0.8℃
揺らがせられる
うちのマンションの、最寄駅が始発の隣にあるのがいい立地だと思う。朝、まだ人が少ない時間に乗ればほぼ確実に座ることができる。
階段付近から離れた車両のドア、入って横の席が定位置になる。先週末に痴漢を捕まえてからは車両を一つ移動した。自分の行動を干渉から変更させられるのは胸糞悪いことではある。だがどちらにせよ席は空いている。
普段はこの時間帯に乗るのだから、これからもイレギュラーがなければ満員電車に乗ることもないだろう。
イヤホンを取り出そうとして忘れたのに気づいた。まぁいいかと座席にもたれ、二駅進んだところで、ドアが開く。まばらな人の出入り。老人とサラリーマンと、少しの学生。その中で乗車してきたブレザーが見える。
「……あ」
パーカーのフードをかぶった男子高校生が俺を見て声を漏らした。思わず、といった声量だ。長い前髪の下で緑の目が瞬きする。
「……」
「……」
互いに無言だ。ドアが閉まる。人は少ないが座席は全て埋まっていた。きょろ、と辺りを見渡すが、電車が走りだし、そのまま支えとなる銀色の棒に掴まる。山姥切国広は無言のまま、ドアのはめ込み窓から外を眺めているらしい。こいつの最寄はこの駅だったのか。
電車が揺れるたびに山姥切も揺れる。ややあって、俺は立ち上がり、それを視界の端で見たらしい山姥切が俺を振り返った。吊革につかまり身を引く。
「座れ」
「……え」
答えは無い。二人とも立ったままで、座席が一つ空いたままで、電車が緩やかに走る。山姥切が、いい、と言ったが、もう一度座れと言う。揃って無言になる。
駅に着いた。ドアが開く。そちらに気を取られた山姥切の肩を掴んで、無理やり座らせた。う、と聞こえたが無視する。座席につき、何か言いたそうに見上げて、一拍おき、観念したのかリュックを前に抱えた。見覚えのある仕草だった。俺はその目の前に立ち吊革一つに両手で掴まる。人が幾らか降り、多めに乗った。
「……おはよう」
「ああ」
ドアが閉まる。電車が走り出す。この辺りから学生とサラリーマンだらけになる。
「本当に、この時間は空いているんだな」
三十分早ければ、と言った俺の言葉を真に受けたらしい。バカ正直に乗ってくるあたり素直なのだろう。もしくは、心底満員電車に嫌気がさしたか。どちらでも良いだろう。
「大概座れる」
「……悪い」
「俺が勝手にやったことだ」
座席を譲られたことに引け目を感じたらしい。卑屈なのか。窓の外が徐々に住宅街から市街へと変わっていく。
「同じ駅だよな」
向こうもこちらの高校を知っているらしい。それぞれ出口は西と南だ。学校同士交流があるわけでもないが、いま同じ車両にも制服がちらほらと乗っている。生憎とこちらは男子校なので女子生徒は向こうの高校だけだ。
「いつもこの時間なのか」
「……大概は」
「……そうか」
互いに会話が下手だと知った。
特に話題もなく、目的の駅に着く。学生が固まりのように出て行く。俺と山姥切も出て、改札までは同じで、それぞれの出口に向かうため別れる。
「あの、……ありがとう」
何に、とは言わなかった。席か。先週の話か。なにも分からず、ただ視線だけを返す。ブレザーの一団が西口へと向かう。俺は学ランの波と南口へ向かった。
以来、朝の時間が重なるようになった。
俺が乗る車両の同じドアを山姥切も使っているようだった。初めてかぶった時を考えれば、恐らく痴漢被害に遭った車両が一番使い勝手が良かったのだろう。それをずらして乗っているのは同じ理由だろうか。俺もわざわざ車両を選んで乗っているのだから、いくらでも移動することは出来たが、結局同じ時間の同じ車両に同じドアから乗り続けている。山姥切も同様だった。
俺が先に座る席を、二駅先で山姥切に譲る。時折並んで座れることもあったがそれは稀だった。会話はぽつぽつとあるか無いかで、互いにスマホを弄ったり、向こうは本を読んだり、特に何もなく広告や外を見ることもあった。
「あの時が」
大概会話の開始は山姥切だった。慣れるとだいぶ喋るらしい。慣らされたのか、分からないが、俺に話しかけているんだろうと踏んで山姥切を見下ろす。
「初めてじゃなかったんだ」
何が、と問うことは無かった。痴漢か。遭っていたのか。消えかかった記憶での山伏の様子を思い出す。もしかすると同じ用件で呼び出されたことが過去にもあったのだろうか。
「時間を変えたりもしていた。最近無かったから、油断してたんだろうな。……不甲斐ない」
この路線には変態がいるらしい。最近、とは、つまり二回目だったというわけでもないのだろう。
山姥切は確かに弱そうだった。俯いて、場所どりも下手で、席が空いていても変に遠慮して座れないのだろう。分からないが、そういう手合いは被害者になることが多いのかもしれない。昨今同性愛という言葉もよく聞くのだし。それでなくとも変態はどこにでもいるのか。
「俺は初めてだった」
言うと、山姥切が俺を見上げた。緑の目。山伏と似ていない顔つき。そういえばなぜ兄弟で同じ名なんだろうか。
「……そうか」
無言になる。大概会話を終わらせるのは俺が発端だった。
駅に着き、いつも通り改札を出ようとする。その手を引かれた。見れば、山姥切が俺の裾を掴んでいる。
「大倶利伽羅」
始めて名を呼ばれた。憶えていたのか。山姥切の長い前髪がフードの下で揺れる。何かを言い淀んでいる。
「何だ」
「明日、うちは創立記念日なんだ」
創立記念日。うちはもう終わっている。ならば休みか。羨ましい事だ。そう思いながら、そうか、と返すと、ああ、と山姥切が相槌を打つ。
「すまない、その」
「なんだ」
「……連絡先を……」
瞬きする。
山姥切が裾を離した。改札の内側で向き合う。連絡先。何故だ? 必要だろうか。朝、乗り合いで一緒になる、同じ痴漢被害を受けた者同士で。思いこそすれ、訊ねるのはやめておいた。山姥切は真剣な顔をしていて、さらに言えば、顔が赤くなるとすぐに分かるのだと思った。
「スマホ」
「は、」
「スマホ、貸せ」
手を差し出すと、間があって、慌てたように緑のカバーを着けた端末を差し出される。こいつの目の色みたいだ。スリープを解かれたホームを弄り、チャットを開くと、勝手に自分のIDを検索して登録した。渡し返す。
「連絡先」
「あ、ありがとう……」
消え入りそうな声で礼を言われる。こいつからはそればっかりだ。じゃあ、と改札を通り、南口に向かう。振り返ると、山姥切はまだ改札の中でスマホをじっと見つめていた。
駅を出る。高校への通学路を歩く。しかし暫くして、だんだんと恥ずかしさが現れ、紛らわすため道の横に設置された自販機から飲み物を買う。どういうことだ。いまのやり取りは何だ。最悪だ、俺も顔が熱い。
スマホが震える。見ると、チャットに新着があった。スリープ画面にありがとうと短い言葉が表示されている。どれだけ礼を言いたいのだ、あいつは。
アプリを開くと、山姥切の猫の写真アイコンがIDの一覧に追加されていた。ああ、とだけ返して、スマホをポケットへ突っ込む。だから何だというんだ。自問自答する。今日はもう学校に行きたくない。頭を掻く。あの日以来、なんだかどうかしている。
「猫好きなのか」
珍しく並んで座った時だった。山姥切を端に座らせている。連絡先は交換したが、その後別段やり取りはなく、ただ朝の車両での乗り合わせは続いていた。
山姥切が俺を見る。不思議そうな顔をしていた。
「アイコン、新しいのもまた猫だろう」
「あ、ああ……」
思い当たったのか、途端顔を俯ける。照れだろう。つい昨日山姥切のチャットアイコンが新調された。前のと同じ猫で、誰かに抱えられているような写真に変わったのだ。あまりチャット自体やらないのだし、相手やグループが少ないので、例の短いやり取りの後微妙な位置にアイコンが居続けている。
「うちで飼っているんだ」
「そうか」
「……猫嫌いか?」
尋ねられる。首を傾げた。
「別に」
「……」
「ただ、やたら寄ってこられるのは勘弁してほしい。うちの制服だと目立つ」
山姥切がこちらを見る。そして破顔した。フードの中、前髪の奥、緑の目が細められたのが分かる。
「毛か」
「ああ」
頷きながら、笑う山姥切を見る。何がおかしい。考えるが、言わないことにする。
「でも確かに、あんた動物に好かれそうだな」
「そうか」
「ああ、なんとなく」
線路の接続部で電車が揺れる。見ると、いま話していた猫のものだろう、柔らかそうな毛が山姥切のフードについている。生成りの生地からすれば見えないとも言えるが、不意に、取るか、と手を伸ばした。
「動くなよ」
「うん?」
返事をしながら山姥切が俺を見る。動くなと言った。思いながらフードから猫の毛を取り、山姥切に見せる。ああ、とそれを受け取り、どうするんだと思ったが、行き場がなく山姥切の鞄に落とされたようだった。
「いつも出る時、服から毛を取るのが大変でな」
「諦めるんだな」
「俺もそう思う。でも兄弟が気にするから」
山伏はそんなに細かいやつだろうか。そもそもあれは僧侶なのか。分からず、別に聞かなくてもいいかと座席にもたれる。
「……は」
見開かれた緑の双眸がこちらを見ている。何かに気づいたようだった。なんだ、と目だけで促すが、向こうは俺の襟元を凝視している。
「なんだ」
「……あの、あんた、三年か」
突然か。襟元の学年章を見たのだろう。ああ、頷くと、途端に目をそらされた。
「あ、その、すみませんでした……」
言葉尻が消えていく。分かりやすく動揺している。山姥切に新入生のような真新しさはない。
俯く肩を掴んでこちらに体を向けさせると、ブレザーの襟穴に向こうのものらしい学年章がついていた。
「二年か」
僅かに頷く。俺が手を離し、山姥切は座り直した。フードに覆われた後ろ頭を見る。散々話しておいて、そういえば学年すら知らなかった。そこにさして興味がない。
「別にいい」
「だが」
「学校が違う。部活の先輩後輩でもないだろう。それにダブって三年だ、一人タメ口が増えたところで何も変わらない」
顔を見ずとも驚いたのがまざまざと伝わった。私立校からすればダブりは珍しいんだろうか。俺の友人にはもう一人俺と同い年がいる。向こうは家の事情で入学が遅れたのだから、ダブりとはまた違うのだろうが。
「……病気か何かか」
山姥切が話題を続ける。確かに気にはなるんだろう。ここで出席日数や頭の出来を聞かない辺り、気を遣われていると思う。
「ただのバカだ」
言って、山姥切があちらを向いたから、笑ったのだと思った。別に構わない。既に方々から散々笑われている。
「すまない」
「好きにしろ」
少し間をおいて、また笑う気配がした。何がそんなに面白いのか。分からないが、言った通り好きにさせることにする。
駅に着き、改札を潜ろうとしたときだった。大倶利伽羅、と呼ばれ、振り返ると俺と同じ学ランが立っている。長い金髪。黒いマフラーを巻いている。俺の隣で山姥切が立ち止まったのを見た。
「獅子王」
「はよー。お前この時間なんだな。超早ぇじゃん」
にっ、と笑うこいつが俺と同い年のクラスメイトだ。俺より小柄で懐っこく、俺よりも周囲に馴染んでいる。
獅子王の目が俺の隣を見る。学ランにブレザーが並んでいるのは違和感があるんだろう。山姥切はそれに気付き、俺を見て、それじゃあ、と言うから、ああ、と返してやると、ブレザーの一団に紛れて先に改札を出て行った。
「いまの誰だ? 向こうの高校だよな」
「ああ」
「お前に他校の友達って珍しいな」
「そうか」
ともすれば失礼な言葉だろうが、事実なのだから仕方がない。改札を潜ると、獅子王が俺の肩を掴む。
「なんだ」
「あいつすげえ顔綺麗だったな。ハーフ?」
「……知らないな。名前は普通だったが」
「なんての?」
自然と尋ねられる。何となく、間があくが、断る理由が見つからず答える。
「山姥切国広」
「え、なんかすげえ名前」
「家が寺らしい」
「寺ァ? どうやって知り合ったんだよ、お前」
「別に。成り行きだ」
そこまでで会話を切り上げる。普段獅子王をこの時間に見ることはない。尋ねる前に、今日は朝からじいちゃんのとこに寄る用があってさ、と勝手に話し始める。共にいても楽なものだった。
昼。俺の席まで来る獅子王と、隣の同田貫とで飯を食う。ともない会話が続き、そういやさ、と獅子王が山姥切の話を持ち出した。
「向こうの高校のブレザーでさ、すげえ顔が綺麗なんだよな」
「へえ。女じゃねぇの」
「や、完全男。タメか?」
「……いや」
「じゃあ下か。フードかぶってっからあんまよくは見えなかったんだけどさ。外人みたいな」
「お前もだろ」
「俺は違うぞ」
「知っている」
スマホが震える。電源を切っていなかったのか。普段触らないことが多いから忘れていた。授業中に震えていたら取り上げられているところだった。
画面にチャットの文面が浮かぶ。山姥切だ。今日の帰りに合流できないかと書かれている。眉をひそめてスリープを解く。俺の顔を見てだろう、誰だ、燭台切さん? と尋ねる獅子王を一瞥する。
『どうした』
『渡すものがある。朝で済ますつもりだったが忘れていた』
すぐに返事が来る。忘れていた。本当だろうか。俺が獅子王と合流したからか。しかし、車内でも渡せたんじゃないのか。下手か。
『わかった』
『こっちは五限まである。何時に待ち合わせればいい?』
時計を見る。うちも五限だ。しかし今日は補習がある。この三人は全員参加だ。あまり良くない、と、なんとなく思う。同田貫は自転車だし、こういった手合いをからかい目的で見にくるやつではない。しかし獅子王とは再び同じ時間に乗るだろう。考える。駅の西口を思い出す。あちら側にはファストフードの店がいくつかあったはずだ。
『今日は補習がある。4時あとに適当な店で会いたい』
やや間があく。茶を飲んだところで、新着が浮かぶ。
『分かった。手間取らせてすまない』
礼か、謝罪か。山姥切の言葉はおおよそそれで作られている。やはり卑屈だと思う。
画面をスリープに戻そうとして、直前、山姥切がスタンプを押したようだった。泣いて手を合わせている猫のイラストと、横に、ごめんにゃ、と書かれている。
「……んん”っ」
「うわっ! なんだよ大倶利伽羅、びっくりした」
思わず喉から唸り、口を押さえるが、獅子王と同田貫に引いた目で見られた。すまない、と言ったところで取り返しはつかない。スマホ見て笑うなんて珍しいな、と言われるだけで済んだのはありがたかった。今度こそスリープにし、機内モードに切り替える。
弁当を食べ終えて解散しかけた頃、クラスメイトに呼ばれた。そうは言っても普段絡む相手でもない。向こうもややぎこちなく、なんだ、と思いこそすれ、仕方なく立ち上がる。
その様子を見て察するものがあった。面倒だ、と瞬時に思った。
廊下に出てみると、そいつは、ほら、じゃあな、と早々に教室へと戻ってしまう。外に立っていたのは知らないやつだった。見るに同級生らしい。
「あの、ちょっと時間、貰えないかな」
線が細いやつだった。俺と同じくらいの高さの目が、こちらを見れずに、少し俯かれている。
「何の用だ」
訊ねるが、相手は答えなかった。答えられないのだ。察したとおりらしいと分かって辟易する。
「ここでは、ちょっと」
まだ昼休憩も残っている。だがこういう手合いは早い方がいい。
「悪いが、時間は取れない」
「……っ」
これで伝わるだろう。引け、と思いつつ見るが、どうにもまだ続くようだった。何かを取り出そうとする。俺は片手を上げてそれを止めた。
「何を出すつもりだ」
「……」
「もしそうなら、受け取れない」
それ以外のものが出てきても、この場合勘違いをした俺だけの恥だ。しかしそこで取り出せず、向こうが、手を静かに下ろしたから、俺が予想したものだったのだろう。手紙か、それの類。口頭で伝えることができなくても、渡すだけ渡そうという予備案。
男子校という状況は特殊だ。もしかすると女子校もそうなのだろうか。分からないが、男が男に憧れることはさほど遠い話ではなかった。呼び出しを受けるというのも、古い話では喧嘩だなんだ、物騒なイメージであるのに、それにおいて俺がこの三年と少しの間に呼び出されたのは告白のためだった。
そういう手合いの雰囲気は独特だ。様子がおかしいからすぐに伝わってくる。
「……そうか、分かった」
呼び出し相手は返事を零す。俺はその次に言われる言葉を察して、聞きたくないと思い、じゃあ、とにべもなく廊下から教室へ戻った。
補習が終わる。どこか寄るか、と訊ねる同田貫に、獅子王はこのままじいちゃん家に行くから、と言い、俺も用事があると伝えて、今日は解散になった。スマホを切り替えて、電波が入ると、山姥切から新着があった。学校が終わった、という連絡と、その30分ほど後に、ドーナツ屋に入った旨の連絡。よりによってか。いまから向かう、とだけ返す。
校門を出て同田貫と別れた。駅まで獅子王と歩く。
「用事って?」
「……西口に用がある」
「へえ、朝のあいつ? 山姥切だっけ」
訊ねられて頷く。変な勘繰りはされないだろう。普段の付き合いから、こいつらの一線を引くタイミングはだいたい分かっている。
「他校とかそうそう付き合い出来ないもんな。いいなぁ楽しそうで。今度ちゃんと紹介しろよ」
「するほどでもない」
「そうなのか?」
言われても分からない。そういえばこの関係は何なのだろうか。獅子王が別の話題を口にする。適当に相槌を打ちながら話を聞く。
「じゃあまた明日な」
改札を抜けていく獅子王と別れ、普段あまり出ない西口へと向かう。商業施設とまではいかないが、南側よりもこちらのほうが遊ぶ店は多い。時間が少し遅くなったにも関わらず、学校帰りらしい学生がちらほらと見えた。
チャットを見る。またスタンプだ。同じ猫の揚々とした顔と、オッケーにゃ、と書かれている。思わず立ち止まった。だから何なのだ、これは。無意識に口を押える。笑ったら負けな気がした。
歩き出すのに間が必要だった。指定されたドーナツ屋に入る。見える範囲は女子生徒やカップルが多く、それもブレザーばかりだから、学ランの俺一人はだいぶ浮いていると思った。二階に上がる。比較的こちらは空いているようだった。
山姥切はすぐに見つかった。隅の席で飲み物を飲んでいる。向こうもこちらを見つけたらしく、目だけが合って、特に何も言わず空いた向かいの席に座る。
「待たせた」
「いや、大丈夫だ。こっちこそすまない」
そういえばこいつは常にフードをかぶっているんだろうか。流石に校内では取ってるか。
山姥切がそわそわとしているから、落ち着くまで待つことにする。見ると、リュックに何かが入っているらしい。そういえば渡すものがあるんだったか。見ていても、ええっと、とリュックはなかなか開かない。時間がかかるだろうか。俺も何か買ってくるべきだったか。
「渡すものって何だ」
訊ねると、山姥切の動きが止まった。何が出てくるんだ。分からないが、山姥切がこちらを見るのが分かった。不穏ではない。今日の昼に感じたような、あの感覚でもない。と思う。のろのろと山姥切が動き出し、やがて紙袋に包まれた何かが出てくる。
見た事の無い包みだった。だがそれが何かしらの菓子だというのは、装丁から容易に予想できた。
「すまない。荷物になるんだが、その、兄弟が、俺が朝は大倶利伽羅と一緒の電車だと聞いて、それで、そんなつもりはないんだが、あんたが、その、気にかけてくれて、俺と同じ車両に乗っているんじゃと言うから、違うとは言ったんだが、あの時にも世話になったしと言っていて、兄弟も気にしているから、だから、その、どうかとりあえず受け取ってほしい……」
色々と言うことをまとめていたんだろうが、最高にぐずぐずだった。差し出された紙袋が俺の前に置かれる。覗き込むと、どう見ても品のある見た目をしていて、デパートとかではないのか、やはり俺の知る対応とは違うものを感じる。
「朝、渡せたら良かったんだが、いつもあんたは荷物が少ないから、どうしようかと思ったんだ」
「……まあ、そうだな」
肩にかけている黒いトートには弁当しか入っていない。試験前でも膨らむことはほとんどない。そのお陰で補習が入るのだが。
「好みも聞けなかったから、もし無理そうなら捨ててくれ」
「いや、長谷部も甘いものが苦手なわけじゃない。……量があっても消費するあてはある」
マンションの隣に住む燭台切光忠は長谷部の古い友人だ。食事に関してはことうるさいのと、甘いものが好きだった。長谷部を社畜と罵るのは未成年者である俺を差し置き家にほとんどいないことを示している。飯を光忠のところで済ませることも多く、その礼もこのお裾分けで済ませられるだろう。俺のトートに入っている弁当も光忠が作っている。
「そうか。……良かった」
心底、といった様子だった。ほっとしたのか、残ったカフェオレを飲んでいる。グラスの具合から見るにずっとここに居たのだろう。
「あんたの家も気にしすぎだ」
「俺もそう思う。過保護なんだ。クラスのやつに言われた」
「言われたのか」
「家の話をしたら、言われた。だからあまり話さないことにしている」
「賢明だな」
スマホが震える。見ると、件の光忠からチャットだった。夕飯のメインを鶏と豚で決めかねているらしい。どちらでもいい。
ふと、山姥切を見た。
「夕飯のメニュー」
「は?」
「あんただったら、鶏と豚、どっちがいい」
ドーナツ屋で話す内容でもない。山姥切は呆けて、しかし質問の答えは考えていたらしく、小さく、鶏かな、と呟いた。とり、とだけ打ってチャットを返す。すぐに、了解! との返信と、すぐに返してくれるの珍しいね、と余計なことを言ってくるから、チャットを閉じた。山姥切はまだ不思議そうにしている。
「なんでもない。……そういえば、あんたのあのスタンプ、何なんだ」
「スタンプ? ああ、猫のか。あれは兄弟がくれたんだ。かわいいだろう」
かわいいだろう。まさか尋ねられるとは思わなかった。かわいい。かわいいといえばそうなのか。違う、そうではなくて。
「男二人のチャットでスタンプを押すのか」
「え、……押さないのか」
何故ショックを受けた顔をするのだ。俺がおかしいのか。ぐ、と言葉を飲む。
何人か個別でやり取りをする相手はいるが、長谷部とは業務連絡であるし、獅子王や同田貫とも普段顔を合わせているのだからさほどやり取りは続かない。光忠がスタンプを押すこともあるが、それであってもおそらくプリインストールされているものだ。明らかに買ったスタンプではない。
「……人によるんじゃないか」
「……そうか。すまない。俺もあまり、兄弟以外とはチャットもしないから、よく分からない」
「スタンプ押すのか」
あの山伏国広が。
「ああ。このスタンプも兄弟に貰ったんだ」
あの山伏国広が。
顔に出ていたんだろう、山姥切が、ああ、違う、と頭を振った。何が違うのだ。
「もう一人いるんだ。二つ上で、大学生で。そっちの兄弟がスタンプもくれたんだが、やりとりが段々スタンプだらけになるんだ」
「年が近いんだな」
「ああ。それに優しい。二人とも俺なんかの兄弟でいてくれる」
盛大な卑屈だと思った。思いこそすれ、口にはしなかった。俺にそこまで言われる筋合いはないだろう。気付かないらしい山姥切は、スタンプも猫のものばっかりになるとぽつぽつ嬉しそうに話している。
「別に構わない」
「え?」
緑の目がこちらを見る。なんだろう。この色がこちらを見ると緩やかな優越感が滲む。ガラスのような、異国の海のような色。
「俺は使わないが、押されるのが悪いわけじゃない」
「そ、……そうか。……その、ありがとう」
もうカフェオレも残っていない。それでも少しだけ話して、電車が混み始める前に帰ろうと二人で店を出る。結局俺は何も注文しなかった。見るが、もらった菓子があるうえ、セールをやっていたわけでもないので、ドーナツは買わずに終わった。
改札をくぐる。この後から混み始めるだろう。ちょうど来た電車に乗るが、さすがにやや人が多く、ドア付近から中へは進めそうになかった。電車が動きだす。山姥切と向かい合って立つ。
「そこに」
ドア付近であいた隙間に山姥切を押しこんだ。いつのまにかリュックは前に抱えられている。もうこのポーズがデフォルトなんだろうか。背後が壁で、その前に俺が立ち、電車が揺れる。店で話した、俺がこいつを気にかけて、という言葉を思い出している。
そんなつもりはなかった。だが、事実そうなっているんだろう。踏み込み過ぎたと思った。結果菓子折りを贈られる羽目になっている。
電車が止まる。ハブの駅だ。人が出ようとして、背中を押される。山姥切を壁に押し付ける格好になる。壁に手をついて堪えるが、う、と小さく声が聞こえた。
「悪い」
「いや」
それだけの会話で終わる。新たに人が乗り込んでくる。流されないよう踏ん張り、ドアが閉まった。発車する。
「帰りもすごいな」
山姥切が、小声で話す。そうだな、と返した。
「あんたもいつも早いのか」
「……部活や委員会には入っていないし、兄弟が心配するから、すぐに帰るな」
過保護だ。思ったが言わないことにする。文言から察したのか、あんたも早いんだなと返される。
「大概バイトがある」
「働いているのか」
「大したものじゃない。今日は補習があるから休んだが、他にやることもないだけだ」
「そうか。……すごいな」
アルバイトなどしたことないのだろう。金がありそうな家で、過保護な兄弟とくれば、そんな経験をせずとも暮らせるはずだ。
かくいうが、俺も別段金に貧窮しているわけではない。むしろ、恐らく金銭的には余裕があるほうだろう。長谷部は常に働いている。住んでいるマンションも良い物件だった。
ただ、保護者とはいえ、俺は居候している身でしかない。学費も生活費も全て支払われてのうのうと暮らせるほど図太くはいられない性分だった。アルバイトも小遣い稼ぎはもとより、いつかまとまった金が必要になった時用に貯めているだけだ。
初めは家に入れようとしたのだが、長谷部に渋られ、追々必要になったら受け取ろうと言われた。恐らくそんな日は一生来ないのだろう。それでも構わなかった。社会経験を積むのはいいことだと、アルバイトに就くことは純粋に喜ばれた。その後光忠に俺まで社畜にするつもりかと怒られたらしい。しょうもないことで喧嘩をするのだ。
山姥切の降りる駅に着く。ドア付近なのだからすぐに出るだろう。
「じゃあ、また明日」
そう言って出て行く山姥切を見る。人の流れに沿って歩いていくが、フードがやや離れたところで流れから脱し、足を止める。こちらを振り返る。ドアが閉まり、その向こうで、山姥切が小さく手を振った。
俺は振りかえさなかった。動けなかったともいえる。電車が動き出す。すぐに景色は見えなくなる。俺は、そのまま山姥切が立っていた壁にもたれていた。まったく、これが何なのか、口にしたくないし知りたくもなかった。
その夜。風呂に入るため部屋に戻ろうとした頃、チャットに新着があった。
『うちは魚だった』
というコメントと、追って魚の絵文字が飛んでくる。魚のスタンプが無かったのだろう。俺がついたため息に、何、悩み? 聞くよ? と入ってくる光忠が妙に煩わしかった。