0.8℃
かのいろ
最寄駅からの帰り道。頼まれていたお使いを終え、ドラッグストアから出た。まだ明るいのに気温が低く指が冷たくなる。そろそろ手袋を出しておいたほうがいいかもしれない。
かぶっているフードを引き下ろす。染み付いた癖だ。人の顔を見るのも、見られるのも苦手だった。こと見られる方については嫌いと言うのが正しい。リュックにお使いである洗剤の詰め替え用を入れて背負う。チャットのメモを見るが、他に買い足すものは無さそうだった。
一覧に並ぶアイコンはそれほど多くない。二人の兄弟との個別チャット、兄弟三人でのチャット、あとはクラスの連絡用チャットがあるが、こちらは眺めるだけで会話に参加したことは一度もない。ほとんどこの四つで賄われていたのに、つい最近、新規の相手が追加されていた。デフォルトから変えられていないアイコンと、大倶利伽羅広光、とフルで表示される名前。そこに新着のバッジがつくことはほとんどなかったが、俺の少ない一覧の中では、今現在兄弟チャットの直下に表示されている。
大倶利伽羅に助けられて以来、普段より早起きをするようになり、自然学校に着く時間も早くなっていた。それを担任に指摘され、自習か、頑張っているなと言われてしまい、それが得も知れず恥ずかしかった。いつもより三十分も早い電車に乗るようになった。学校へ向かう通学路が苦痛ではなくなった。むしろ、電車に乗るときに、僅かに嫌ではない緊張すらしているのだ。乗っているだろうか。今日は。今日も。
立ち止まる。リュックの肩掛け部分を握る。少し俯き、前髪が目の前に落ちてきて安心した。いま、西日を浴びていなくとも顔が赤いのが分かる。恥ずかしいのだ。自分はすぐ顔に出ると兄弟が言っていた。口を引き結ぶ。ゆっくりと歩きを再開する。顔は俯いたままだ。
いままでに痴漢に遭ったことが数回あった。その全てが通学路で、それが嫌で、何度か時間を変えたりしたのだが、同じ奴なのか別の奴か、年に一、二度背筋を凍らせることがあった。うちから学校までの距離が中途半端で自転車通学の許可が下りなかった。特別な理由があれば、という一言に、特別な理由を告げることができなかった。結果、満員電車はなるべく避けていたのだが、それでも仕方のないときはあって、寝坊する自分が情けなかった。相手を捕まえられたこともない。
あの日、無理やりに座席へ押し込まれたとき、何が起こったか分からなかった。あと二駅、耐えれば降りられるのだとばかり思っていた。途中下車することも考えたが、一度そうして降りた時に相手が追ってきた恐怖が蘇り、体が動かなかったのだ。その膠着を破るような衝撃だった。俺を見下ろす金色の目があった。
頭を振る。どうかしている。ここのところぼうっと考え込むことが増えていた。よくないことだ。瞼を擦り、ふと、書店と併設された文具のエリアがウィンドウ越しに目に入る。そういえばシャープペンの芯が切れかかっていた。足を向ける。自動ドアで仕切られた店内は外に比べ温い空気が漂っていて、心地よい本屋の匂いがした。
中には入ったものの、ゆっくりと潰すような時間はない。今日は堀川の兄弟が遅い日だから、先に帰って洗濯物を畳んでおきたかった。筆記用具の棚に寄る。いつも使っている芯を探す。段々に並べられたペンを眺めて、そのうちの一本を、何気なく手に取った。
普段から持ち物は緑や青の色を選ぶことが多かった。そもそも好きなのだが、兄弟から目の色を褒めてもらうこともあって、それによる刷り込みも否定できない。兄弟以外から綺麗だと言われて喜ぶことは出来なかった。それでも、似た色を見つけると、選べるのならそれを手に取ることが多かった。だから、こんな、金色を、選ぶことは無かったのだ。
メタリックな黄色が、光の加減で金にも見えた。シャープペンで、さほど高いものでもなく、ごく普通、といった程度のもの。華美でもなく、安っぽくもない。物持ちがいいほうではあるから、使えるものがあるのに重複して買うことはほとんどない。心臓がどくどくと鳴った。何か、これを手に取ることが悪いことであるような、後ろめたさがあるような、そんな心地になっている。馬鹿馬鹿しいだろう。そんなわけがないのに。
同じシャープペンのカラーラインナップで、黄色の隣に赤が並んでいた。大倶利伽羅の襟足の髪は長く、毛先が赤に色抜けしているのを知っている。だからなんだというんだ。フードを引き下ろす。唇を噛む。いま、とても、ものすごく恥ずかしい。
手に持ったペンを握りしめる。金色。あの目の色だ。手慰めにトップをかちかちと押す。でてきた試用の芯を、静かに押し戻す。
普段使っているシャープペンの替え芯を見つけた。手に取り、レジに向かう。もう買うものはない。心臓がどくどくと鳴っている。レジを通り、冷えた外に出て、無意識に足が家へと向かう。寒い。洗濯ものを畳まなければ。顔が赤い自覚があった。
家のドアを開けると、人の気配が無くて、二人の兄弟が予定通りまだ帰っていないと分かった。施錠して、自分の部屋がある二階へと上がる。自室に入り、ベッドへリュックをおろし、ブレザーのポケットから手を引き抜く。替え芯と、一本のシャープペンが、書店の紙袋に包まれてそこにあった。
文房具を買っただけだ。両手で顔を覆う。死ぬほど恥ずかしかった。万引きをした不良よりも今の自分のほうが何倍も挙動不審だろう。安価なテープと紙袋は開封にもたつき破いてしまった。中から買った二つの品がデスクの上に転がり出る。
金色。目の色。
「……っ」
居た堪れなくなり、手に取ろうとしたペンをデスクの上に置いたままにした。落ち着かなければ。何をしているんだ。
ジャケットとパーカーを脱ぎ、ニットベストもハンガーにかけ、ネクタイを外して、シャツだけになった上へ自宅用のパーカーを羽織る。前面のチャックを完全に上げきる。フードをかぶり、ベッドの上に倒れ込んだ。
ここのところおかしい。俺だけだろうか。俺だけなんだろうな。元の性格と、家庭事情の複雑さから、まともに親しい友人を作れたことが無かった。仲の良いクラスメイトはいる。それでも、休みの日に予定を立ててまで会うような仲ではないと理解している。
大倶利伽羅と俺の繋がりは何なんだろうか。早い電車に乗るのを勧められて、分かっているんだとやけくそになり、教えられた時間の電車の、いつもとは違う車両の、乗り込んだドア横に、大倶利伽羅がいたときのあの瞬間をなんと言えば良かっただろう。席を譲られたのは二度目であって、あの時なんと告げるのが正しかったのか。
黒いくせっ毛の下にある目は始終穏やかで、平らかで、それなのに初めて会ったあの日に、怒りから昂った色に染まるのを見てしまった俺は、もう、判断力を失ってしまったのだ。あの時確かに何かを失くした。大倶利伽羅が持っていった。いまもこんなに混乱している。
ベッドの上で頭を抱えた。小さく唸るが、布団に声が吸いこまれていく。しばらくそのポーズで固まった。そして顔を上げ、のろのろとベッドから下り、階下へと向かう。生憎やらなければならない事がある。
リビングに入るとそこだけ空調が効いていて温かかった。気配がある。見渡すと、白い体で右耳にブチがある猫が飛んでくる。棚の上にいたのか。俺が屈みこむと、彼女は俺が撫でるのを許してくれる。細い首輪の下を弱くかくとぐるぐる喉が鳴った。
「お前がいると危険だな」
言うが、彼女を隔離する場所など無い。庭に出て洗濯物を取り込む。陽の匂いがした。今日は冷えたものの晴れて良かった。
ソファに雑に取り込んだ服を置き、畳みながらローテーブルに積んでいく。猫が飛んでくる。避けるが、彼女はひらりと俺の手を躱し、畳んですぐのタオルの上にくるりと陣取ってしまった。これは兄弟に怒られる。
「ダメだ」
言うが、彼女はしっぽをゆっくりと上下させるだけだ。まるで落ち着けとでも言うように。怒っているわけではない。困っているのだ。仕方なしにタオルごと彼女を持ち上げる。彼女は逃げもせず俺の膝の上に、タオルとともに収まった。
その状態で洗濯物を畳むのはだいぶ苦戦したが、なんとか終わったころ、駐車場に車が入る音がした。帰ってきた。俺の膝から白い影がするりと降りる。車のドアが閉まる音が鳴る。
家をまわり、玄関の戸が開く。俺と一匹でリビングから顔を出した。こちらに気付いた山伏の兄弟が、に、と笑った。
「お帰り」
「うむ、ただいま帰った」
兄弟を出迎えたところで、彼女は、駆け寄るでもなくそのままリビングへと戻っていった。廊下が冷たかったんだろうか。俺もリビングに戻る。すると畳んだ別のタオルにくるりと乗っていた。やられた。すぐに駆け寄り彼女を小脇に抱える。しなやかに逃げられてしまう。
「畳んでくれたのか」
「ああ。だが、シロにやられた」
「皆干したての匂いには抗えぬよ」
キッチンに兄弟が弁当箱を出すのを見て、自分がまだだったのを思い出す。畳んだタオルをバスルームの棚に、服をそれぞれの部屋に置いてから、自室へ戻る。リュックを見るよりも先に、目がデスクへと向いてしまう。
置かれたままの金色のシャープペンが転がっていた。目を細め、ペンを手に取り、色を眺める。暗くなってきた部屋ではあまり透き通った色には見えず、それでも、じっと目を凝らした。
リュックを開く。弁当箱をちらと見ながら、細いペンケースを取り出す。今のままだとシャープペンが無駄に増えるので、予備として持っていた一本を取り出し、デスクの引き出しに仕舞った。ペンケースに金色を差し込む。ずっと使い慣れたものの中に新しい一つが加わる。自然、口元が緩く弧を描いた。それに気づいて一人顔を覆った。