ見てるよな」
言われて瞬きをする。は、と短く息を吐くが、そうだな、と同田貫が同意する。背を椅子に預けながら二人を見る。
「そうか」
「何、彼女か?」
「そうじゃない」
言いながらスマホを手に取り、スリープを切った。どうするか、と思い、機内モードも解除する。電波が入る。チャットに新着のバッジが浮かぶ。
「あんまスマホ弄るほうじゃなかったのにな」
揶揄いが含まれた笑い顔を向けられる。そうだな、と答え、チャットを立ち上げる。猫のアイコン。開くと、未読コメントが『やりたい』の一言で開始されていた。投稿時間を見る。少し間があって回答されている。
『でもバイトあるだろう』
これはすぐに打たれたようだった。テキストを入力する。
『今日から休みだ』
打って、スリープにする。机には置かず学ランのポケットへ入れた。獅子王と同田貫が総合点の高さでラーメンを奢る話をしているが、この中だと何か起こらない限り大概獅子王が勝つので、どう勝敗をつけるかでもめている。変な話だろう。全員所属学科は違うのだし、選択科目もバラバラで、純粋に勝負できるのは共通科目と体育の試合くらいだ。ポケットが振動する。
『そうか。日はいつがいい』
簡素な答えだ。茶を飲む。
『いつでも。今日でもいい』
送信して、早いな、と自分でも思う。流石に急すぎるだろう。すぐに既読がつくところを見るに、向こうもいま昼休憩なんだろう。
『いいのか』
『場所が無いがな』
『そっち側に市立図書館がある。たぶんそっちの学生証でも入れる』
図書館。縁が無いからそういった情報は持っていない。市立ということは、試験期間の入りが近いのだから、向こうの生徒で溢れているんだろうか。すぐに提案されたのも利用者が多いせいだろう。面倒だと思う。
ふと、思いついたのだが、すぐに隣人の光忠が浮かぶ。同田貫と獅子王が来た時には冷やかしこそされなかったが、僕は伽羅ちゃんに友達がいてとても嬉しいと盛大に喜ばれたのが屈辱だった。どうする。
「大倶利伽羅も賭け参加だからな」
獅子王が言った。ああ、と頷き、チャットを見る。
『俺の家でやるか』
送って、既読がつき、間が空いた。悩むだろうな。スリープにする。直後振動した。
『土産がない』
判断基準はそこなのか。
この返事ということは拒否ではないのか。分かりやすいのだが、分かりにくい返しが多い。
『わざわざ持ってくるものじゃない』
『すまない』
なんの謝罪だ。またスタンプでも押されるのか。やっぱ彼女だろ、と言う獅子王は無視する。
『こういうことで誰かの家に行ったことがないから分からない』
予鈴が鳴る。獅子王が席に戻るため立ち上がった。隣の同田貫が、それ仕舞えよ、と助言を寄越す。授業中に携帯端末が鳴ったら帰りまで取り上げられるのだ。机から教科書を出す。
『うちは五限までだ。放課後駅で。都合悪くなったら連絡しろ』
打って、スリープ、機内モードに設定する。黒いトートに滑り込ませた。もう数分もなく授業が始まる。
[newpage]放課後。正門から出て駅へ向かう。まだ気温は低い。今日はこのまま上がらないんだろう。
チャットを開くと、猫が驚いているスタンプが押され、『間違えた』、見覚えのある了承のスタンプ、『すまない。隣と間違えた』の連打があった。息を細く吐く。白く霧散して消えていく。スタンプを使ってもいいと言わなければよかった。不意に使われると心臓に悪い。
駅に着くと、南口から数人の私立校生が出てくるのを見かけた。恐らくそいつらの向かう先に図書館があるのだろう。想像通り、女子生徒の塊と、カップルらしい二人組が続いている。目を細める。行かずに済ませて正解だった。
改札前を見るが山姥切はいなかった。スマホのスリープ画面にも新着は無い。遅れているのか、もしくはいまここに居るのが違う学年か、考えたところで、西口から見慣れた奴が歩いてきた。傍目にフードはやはり目立つだろう。
こちらに気付く。やや早歩き気味に駆け寄ってくる。
「いた。そっちが早かったんだな」
「ああ」
朝見たのと同じように防寒具を身に着けている。鼻の頭と頬が赤い。こちらに並んだのを見て、改札を通る。後ろに山姥切が続いた。
ホームにも普段より学生がいるような気がした。皆流石にこの期間は学校に留まるか、早めに帰宅するらしい。すぐに電車が来る。座席はほぼ埋まり、朝と同じように壁に山姥切がもたれ、その近くに立った。吊革に掴まる。あの日以来痴漢とは遭遇していない。
「急にすまない」
リュックを前に抱えながら山姥切が言う。電車が揺れる。
「別にいい」
「家に誰かいるのか」
「いないな。長谷部はほとんど家を空けている」
金曜まで遅くなるのは仕事が詰まっているからだ。しかしまさしく忙殺されていた先週は、始発で一時帰宅する日があるか無いかぐらいだったのだから、今週家で見かけた頻度は比較的多いほうだった。俺もバイトが入っていたので詳細は分からないのだが。その忙しさであって俺のスケジュールを把握してくる。いつか本当に倒れるんじゃないかと思う。
「今日は帰ってきてもたぶん終電あたりだろ」
「……大変なんだな」
「あれは違う。趣味が仕事だな。会社を休むほうが具合が悪くなる」
「凄まじいな」
駅に着き、人が多く下り、席が空くが、見ても山姥切は座ろうとしなかった。代わりに乗り込んできた主婦らしい女性が座る。壁にもたれた山姥切と、俺は吊革を掴んだまま、電車が動き出す。景色が流れていくのを見る。もうすぐこいつの最寄だ。そして気づく。
「……悪い」
「どうした」
謝ると、山姥切は首を傾げた。
「こっちのほうが遠い」
山姥切の定期圏外だろう。確か最低限の乗車料金ではあるが、往復でかかってしまう。フードをかぶった頭が持ち上がる。およそ同じ高さに緑色の目があった。
「チャージしてるぞ」
「そうじゃない」
長い前髪がある。薄く口が開く。手袋に包まれた手がフードを下ろし、少し俯き、抱えたリュックの紐を弄る。
この仕草をするとき、不安を感じているのだと薄々気づいている。何かで身を守ろうとする動きだ。
「二駅ぐらい俺も移動できる」
どう卑屈に捉えたのか分からない返答だった。
山姥切の最寄駅に着く。人が出入りし、ドアが閉まり、発車する。俺と山姥切は乗ったままだ。おそらく普段は使わないだろう方向へと乗せて走る。
残りの二駅、互いに無言だった。いままでにも何度でも会話の無いタイミングはあった。それでも、横を向いたままの山姥切が、見慣れない景色を見ているのか、何を考えているのか、俺には分からなかった。この空気は少し面倒だとも思う。
最寄駅に向けて電車が減速を始める。
「下りるぞ」
言うと、声は出ずただフード頭が頷いた。同じドアから降りたのは俺たちだけで、ホームには年配の夫婦、主婦、母親と子供の組み合わせが散見できる。まだ明るい日中のようで、実際はしみるように寒い。
学生は俺たちだけか。背後でドアが閉まり、電車が出て行く。向こうは終点だ。皆あちらに用があるんだろう。
俺と山姥切はそこに立ちすくんでいた。長い前髪の下からこちらを盗み見られている。噤んだ口。静かにリュックを背負い直している。
「ここから遠くない」
「……そうか」
手の甲に留めていた手袋のフードを、外して指へとかぶせている。寒いのだろう。左手がミトンのようになる。子供だと思った。実際二つ下なのだが。
降りてからずっと俯いているのが気に喰わなかった。体の向きもこちらになく、いまは改札の方向へと視線が飛んでいる。なんとなく不満が浮かんだまま、目の前にある生成りのフードの、頂点をつまみ引き下ろす。何の前触れもなく手を出したこの行動も大概ガキ臭かった。
するりと。抵抗もなく、包まれていた山姥切の頭がむき出しになる。
金色の髪だった。前髪が見えていたのだから色は分かっていた。それが、明るい景色の中で陽の下に晒される。形の良い後ろ頭に沿って、ショートの長さの細い髪がいくらか、フードの生地に引かれて無造作に流れた。山姥切が反射でこちらを振り返る。ひどく驚いた顔で、緑の目が大きく見開かれている。
「……っ!」
すぐにフードは戻された。動揺したのだろう、毛を逆立てる猫のようになり両手でフードを頭に押さえつけている。警戒されていなかったのか。もしくは、さほどパーカーについて話したこともなかったのだから興味が無いと思われていたか。俺は上げた手をポケットへ突っ込む。
「行くぞ」
言って、歩きだす。ややあって、その後ろから山姥切が追ってくる気配がした。まだフードを押さえてるんだろうか。俺からは見えない。
改札を出るとすぐに住宅街がある。線路に沿って少しは店が立ち並んでおり、家の冷蔵庫を思い出し、そちらへと向かった。
「家に何もない」
「え」
「店に寄る」
山姥切が後ろから追いつき、少し横並び気味に近づいた。一番近いコンビニを素通りし、隣のスーパーへと入る。涼しいはずの風はむしろ適温にすら感じた。
店内カゴをもって中へ進みながら、思い出し、スマホを取り出して光忠にチャットを送る。
『今日は飯はいらない』
ポケットへ滑り込ませる。毎日食べにいくわけでもない。週末なのだから珍しい連絡でもなかった。
「茶でいいか」
聞くと、伺うような目のまま頷かれる。こっちが訊いているんだが。でかいほうのペットボトルを取る。
適当に菓子でも買ったほうがいいのか。前に獅子王と同田貫が来たときは、勝手に獅子王が追加していたから加減が分からない。山姥切が初めてあがる家で大量の食べ物を消費するようにも見えなかった。
様子を伺うと、冷えたデザートの並ぶコーナーにいた。後ろに立つとあからさまに避けられる。
「食いたいのか」
「いや、違う」
フードを引き下ろしている。食いたいのか。
「一つだけだぞ」
明らかに揶揄を含めて言う。
「……子ども扱いするな」
分かっていて腹が立ったんだろう。言い返す山姥切の横から、ヨーグルトのカップを取って籠に入れた。さっき見た車内での様子はこれか。高校生など傍から見れば揃って子どもだろう。
山姥切を置いて、切れそうになっていた牛乳を買う。やはりスーパーの方が安い。逡巡し、こんなもんか、と再度山姥切を見るが、まだ決めかねているようだった。
「早くしろ」
「ちょっと待て」
初対面から一月ほどの間に、初見の印象より図々しい態度も取る奴なのだと知った。と思えば変なところで遠慮をし、引いた身を隅に置き無言でいる。しかし同情には敏感で、問題ない、と口にする。悩んだ結果カゴにはプリンが追加された。
「……」
「……なんだ」
「悩んだ割に普通だな」
うるさい、小さく抗議される。会計を済ませて外に出る。
「払う」
「後でな」
言って、マンションへと向かった。また無言になる。ただ、息苦しいものではなかった。
物珍しさからだろう、山姥切がきょろきょろと落ち着かないのを眺めて歩く。駅からも見える近さの建物、その敷地へと入った。どこへ向かっているか理解した山姥切が仰ぎ見て瞬きをする。
「……でかいな」
エントランスで郵便受けを空にし、チラシをゴミ箱へ入れながら、キーケースを取りだしオートロックを解除する。
「お前の家もでかいだろう」
エレベーターホールには誰もいなかった。ボタンを押すと、すぐに下りてきてドアが開く。部屋のある階を押す。
「もう本家には住んでないんだ」
空のエレベーターに二人で立つ。上昇に浮遊感と重みを感じた。山姥切がぽつりと零す。
「いまは近くに家と車が与えられて、そこで兄弟たちと暮らしている」
目的の階にはすぐ着いた。連れて、うちの部屋の前に立つ。出したままだった鍵を差し込む。
「入れ」
「……お邪魔します」
雑な促しに静かな言葉が返る。
「……」
「なんだ」
「……正直、どうしたらいいのか分からない」
玄関でまごつく山姥切の背を押した。狭くはないが、そこまで広くもない。
「とりあえず上がれ」
「わ、わかった……」
いそいそと靴を揃えて上がり込んだ山姥切は、しかしその場からも進もうとしない。気が引けているらしい。俺は住み慣れた家の廊下にこいつが立っているのが異様に見えていた。変な感じだ。
「ただいま」
「……お帰り」
習慣で出た言葉に、恐らく向こうも無意識だろう返答がある。目が合った。その赤くなった顔を見て思わず笑ってしまう。
「すごい顔だな」
「なら見るな」
「いいから中に入れ。邪魔だ」
「うるさい……」
フードを押さえながらリビングへと向かう背中を見て、口元を手で覆う。思わず、とはこういうことか。口角を軽く押さえながら考える。いまの状況を長谷部に見られたら死にたくなるし、光忠に見られたら記憶を抹消したくなるだろう。
「座ってろ」
室内ドアを通り、ソファの背にマフラーを投げ、リビングのエアコンをつける。フローリングは異常なほど冷たかった。ソファの端に山姥切が収まる。冷蔵庫に牛乳と二つのプラスチックカップを入れ、棚からグラスを二つ取る。ふちの薄い華奢なデザインは男二人の家よりカフェにでも置いていたほうが仕事もあるだろう。こういった食器は気づけば勝手に増やされていて、原因は光忠がこちらに来て料理をすることもあるせいだった。貰いものだから、と棚を埋めていくグラスや皿を見て長谷部の眉間にシワが寄っていたのを思い出す。
「そっちは微積だけでいいのか」
キッチンから訊ねると、落ち着かない様子の山姥切が、ああ、と浮いた声で返事をした。緩慢な動きで防寒具を取っている。
グラスと茶のペットボトルをソファ前のローテーブルへ置く。俺はそのまま床に座った。ラグがあるので問題ない。学ランを脱いで隣に置く。山姥切にもジャケットを脱ぐように言い、きちんと畳んでソファ隅に乗せるのをむず痒い心地で眺めた。
「大倶利伽羅」
「なんだ」
倣ってソファからラグへと座り込みながら、山姥切がグラスを見ている。エアコンが温風を吹く音が微かにする。パーカーを着た目の前の顔色が白い。
「あんたの家は緊張する」
「……慣れろ」
「無茶を言う……」
ペットボトルから茶を入れてやる。それを受け取りながら、なんとか落ち着こうとしているらしい、うう、と唸る声を聞いて、短く息をつく。
笑うな、と言われて、笑っていたのかと自覚した。俺もとても勉強できる気分じゃなかった。
[newpage]青みがかった緑のシャープペンが形よく持たれて、ゆるゆると途中計算を書いていく。走る字はあまり上手くない。俺もさほど人の事は言えない。
「定義は」
「aが定数。だから……これか。あとこっちの短い公式」
「そうだな」
「なら、……マイナス1……こうか。……合ってるか?」
「ああ」
ワークブックを埋めていく。次の問題へと向かう。ローテーブルの角隣に座り、片膝を立て、そこで頬杖をつきながらペンを走らせる様子を眺めている。
試験範囲だというページを確認すると、確かにやった覚えのある公式が並んでいた。本当に基礎だ。できないのか。訊ねると、うちは三十五からが赤点で六十以下は補習なんだと返ってくる。地獄か。
「赤点ではないが、数学は少し油断すると補習までギリギリになるんだ」
「お前、うちだったら学年上位だったろうな」
教科書をぱらぱらとめくる。うちで使ったのとは別のものだった。知らないキャラクターが喋っている。山姥切が度の弱いレンズ越しにこちらを見る。
「俺では中学の時点で進路を決められなかったから、無理だな」
幾らも入らなさそうなペンケースと、眼鏡ケースがテーブルに並べられている。白のハーフリム眼鏡はあまり見かけないものだが、かけるとさほど違和感はなかった。こいつが全体的に白いせいだろう。まだフードはかぶったままだ。長い前髪が細い眼鏡フレームに少しかかっている。考えずとも分かる、視力低下の一因だろう。
「……終わった」
「基礎だからな」
「すごいな。すごい、……疲れた」
指を眼鏡の下から入れて目を擦っている。シャープペンは転がり、ワークノートは試験範囲だというページの直前まで埋まっている。残る範囲はまだ授業で習っていないらしい。試験期間の開始が来週末だと言っていたからそんなものだろう。
「ここから先はやらないんだろう」
「……ああ。授業で習ったら自力で解かないとな」
残されたページ。提示される公式を、いままさに応用単元で使っている身としては、問題も含めて随分簡単だと思えてしまう。バカの自覚はあったが一応身にはついているらしい。魔が差した。
「シャーペン貸せ」
手を出すと、山姥切はさっきまで使っていた緑のペンを見て、しかしそれは取らずにペンケースをいじる。何だ、と思うが、予備があったらしい。金色の細いペンが出てくる。
渡されて、山姥切の自主学習用らしいルーズリーフを一枚勝手に抜いた。ワークノートを見ながら解いてみる。答えを出すが、いまではこれも途中計算の内だ。この答えを使ってうだうだと長い計算が続く。ため息をついた。やはり自分の勉強をする気にはならない。
「どうした」
「試験勉強が面倒だと思っただけだ」
「そうか。俺もだ」
そうは思えなかった。真に嫌がる種類の人間は、試験勉強をしに友人宅に来ても喋るだけ喋って何も進まないのだ。真面目め。思いながらシャープペンを見る。
細身の重心を探り当て、指でペンを回す。金色が室内灯の光でも閃く。山姥切がこちらを見ているのに気づいていた。緑と金色。分かりやすいやつだと思う。
「金か」
「……」
山姥切が黙る。見ると、こちらから視線を外している。口が引き結ばれているのは緊張か。こいつはいつ力を抜くんだろうか。
「お前の髪の色だな」
緑の目に金の髪など、映画の中で見るような配色だろう。ペンを回し、残像のように金色の線が浮かぶのを眺める。山姥切が俯く。その仕草はもう見慣れている。
「……違う」
独り言のようだった。顔が赤い。自分のこと結構好きだろう、口にしようとしたが止めておいた。
山姥切は疲労からか、ローテーブルへと腕を組み顔を突っ伏した。一眠りでもしそうなポーズだ。猫か、子どものようだ。これも言わないでおく。
目の前に生成りのフードがある。もぞもぞとしているのはかけたままの眼鏡が邪魔なんだろう。ああ、心内嘆息しながら、手を伸ばし、駅と同じく頂点をつまみ、持ち上げると、止めるように山姥切の手が俺のを掴んだ。どう出るか、そのまま様子を見る。僅かに顔が持ち上がる。
「なんなんだ、今日は」
まだ少し赤い顔で苛立ちの滲んだ声を出す。
室内でもかぶったままなのがどこか気に喰わなかった。無言のまま掴んでくる山姥切の手を剥がそうとすると、やめろ、と向こうも力を強めた。本格的に睨まれ、フードをつまむ手を離す。ようやく山姥切が体を起こす。
「なぜ脱がそうとするんだ」
「校内でもフードか」
「……うるさい」
答えになっていない。俺もか。
山姥切の白い指が俺の手から離れていく。やはり熱はあまり感じない。自分の体温が高いのだと自覚するし、どこかつまらないものだと思える。
顔を見ようとすると著しく山姥切の機嫌を損ねた。分かっていて、フードを頑なに取らない姿勢が不快だった。明るい陽の中、駅で見た貴重な首から上は、随分整っているのだと思ったのだが、それを本人は嫌っているらしい。しかし隠そうと意地を張られるとこちらも煽られている心地がする。
「俺の顔なんか見てどうする」
「さあな。ただ、そこまで嫌がられるといっそ何なんだとは思う」
ワークノートとペンを返す。もう数学はしなくてもいいだろう。このまま忘れて、俺の英語を放っておいてほしい。
「……あんたは」
少し俯いた山姥切を見る。いつであれこの角度だ、見えるものと言えば前髪と鼻と口くらいか。
「何も隠す必要なんか無いんだろう」
ああ。
腑に落ちる。これか。不快の出所を知る。まるで自分が世界の底辺にいるのだと思っているのだ。こいつは。呼んで来る誰かがいる。雨風を凌げる家がある。通う学校とその身がある。こいつの環境など聞いた範囲しか知らないが、それでも、こんなにも卑下する姿勢が気に喰わないのか。俺は。
俺もこいつも大概お互いを知らない。知らなくとも死にはしないし、不幸自慢はそれこそ馬鹿馬鹿しいだろう。なんでも前向きになれなどと無責任な助言もしたくない。他人の事情に興味はない。傷の舐め合いなんて望んでいない。不要なことを言って、言われて、踏み込まれるつもりもない。そう思ってきた。いまもそう思っている。
それであって、尚のこと。
山姥切が、言っておいて俺を伺うような視線を寄越す。譲らない範囲を持ち得ているのに周囲の目を気にしている。俺は胡坐をかいて、少し間を置いた。どうするか。瞬きの間だけ考える。生憎長く悩むのは性に合わない。
何も言わずに、着ている黒の長袖、その左腕側を捲った。肘までの皮膚が露わになる。
「何、……っ」
言いかけた山姥切が口を噤む。緑の目が見開かれている。眼鏡をかけているのだから普段よりよく見えているんだろう。
肘から先、剥き出しにした薄く褐色の肌には黒い刺青が走っている。鱗に覆われた細長い身を、腕に巻き付かせるような模様で、昔見られた折には不良だと揶揄われたこともある。事実引かれたんだろう。鱗身のところどころには浅い火傷の引きつれ痕もある。
自分の外見が愛想よい雰囲気を持っていないのだと分かっている。振りまくつもりもない。ただ、これについては常に隠すことを選んでいた。
「龍だ。……大げさな範囲に彫られている。顔は左肩の後ろだ」
ローテーブルへ、むき出しにした肘をつく。龍の尾の先が彫られた手首内側、そこを驚いた顔の山姥切が無遠慮に見つめている。長袖を着ても不意にこの範囲が裾から見えることがあった。聞かれることも、見逃されることもあって、校内の教師には家の事情だと重苦しい回答をすれば、大概夏場のアームカバー着用は黙認された。
「昔母親に連れていかれた店で入れられた。ぼろいアパートに住んでいて、やばい隣人が放火したおかげでうちまで全焼した。そのとき両親は死んで、長谷部に引き取られた」
腕をテーブルに伏せて寝かせる。汲んだのか、気の迷いか、山姥切の指が伸びた。緑色の視線がこちらに寄越される。何も言わずに、目を合わせてから、逸らし、山姥切の指を見る。恐る恐るといった様子で俺の腕に山姥切が触れる。
熱のない指先。刺青を入れた箇所は若干の凹凸がある。引きつれは見た目の割に別段痛みもない。ただ、他人に見せるものでもないと、いつであれ左腕は何かで覆っている。
「俺にも隠すものくらいある」
袖を下ろす。山姥切の手が離れた。間がある。いつであれ沈黙が容易に訪れる。
「……なんで」
かろうじて聞こえる程度の小さな声だった。
「なんで、あんたはいつも、……」
山姥切が両手で顔を覆う。眼鏡が押し上げられて、フードのふちに当たっている。眼鏡のフレームに指をかけ、引き抜いて外してやった。
放っておけばこのまま泣くだろうか。開いているワークノートの上に眼鏡を置く。山姥切が頭を前に沈ませた。
「俺は……」
言葉が途切れる。
外は暗くなり、数学を見ている途中で引いたカーテン、その向こうはもう様子を伺い知れなくなっている。時計を見上げた。もう六時か。動かなくなった山姥切をそのままに、ペットボトルを取ると、空になっていたグラス二つに注いだ。置いた音に気付き、ゆっくりと弱々しい体が持ちあがる。おもむろにグラスは取られ、一口、喉が動く。大人しく唇は離れた。
「俺は双子なんだ」
静かな声だった。グラスを置く音が鳴る。俺は飲みながらそれを聞いている。
「親が離婚して、別々に引き取られたんだ。向こうはなんでもできた。俺なんかよりずっと」
そこで黙る。俺はグラスを置き、そうか、とだけ答えた。それが何故頑ななフードに行きつくかの流れまで考えるのは面倒で、詳細を訊ねるのも趣味ではなかった。
こういう話を、口にしたいとは思わないのに、時折誰かに言いたくなるのは何なんだろうか。憐れんでほしいのか。同情が欲しいのか。どちらもそうではないと感じるのに、結果、俺は山姥切に話し、向こうも俺に吐き出した。
お互い安易に共感できるものでもない。何もかも違うのだし、今の環境も重なるものではなくて、それであって、おそらく、目の前の相手が言いふらすことはないだろうと、ただそれだけの浅慮で心臓の奥に仕舞っていたものを取り出している。時折夢に見て、忘れていたのかと突きつけられるような。それを飲み込んで、朝を迎えるような。自分一人で昇華するしかない記憶だ。他の誰にも触れさせたくない柔らかな場所。
「本家ではみんなに比較された。向こうが良かった、あいつを引き取れば良かったと。俺は二人分なんだ。俺が何かするたびに、俺の向こうにあいつを見ているから」
こいつの感じ方も特別だろう。卑屈は自分への自信のなさと、力不足だと決めつけているせいか。
「お前は一人だろ」
図々しい。自分自身に二人分の何かを求めている。誰かに言われたのだろうか。出来る訳がないだろう。美化される過去の片割れを、見えなくなってからも比較対象にするのは不毛でしかない。
緑色の目が俺を見る。困ったように細められ、見たこともない弱った笑い顔を浮かべている。
「兄弟と同じことを言うんだな」
その一言が本当に、何故だかわからない程、無性に不快だった。
気づく。俺はこいつに頼ってほしかったのだ。救ったつもりになりたかった。いつからなど分からないのだし、こいつの薄弱さに引きずられたせいかも知れない。それでも、俺より先に、こいつに同じことを告げたやつがいるのが不快で、そうか、もう駄目だと思う。
踏み込ませている。踏み込んでいる。知らぬふりをしていることすら無視し続けて、戻れないところに来てようやく自覚したと錯覚している。分かっていた。電車の時間をずらせばよかった。連絡先など教えなければよかった。家になど呼ばなければよかった。全部選んだのは俺だった。
山姥切を見る。向こうも俺を見ていた。無言で、何も交わさず、動こうとしないから、仕方なく俺が手を伸ばした。
フードを下ろす。抵抗はなかった。金色の髪が現れ、布に引かれて前髪が少し後ろへと流れた。白い額が見える。青い緑の目、薄い唇、整った造形がはっきりと目の前に現れる。
双子だったのか。これが並んでいたら壮観だっただろう。俺がそれを見ることはない。生憎俺が知るこの顔は一人しかいない。
「綺麗な顔だと言われるだろ」
瞬きをして、俺を見る目は随分落ち着いていた。腹を据えたのか。その表情は嫌いじゃない。
「そう言われるのは嫌いだ」
はっきりとした口調だった。その言い方は好ましかった。俯いてぐずついた返事をされるよりずっと気分がいい。
「綺麗な顔だな」
口にする。山姥切がこちらを見ている。そして、口を引き結び、手を上へと持っていった。しかしそこにフードは無い。気付き、前髪を抑える。額を覆うようにして俺の視線を避ける。
「……綺麗とか、言うな」
バカか。悪態が続くが無視する。前髪を押さえる手、白い人差し指に自分の人差し指を絡め、そこから退けようとする。やめろ、と言いながら手は払われた。金髪の下にのぞく耳が赤い。ここまで色がつくとはフードに隠れていて気付かなかった。
「なあ」
「何だ」
「好きだ」
山姥切が止まる。まさしく固まったと言えた。
前髪ごと額を押さえる手も、居心地が悪そうにしていた肩も、目に見える動き全てが止まる。
しん、と部屋の中が静まり返るのが分かった。この空間で生きているのが俺だけのような気さえした。弱くエアコンの吐く音が聞こえる。
呼吸はしてるのか。
そう思ったところで、山姥切の手がおもむろに下りる。顔が見えた。俺の方へと合わせようとしないその目には怯えがあった。
「おい」
「いやだ」
静かな声だった。やたらはっきりと聞き取れたのは、俺が聞きたくない言葉だったからだろう。緑の目はこちらを見ない。俺は、上半身を向こうへと寄せた。
「山姥切」
「……なんで」
身を引かれる。後ろに手を付き、離れて行きながら、ようやく山姥切が俺を見る。その顔は蒼白だった。急変した様子は不穏だった。俺は立ち上がる。
山姥切の前に移動した。見ている間にも白い顔で向こうへ後ずさっていく。膝を付き、おい、と声をかけるが、瞑目して頭を振られる。
「なんで、そんなこと言うんだ」
「何がだ」
「俺は」
後退が止まり、後ろについていた手が持ちあがる。両手で顔を覆い、泣いたか、思うが、またその状態で固まったようだった。見たところ、呼吸はしているらしい。口を開くまでそのまま待つ。
「俺にそんな資格、ない」
卑屈だ。卑下だ。答えとしては最低の部類だろう。指の背で、顔を覆う手の甲を撫でる。びく、と肩が揺れた。
「俺が言うにも資格が必要か」
「違う! そうじゃない……俺は……」
「ああ」
「俺は、もう……良かったんだ」
緩慢な動きで、山姥切の手が顔から離れる。その下は苦しそうな、何かを堪える顔だった。泣くのか。思うが、それはまだ訪れないようだった。涙が堪えられているのか。
良かっただと。こんな顔をして、何を。
「あんたに優しくされて、それで……それで良かったんだ。もうそれだけで良いんだ。それだけで足りるんだ」
繰り返すように言う。自分に言い聞かせている。期待するのを止めている。これ以上を望もうとしないように。
俺は、どこか冷静な気持ちで山姥切を見ていた。今まで何かに向けた好意を口にすることはほとんどなかった。好きか、嫌いかなど、その時々によるのだし、俺の主観的な感想などいつも必要だとは思えなかった。
案外あっさりと口にできたものだ。体の中から外へと落ちていくような心地だった。そしてそれを言うべきだと思ったのだ。こと、こいつに関しては。
「優しくされて足りるのか」
震える白い手が山姥切自身の胸のあたりを掴む。握りしめるお陰でパーカーとニットベストに強いしわが浮く。
「……ああ」
「俺と友人でいて足りるか」
「……」
「悪いが、俺は足りない」
ぱた、と水滴が落ちる。山姥切が瞬きをし、睫毛が濡れ、目の色が滲んでいる。涙腺からいくつも水滴が溢れてくる。
胸のあたりを握りしめたまま、もう片方の手が顔を覆う。それを掴むが、引き寄せはしなかった。見る間にパーカーの袖がじわじわと濡れていく。
「あ、あんた……酷い奴だ」
「お前は往生際が悪い」
ぐ、と飲み込む音がする。フードは避けたはずだが、どうにも顔を見せないように強いてくる。根気か。ここまで来てはこちらも引き下がれないだろう。
「言え。資格が必要なら俺がくれてやる。俺は言っただろ」
掴んでいた腕を引く。とめどなくぼとぼとと涙を落とす双眸が、俺を見上げる。緑の目。
「……、お、俺は……」
「ああ」
しゃくりあげる。喋れるのか。呼吸が整うまで間が開く。言葉を待つ。
「俺は……」
「ああ」
「……嫌なんだ。あんたといると、つらい。自分が惨めで……」
声が引き攣る。目が俯いたり、俺を見たり、忙しなく揺れるから、瞬きのたびにパーカーが濡れていく。俺が掴むあたりまで滲んでいた。
「苦しい。息がしづらい。自分が、何でも下手なのは、分かって、いるが、でも、粗相をするんじゃないかと不安で、それで……それで居心地が、悪い。なのに、同じ時間に乗ろうとするんだ。あんたが……いたら、……安心するんだ。バカみたいに。あんたから返信があると、嬉しいんだ。俺は」
顔が伏せられる。パーカーの腕に新しい滲みが増えている。指先に金色の細い髪が触れた。そこまで熱を持ったように熱いのだ。
「……俺も、あんたが好きだ」
それだけで良かったのだが。盛大な言葉を投げられたものだ。
なにか、俺が口にした言葉が軽くなるほどの重さだった。泣いている山姥切を見る。
「……そうか」
言って、ついていた膝を伸ばして立ち上がる。
同時に掴んでいた手を引き上げ、ようやく大きな息を吐いた山姥切をむりやりに立たせた。
「っ、」
驚いて絶句する山姥切の顔を見ないまま、なるべく静かに体を寄せる。あまり身長差はない。正面から腕を回し、泣いている子どもが親にされているように肩の裏を弱く叩いた。
「な、何……」
「よく言えたな」
「……っ!」
俺の肩に山姥切の頭が伏せられる。俺の服にも水分が滲んだようだった。ず、と鼻を啜る音と、弱く俺の背に回された手が、恐る恐る抱き返してくるのを感じる。
「……あんた」
「なんだ」
顎をくすぐる金の髪が細く、こそばゆい。首筋に当たる耳が熱い。
「あんた、俺があんたを、好きだって知ってたろ」
「知らんな」
「……嘘つけ」
くぐもった声だ。山姥切が顔を上げる。俺の肩に顎を乗せ直し、僅かに首を傾げると、控えめに耳朶のあたりにすり寄ってきた。胸が痛む。なんだろう、これは。すぐ近くで鼻がぐずついている。泣きだしてから止められないんだろう。
「お前が俺を友人止まりで見てると答えようが、同じことを言ってる」
「……嘘だ」
「しつこい」
「やっぱり酷い奴だ……」
語尾を消しながら吐き出すように言う。涙は落ち着いたんだろうか。少し腕の力を強めるが、ん、と鼻にかかった声がしただけで、嫌がられはしない。もう疲れたんだろう。
「もしその通りなら、お前は趣味が悪い」
「……そうだな」
後ろ髪が引かれた。長い襟足を指に絡められたようだった。梳くような動きと、指に巻き付けるような引きがある。俺も肩に回していた手を金色の頭に乗せてやる。細いとは思っていたが、指の腹で撫でる山姥切の髪は心地よかった。見えないように少しだけ笑う。
「あんたは酷い奴だけど、……でも好きなんだ」
「そうか」
俺も首を傾ける。人に抱き締められた記憶が思い出せない程遠い。背中に添えられるだけだった手が、俺の肩を掴むように移動する。体が隙間なくくっつく。悪くない気分だった。
[newpage]山姥切が落ち着いたところで、ソファに並んで座る。肩にぐったりとした頭が重たげに寄せられた。間に挟まれた俺の右手は山姥切の手慰みに弄られている。
「……疲れた」
「だろうな」
まだ鼻をぐずつかせながら、金色の頭が据わり良い位置を探して押し付けられる。好きにさせることにした。互いにどう思っているかを伝えたところで、こいつの俺への感想は酷い奴というのが圧倒的だったのがムカついている。
手は特に力を入れていないせいで山姥切が延々撫でたり、指を弱く折ったり、爪のふちをなぞったりしている。暇なんだろうか。もしくは何も考えていないんだろう。気を張っていないこいつは比較的行動が幼いのかもしれない。
「そういえば」
「ああ」
「英語してないな」
鼻が詰まった声でどうでもいいことを言う。空いた逆側の手でもたれかかる頭を撫でた。さらさらと髪が揺れる。まだ熱を持っている。うっすらと汗もかいているらしい。
「いらんことは思い出さなくていい」
「あんた、どうするんだ。ヤバいんじゃないのか」
「どうでもいいな」
「あ、でも」
掌に掌が重なる。少しずらされ、色の強い自分の指の間に、白い指が絡まってくる。悪くないと思えた。弱く握るように力を入れる。
「あんたがまた留年したら、卒業一緒になるな」
恐ろしいことを言う。
「それはない」
「二回するのはダメなのか」
「留年したのは二年の時だ。それに、もう就職が決まっている」
山姥切の指が固まる。そういえば言っていなかったか。握る力を緩めた。指は離れていかない。
「就職するのか」
「うち工業高だぞ」
「……そうか。……そうだな」
頭が擦り寄ってくる。俺も考えが緩んでいくのを感じていた。右半身に感じる、自分以外の人の気配が不快でないのは不思議な心地だった。
「どこに就職するんだ」
「伝の建築事務所」
「へえ、すごいな」
「すごくはない。伝だと言った。あとは短大卒が必要になるから、専門の夜間にも通う」
「大変じゃないか」
言葉と同時に山姥切の体が離れる。身じろぎでソファが僅かに揺れた。こちらを見る目は随分真剣で、赤く腫れた瞼のふちが痛々しい。何となくなぞる。熱く柔らかい。思っていたら、誤魔化すな、と何故か怒られた。
「この時期の成績も向こうに渡るんだろう」
「そうだな」
「あんた……」
「勉強はしている。それに、うちはもう少し時間がある」
ソファにもたれる。不安げにこちらを見る山姥切を眺める。存外まともな常識はある。そこに自分を当てはめないのはどうにかならないのか。
「また試験勉強にかまけて来ればいい」
「……」
「今日は俺も疲れた。お前が頑固なせいだな」
か、と赤くなり、山姥切の表情が変わる。膝が殴られる。やめろと言うが、うるさい、とだけ返された。前々から思っていたが、言うほどうるさくないだろう。二回目の殴りから拳が平手になっただけ良しとするしかない。
「なあ、泊まってくか」
重点的に太ももを叩いていた手が止まる。想定の範囲内だ。山姥切がこちらを見る。
「……嫌だ」
「またか」
「泊まるつもりで来ていない。……それに」
「なんだ」
「……あんた、何かするだろう」
まるでなにか大それたことのような。
自分でも笑ってしまったのが分かった。飽きもせず耳まで赤くしている。ソファにもたれていた上半身を起こし、両ひざにそれぞれ肘をつき、隣で俯く山姥切の肩に自分のこめかみを寄せる。肩が僅かにたじろいだようだった。怯えなければいいとも思うが、そうさせているのが自分であることには優越感が湧いた。
「何かされる自覚はあるのか」
「……バカにするな」
「していない。ここで自覚が無かったら襲ってただろうが」
「あんた最低だな」
「普通だろう」
顔を上げる。こちらを睨むような目を見つめ返す。あれだけ泣いておいてまだ目はじわりと濡れている。いまはガラス玉より溶けかけの飴に見えた。
「俺の理性を褒めろよ。国広」
腹が減って、ようやく存在を思い出したプリンとヨーグルトを食べた。道具一式は仕舞われ、山姥切が帰る支度をする。その前に顔を洗わせたが、すぐに目の周りが元に戻るわけでもなかった。
「駅までの距離くらい一人で行ける」
「飯を買いに行くついでだ」
出る前に洗濯機を回す俺の背後で山姥切がもぞもぞとしていた。落ち着かないのだろう。あそこまで盛大に恥ずかしいことを互いに言い合っておきながら、送られるくらい大人しく受け入れた方がいい。
部屋に戻りジャケットを取る。リビングにマフラーを忘れたが、学ランよりは温かいのでどうにでもなるだろう。既に靴を履いて待っていた山姥切が俺を見て瞬きをする。もう装着されていたフードを、いつも通り引き下ろす。
「なんだ」
「……制服じゃないと年上に見える」
失礼極まりないだろう。
「二つ上だぞ」
「……知っている」
こいつ。靴を履き、山姥切の後ろにある靴箱、そこに置かれたフックからキーケースを取る。身を避ける動きがあからさまなのを見て、不意に、白い顎を掬って、フード越しだが耳朶のあたりに唇をつけた。何をされたのか分かったのだろう。体を強く押される。
「……大倶利伽羅!」
「声がでかい」
唇を当てたあたりを手で押さえながら、今日何度目とも分からない赤面で俺を非難しようとする。だが声の大きさを指摘すればそれは全て飲み込まれたようだった。いい子だな。思っても言いはしない。これ以上でかい声を出されると光忠が出てくる恐れがある。
「あんた、……さっきから、恥ずかしいぞ」
「そうか」
「理性なんてよくも」
「二人きりのこの程度でそう言ってくるのなら、もう少し我慢してやる」
ドアを開ける。先に出るよう促した。日が落ちると冷えは増していて、もう辺りは夜と言える光景になっている。
「国広。お前、人と付き合ったことないだろう」
エレベーターホールには俺たちしかいない。小さな声であって、山姥切には確かに届いたようだった。
「そうだな。友人もいないからな」
やけくそか。やや苛立ちを含んでいるのはさすがに機嫌を損ねたからだろう。人付き合いではなく、恋人だとかの意味で言ったつもりだったのだが。まあ、ある意味予想通りでもあるか。
「友人でいてやれなくて悪かったな」
間がある。フードをかぶった頭がこちらを見る。
音が鳴り、無人のエレベーターが開いた。乗り込んだ俺を追って山姥切が続く。そしてそのついでだろう、腕を平手で殴られる。
「あんたなぁ、……っ!」
「暴れるな。箱が落ちる」
叩かれながら返す。足でなく手が出るのは躾がなっていると思ったほうがいいんだろうか。
ドアが閉まる。駅まで揶揄い続けたら修復が面倒なくらい拗ねるだろう。途中で別の階の住人が乗ってきて、いいタイミングだと思い、その後はあまり喋らず普段通りを装った。駅まで送り届ける。最寄まで行ってやろうか、と訊ねたが、いらないと言われた。
「もう心臓がもたない」
こいつは。本当に。
「また月曜」
言って、改札を潜って山姥切が見えなくなる。しばらくそこに立っていた。電車が駅を出る音がする。
様々なものを込めて大きく息をついた。夜に変わった空気に白く霧散する。土日を間に挟めて良かったと思った。
俺も少し落ち着いた方がいいだろう。