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ある朝の事
人助けを好んですることはない。さらに言えば、赤の他人の事情にも興味がない。
ただ、目の前に立つこの男が、男というか、男子高校生が、痴漢されているのは理解している。彼の後ろに立つ男にだ。さて、どうしたものか。
通勤、通学の時間帯における公共交通機関は死ぬほど混むので嫌いだ。それを避けるため早くに家を出ることが大半で、それなのに今日はいろいろと不運が重なり、普段より遅れたピークに近い時間に乗り合わせてしまった。かろうじて息が出来る程度の満員。俺の前に座っていたやつが先に降りたので座れたのは運が良かった。それなのに痴漢を目の当たりにするとは。やはり不運なのか。
俺の前に立つブレザーは同じ駅にある私立高校のものだ。リュックを前に抱え、中にパーカーを着て、フードを被った男子高校生の様子がおかしい。見れば、後ろの男の様子もおかしい。初めて痴漢の現場を見た。それも男が、男を。
電車がカーブを走る。ブレザーの体が俺の方へと押しやられる。前に抱えられた相手のリュックが俺の顔面ギリギリまで近づく。膝を開いたつもりはないのだが、乗り込んだ全員が足場を欲した結果、俺の膝の間にブレザーの片足が収まり、俺の右足を跨いだ格好になる。ブレザーの手が俺の背後の窓へとつかれる。電車が直線を走り出すと、うう、と小さなうめき声をあげて、ブレザーが体を戻した。それがひどくのろのろと、憂鬱そうで、背後に体を持っていきたくないのは判然としていた。背後には痴漢がいるのだ。
速度が落ちる。電車が駅に着く。乗り換えも多いハブの駅で、比較的多くの人間が出て行ったようだった。そして新たに人が乗ってくる。俺と、おそらくこのブレザーの下りる駅は一緒で、あと二つ先だ。人が入れ替わり立ち替わりする中、ブレザーの背後に立つ痴漢は頑なにその場から離れない。なんたる執念。
「……具合が悪そうだな」
そう口にしたのは居た堪れなさからだ。フードの下、明るい色の髪が揺れて、長い前髪の向こうは見えなかったが、強く引き結ばれた唇は見えていた。噛んでいるのか。俺の言葉に薄く口が開く。肌が白いのは地なのか、青ざめているからか。あと少しでドアが閉まる。俺は膝で人ごみを押して、知らぬサラリーマンに睨まれながら無理やり立ち上がると、ブレザーの背後に立つ男を押し、ついでに一瞥しながら、ブレザーを今しがた自分がいた座席へと押し込んだ。満員電車では無理がある動きだった。周囲の人間が嫌そうに俺を睨むが別に構わない。ブレザーだけが、呆けたように、薄く口を開けたまま俺を見上げていた。ドアが閉まる。電車が走る。俺の背後には痴漢が立っている。
痴漢は俺にまでは手を出してこなかった。好みじゃないか。考えて悪寒がする。動き出した電車の中、しばらくは俺を見上げていたブレザーが、顔を俯けて抱えたリュックを強くつかむ。何も言えないのか。何も言わないでほしい。結局居た堪れないのだ。次の駅でも痴漢は下りない。開いたドアが再度閉まる。
ゆるいカーブがある。体が傾く程度だが、足を置き直したところ、さっきとは逆で俺の片足をブレザーの両ひざに割り込ませる形になった。あまり体が傾がないように堪えても、乗客の重みとその力の流れはどうしようもない。
……それは突然だった。尻に何か薄い平たいものが当てられている。なんだ、と思い、やがてこれは、掌か、と気付いた。誰でもよかったらしい。めでたくというか、残念なことにというか、俺も痴漢されてしまった。やはり慣れない事はするもんじゃない。
単純に不快だった。節操がなく呆れるし、尻など触られて喜ぶ性癖は持っていない。後ろの男は相当何かを失くした人間だったらしい。なんとなく、俺まで痴漢されたのがブレザーに知れるとまずいと思った。それにしても後ろの男がムカつくだろう。
電車が減速する。もうドアが開く。左側だ、俺とブレザーと痴漢に近いほうのドアだ。もういいか。今日は気分が悪い。学校に遅刻したところでもうどうだっていい。
とりあえず後ろの男を社会的に殺そう。
ドアが開く直前、俺の尻に当てられていた掌、その手首を思い切り掴んだ。内側に回った親指はわざと爪を立てる、すると男が驚いて小さく悲鳴を上げた。図々しいな。散々尻を撫でておいてこいつ。ふり返って痴漢を見る。さっき見た通りただのサラリーマンだ。最低限のおっさんになった程度の年齢。これで今まさに人生に汚点をつけているのだから馬鹿馬鹿しいだろう。
「一緒に降りろ」
言って手を引くが、当たり前に抵抗される。殴りたくなる。睨み、痴漢したのはそっちだろうと言った。普通の声量のつもりだったが、それとも、もしかするといつもより声が大きかっただろうか。
は、と周囲の空気が一変する。降りる乗客がこちらを見ながら、しかし徐々に歩いていく。痴漢が生意気にも青ざめたようだった。
何を言っている、なんだ、おやじ狩りか、何の証拠があって、と痴漢が震える早口で捲し立ててきた。埒があかない。朝の通勤電車が止まる時間は短い。このままドアが閉まるかもしれない。心臓がどんどん脈を強くしていく。ざわりと神経を逆なでされているのを感じる。
すると。
「駅員さん! 痴漢です! ここ、電車止めて、駅員さん、この車両……!」
外で声がした。耳に刺さるような声だった。見ると、先に降りていた若いサラリーマンが大声を出している。こちらのドアを指さしている。痴漢です、と再度声を上げるサラリーマンに、俺に掴まれたままの痴漢は、突然沸いたような腕力でもって、俺の手を振り払った。立てていた爪が赤いひっかき傷を作る。人がきに揉まれる。
どけ、どけ! と大声を出しながら痴漢が出て行く。電車は止められていた。外ではサラリーマンが大声を出し続けていて、恐らく駅員がこちらに向かっている。電車に乗ろうとしていた人間の壁と、足を止めた人間の壁で、ひしめき合う中に痴漢が飛び出していく。俺は後を追った。絶対に社会的に殺す。心臓の音が大きすぎて気分が悪くなってきた。
最寄りの改札へと降りる手段が階段だった。痴漢が駆け下りていく。俺がそれを追い、その背後から駅員が走ってくるのを気配で感じる。とにかく目の前の男を殴りたかった。逃走と追跡を察知して階段を使っていた人間が細い悲鳴と共に左右に割れる。その中央を駆ける。痴漢が逃げる。階段を下りきってしまう。
俺は残りの段数を蹴って、飛んで、痴漢の背中にそのまま蹴りを食らわせた。全てがスローに感じられた。重力、柔らかなものにぶつかる感触と、そのまま押し倒す感覚、大層な音を立てて俺と痴漢は改札フロアに落下した。再度悲鳴が聞こえる。
朝の駅は混み合っている。大勢の人間がこちらを見ている。昂る血が沸いて、駅員が数人俺たちを囲んで、そこでようやく、やりすぎたと思った。
「君、大丈夫か」
動揺と怒りと困惑の表情を浮かべた駅員に尋ねられる。痴漢は体の両側と足を男の駅員に押さえつけられている。俺は無言で、立ち上がり、
「こいつに痴漢された」
と告げた。声はいつも通りの大きさだった。
「冗談じゃない! この、こいつのでたらめだ! なにが痴漢だ、こんなクソガキの尻なんか触るか!」
逆上している痴漢が大声を出す。周囲に人だかりができていた。携帯を構えている女子高生を駅員が散らす。絶対SNSに投稿された。
駅員が俺の腕をつかんだのは、このまま俺も連れていかれるからだろう。息が上がっている。朝から走るもんじゃない。痴漢がわめき、俺への悪態をついているが、もうこいつには興味がなくなっていた。ただこのまま会社をクビになって社会的に死ねばいい。駅員が俺の顔を覗き込む。
「大丈夫かな、ちょっとお話を伺いたいんだけど」
「……」
もう話したくなくなっていた。昇っていた血が行き場を失くして、ぐるぐると体のそこかしこに戻っていくようだった。気分が悪い。何も言いたくない。頷かず、口を噤む。
「……あの」
俺の背後から声がした。振り返る。そこにはパーカーのフードをかぶり、リュックを前に抱えたブレザー姿の男子高校生が立っていた。リュックを握る手は関節を白くしている。なんだ、電車下りられたのか、などと場違いなことを考える。
「俺も、……俺も、この男に、痴漢されました」
そいつも慌てて降りたんだろう。少しだけ息が上がっていた。
駅の事務所にいる。テレビ番組で見たことがあるような、ないような、それよりも幾分きれいな小部屋だった。
二脚のパイプ椅子に俺とブレザーが並んで座っている。この部屋の奥に連れていかれた痴漢の罵声がドア越しに聞こえる。まるで警備員のようにそのドア横に立つ駅員と、ブレザーは、罵声が鳴るたびに驚いてびくりと肩を跳ねさせた。
時間も置かず警察が現れる。一人が奥へ向かい、一人が俺たちの前に据えられたデスクに座る。ドアが開いたときに痴漢の罵声がクリアに聞こえた。元気なやつだな。そのまま舌を噛み切ってほしい。
「不快な目にあったところ申し訳ないが、詳しい話を聞かせてほしいんだ」
警察はそう言った。その目が俺の左側、袖の裾を見たのを知る。何を聞かれるんだか。
俺とブレザーは少しの間黙っていたが、促されるままどちらともなく口を開き、ぽつぽつと状況を説明した。ブレザーの声がひくついたり、俺が黙ったことを覗けば、おおむね筋は通っており、ただブレザーが「この、彼に助けてもらって」と言いだしたのには閉口した。なんとなく恥ずかしかった。警察官は何かをずっと書き続けていて、それが終わってから礼を言われた。
「二人とも高校生だね」
「はい」
「……はい」
「すまないが、保護者の方に連絡は取れるかな」
ああ、まずい。
無意識に視線が逸れる。見ると隣のブレザーも、リュックを掴む手が震えているようだった。なんだ。こいつも保護者を呼ばれるのがまずいんだろうか。
「……嫌だと言ったら?」
訊ねてみるが、にべもなく規則だからと言い返される。連絡は取れるだろうが。取れたとして呼びたくはない。しかもこんな、どうしようもなく情けない状況で。奥の部屋が少し静かになる。おっさんのエネルギーも切れるのだろう。
「二人とも、学生証を見せてくれるかな」
質問ではなかった。命令だ。俺とブレザーが固まる。それでも、学生証を、と再度言われれば、取り出さざるを得ない。
警察官は受け取ると、中を確認し、緊急連絡先を見つけたようだった。同時に名前を呼ばれる。大倶利伽羅広光くん。山姥切国広くん、とはブレザーの名前だろう。
もうどうしようもないだろう。俺は座り直して警察官が持つ学生証へと手を伸ばした。パイプ椅子が軋む。
「携帯だ」
「携帯?」
「そっちは古いんだ。家の電話には出ない……、携帯で連絡を取る。それでいいか」
警察官は、大丈夫だよ、と頷いた。ただし番号は控えさせてほしいと言う。面倒だった。しかし仕方がない。スマホを取り出し、これほど電話をかけるのが億劫だったことはあるだろうか、登録していた番号を表示させる。一拍置いて、通話ボタンをタップする。
ひどく長い呼び出しコールの後に相手が出た。
『……広光か。どうした、急用か』
耳に当てたスピーカーから聞こえた声に、安堵してしまったのが悔しかった。俺は思ったより疲弊しているらしい。歯噛みして、言わねば伝わらないのだから短く答える。
「……ああ」
『何だ、本当に急用なのか。何があった、事故か、喧嘩にでも巻き込まれたか』
俺が普段電話を掛けることもないのだから向こうも驚いているらしい。そしてその選択肢が浮かぶ自分への信頼度が笑えるだろう。もしかして冗談のつもりか。
「違う。……それが、……痴漢、を、捕まえた」
『は? 痴漢?』
警察官を見る。いつでも代わってくれ、とでも言うような目だった。どこまで自分の口から言うべきだろうか。もう疲れている、思わずため息が漏れる。
「駅の事務所にいる。学校の最寄だ、まだ登校していない。たぶん、……今日はこのまま休む」
『痴漢を捕まえてか?』
そう言って、電話口の向こうで、保護者である叔父が口を閉じたのが分かった。この大人は察しがいい。たぶんもう伝わってしまった。
「そうだ。いま目の前に警察がいる、……代わるぞ」
『ああ。分かった』
スマホを警察官へと渡す。受け取ったそいつは、静かに対応して、慎重に言葉を選びながら電話向こうの叔父と話す。俺は椅子に座り直して、警察官の話に聞き耳を立てながら、ふと隣で固まったままのブレザー、山姥切国広を見てぎくりとする。
山姥切は泣いていた。今更痴漢に遭った実感が湧いてきたのだろうか。もしくは、よっぽど保護者を呼びたくないのか。分からないが、警察官も山姥切の様子に気づき、驚いたようで、しかしまだ電話の対応が続いていて手を回せないでいる。山姥切が鼻を啜る。
「……おい」
「う……、っぐ」
袖口で目を覆う。肩が震えている。不味い、これはこのまま嗚咽するやつだ。どんどん前傾姿勢になっていく。さっき名乗り出た時はだいぶまともに見えたのだが、そもそも痴漢されているのを言えずに固まっていたやつだった。俺はどうしようもなく、無意味だろうと思いながら、ブレザーの肩を叩いた。引き結んだ口の中で嗚咽を飲み込む声がする。ずず、と鼻を啜る音と、目に当てられた袖が離れて、金色の長い前髪の向こうから山姥切の目が覗いた。俺を見ている。
緑色だった。青だろうか。とにかく外国人か、と思えるような顔だと、このときようやく気づいた。白い肌のお陰で、目の周りと、鼻のあたりが真っ赤になっている。ガラス玉のような目に涙がぶわりと溢れている。名前はだいぶ古風なのだが。俺も人の事は言えないが。
警察官の声が変わる。電話が切られる。そしてそのまま画面を弄られ、叔父の名前と電話番号が向こうに控えられてしまった。アドレス帳にフルネームで入れたのを後悔する。違うか、無ければ口頭で尋ねられるだけだ。
ありがとう、とスマホを返されながら、保護者の方が迎えに来て下さるそうだ、との言葉に絶句した。まさか。来なくていい。仕事人間が出勤直後に出てくるほどの事件なのか、これは。警察官が立ち上がる。
まだぼろぼろと涙が流れている山姥切の横に警察官が屈みこんだ。俺が掴んでいるのとは逆の肩を優しく叩く。緑色の視線が警察官へと移る。
「きみの学生手帳には緊急連絡先が載っているね」
山姥切が頷く。リュックにぱたぱたと水滴が落ちた。
「こちらに私から電話をかけてもいいかな」
俺の時よりも随分抑え目な声をしていた。それもそうか。さっきから山姥切はほとんど声を出していない。
返事はなかった。やはり抵抗があるらしい。どうかな、と警察官が促す。頭が振られる。
「……い、やだ」
「それじゃあ、君がかけてくれるかい」
とても出来る状態じゃないだろう。分かっていて聞いたんだろうが、やはり頭は振られる。警察官は肩を落とした。
「書類に控えるのはいいかな」
間が開く。鼻を啜る音がする。やがてフードをかぶった頭が頷いた。警察官が立ち上がりデスクへと戻る。
書類に幾らか書き込んだ後、二人分の学生証は返された。書類が捲られ、何箇所かに鉛筆が走る。警察官は紙面から顔を上げ俺を見た。
「二人は知り合いかな」
問われて、首を振る。
「違う」
俺の言葉に山姥切が頷いた。
その後小さな質問を投げられたり、駅員が茶を運んで来たりしたが、隣にある嗚咽は落ち着いたりぶり返したりと、しばらく経っても警察官が望むような状態にはならなかった。
君たちの学校には駅でのトラブルに巻き込まれたと連絡する、と警察官が言った時、山姥切は泣いたままの顔を上げたが、何も言わず、そこでは頷いた。俺は、痴漢を捕まえたとだけ伝えてほしいと言って、警察官がそれを了承した。胸から業務用らしい世代遅れの折りたたみ携帯が出てくる。
警察官が立ち上がり、少し離れた壁に寄って、書類に控えた高校の連絡先へ電話を掛ける。耳をそばだてたが、俺が言った通り、トラブルが起きて、痴漢を捕まえるのを補助していただき、聴取のため本日は休むと伝えたようだった。その内容で二本の通話が終わる。警察官がこちらを見たときに、事務所のドアがノックされた。
失礼します、と駅員に連れられ入室してきたのは、まごう事なき叔父の長谷部だった。突然現実味が帯びてきて心臓が縮んだ心地がした。様子から見て飛び出してきたのだろう。髪が少し乱れ、コートも抱えたままだ。スーツのままで寒くなかったんだろうか。
「広光」
言葉は名を呼んだところで途切れた。長谷部は無駄な事はほとんど言わない。俺の保護者で、互いに繋がりはあるが、べったりとした関係ではない。
「仕事中に悪い」
「構わん。学校への連絡は」
「警察がした」
「そうか」
警察官が立ち上がる。それを見て長谷部が頭を下げるのを睨んだ。必要ない。何処か不快だった。
「お世話になります」
「いえ、長谷部さんですね。ご足労いただきありがとうございます」
俺を置いてやりとりが始まる。する事がなくなり、隣を見ると、山姥切がこちらを凝視していた。そして慌てて目をそらしてくる。
「なんだ」
「……」
山姥切は答えない。俺の方ではだいたい訊ねたいだろうことに目星はついている。
保護者を呼ばれて両親ではない男が来た事。顔も、髪や肌の色も違う人間だ。そもそも姓が異なるからすぐに分かるだろう。家庭の事情だ。実質の両親以外の人間に扶養されることに引け目はないが、そう通常でない事は理解している。山姥切がフードを引き下ろす。
「叔父だ」
「え、……あ、ああ」
俺が話した事に驚いたらしい。挙動不審のまま、盗み見るように長谷部を見上げる。泣いていたせいで下まぶたが赤く膨れている。子どもみたいだ。所作が幾らか幼いと思った。
長谷部に椅子が用意される。警察官が話の途中で書類を書き込み始めると、長谷部は俺を見た。そしてその向こうに座る山姥切を覗く。
「知り合いか」
「……初対面だ」
言って、不審に見えると思った。
「こいつと痴漢を捕まえた」
言葉を続ける。そうか、と長谷部は言い、それ以上をここで問うつもりはなさそうだった。それで良い。
警察官とのやり取りが終わり、俺は帰れるのかと思い、山姥切を伺う。相変わらずリュックを握りしめている。大丈夫かこいつ。思ったところで、山姥切がおもむろにデスクに体を寄せる。警察官が驚いて山姥切を見た。
「あの、電話を、……してもいいですか」
突然出た勇気は何なんだろうか。山姥切の電話はボソボソとしていた。小さく、兄弟、と聞こえたが、どういう意味かは分からない。やがて俺と同じように警察官が代わり、似たような話をした。話し始め、え、と警察官が呟いたのが謎だった。
長谷部を見る。
「あんた、仕事戻らなくていいのか」
「お前を送ってから戻る」
「子どもじゃない」
「俺が保護者なんだ。……彼は大丈夫なのか」
長谷部が視線だけで山姥切を示す。知らん、と思った通りの言葉を吐く。長谷部は短いため息をついた。
「保護者の方、来てくれるそうだよ」
電話を返しながらそう告げられ、山姥切は安堵なのか落胆なのか、肩を落としたようだった。
ノックが鳴る。奥の部屋からだった。それを見てあからさまに山姥切が動揺した。
俺たちを相手していた警察官が向かい、細くドアを開けてやりとりする。どうやら痴漢が警察に引き渡されるらしい。ちら、とこちらを見たのは、奥の部屋から出るにはここを通らなければならないからだろう。どうすべきか。逡巡するよりも早く長谷部が立ち上がる。
「構いません。通るならどうぞ。私も顔が見てみたい」
その言葉に警察官は渋ったようだった。俺は山姥切を見る。椅子の上で固まっていた。
しかし結局、申し訳ありません、と警察官が謝り、ドアは開かれた。俺は上着を脱いだ。そしてフードに包まれた頭を学ランで覆い隠してやる。息を飲む音が聞こえたが無視した。被害者の泣いた顔を見せるのは胸糞悪い。
痴漢が出てきた。最初の印象よりだいぶ老け込んだようだった。疲労しているらしい。本当に図々しいことだ。片側を警察官にがっちり掴まれて歩く様は見窄らしかった。長谷部が睨んでいるのがわかる。
「死んでも赦されると思うなよ」
俺たちの横を通り、去っていくその背中を追いながら長谷部が低く溢す。入ってきたのとは別のドアから二人は出て行った。裏口でもあるんだろう。
ばたん、とドアが閉まるまでの空気は最悪だった。デスクに警察官が戻る。俺は山姥切の頭から学ランを退けた。その下は覆い隠す前と殆ど変わらず固まったままだった。
「ご協力感謝します」
「……」
「ところで、彼の保護者の方がいらっしゃるにはあと三十分ほどかかるそうですが、お二人は如何されますか」
暗に帰るかと問われる。長谷部が俺を見た。俺は山姥切を見る。こちらを見返してくる山姥切は見覚えのある顔をしていた。
迷子の子どものような。捨てられた犬猫のような。
「あんた、どうする」
尋ねる。色の薄い唇が引き結ばれる。答えないのか。目はそらされないが、言葉も出てこない。パイプ椅子が軋む。長谷部が座ったらしい。
「帰った方が都合いいか」
「……」
頷かない。山姥切の顔が俯いてしまう。リュックを持つ手が握られている。俺は大袈裟にため息をついた。
「長谷部」
「構わん」
それだけ言って、ほとんど全員が無言のまま山姥切の保護者を待つことになった。長谷部に茶が出される。警察官の無線からたまに割れた音が鳴るが、それ以外に動きはほとんど無かった。死ぬほど長い時間だった。
山姥切の保護者は予定よりも早く現れた。見るに、体格はいいが、どう見ても親の年齢ではない。兄弟。山姥切が電話口で言っていたのを思い出す。明るそうな人好きの雰囲気を持っているが、その顔は場に合ってやや静謐なものになっている。
「兄弟。待たせてすまない」
眉をひそめる。なんだ。互いに兄弟と呼び合うのか、こいつらは。よく分からないが、俺の横につく長谷部と同じように、山姥切の保護者は彼の隣に立った。警察官とさっき見たやり取りが行われる。
山姥切は終始無言だった。顔を俯け、変わらずリュックを握りしめている。
警察官との会話の途中、俺や長谷部を示されることがあった。赤い目に見られて会釈する。やがてやり取りが終わり、保護者は山姥切の傍で屈み、俯向く顔を覗き込んだ。山姥切が僅かに顔をそちらへ傾けたようだった。
「朝から大仕事であったな。よく頑張った」
フードごと大きな手が山姥切の頭を撫でる。ぐ、と飲み込む音が聞こえる。リュックを抱えて山姥切が上半身を倒した。これははっきり安堵だと分かった。保護者がその背をさすってやりながら、立ち上がり、俺たちを見る。
「ご挨拶が遅れましたな。拙僧は山伏国広、この度は弟が世話になり申した」
「いえ。こちらこそ」
古風な喋り方をする。長谷部は流したのか、慣れているのか、ごく平然と対応した。俺はよく分からずに山伏国広を見た。国広。山姥切も国広じゃなかったか? 山伏のラフな格好はビジネスマンとは到底思えなかったが、尻ポケットから取り出す財布に名刺が入っていたらしい。保護者同士で名刺が交換される。異様な光景に思えた。
「そちらもお話はお済みで」
「はい、お先に」
「では、差し支えなければ車で近くまでお送り致しましょうか」
如何ですかな。尋ねられて、長谷部を見る。躊躇したようだった。おそらく善意だ。しかし初対面なのだ。俺が頭を振る。
「差し支えはないが、悪いがタクシーで帰る」
勝手に答える。おい、と長谷部が言うが、どうせこいつの車もマンションに停まっているのだ。電車に乗る気分でもない。ならば一択だろう。
山伏は気を悪くした風もなく、そうか、ならばと頷いた。純粋にいい奴なのだろう。厚い手が山姥切の肩を叩く。フードに覆われた頭が持ち上がる。
警察官と駅員に促され、俺たちも入ってきたのとは別のドアを潜った。
駅の裏手に出る。人通りも車も少ない。見渡し、駐車場が少し遠いと言った山伏に、良ければいらっしゃるまで彼とご一緒しますと長谷部が言うから、山伏は再三礼をした。むやみに連れ歩くのも一人にするのも不安なのだろう。
山姥切を見る。涙は止まっていた。ややあって、視線に気づいたのか向こうも俺を見た。長谷部は少し離れて立っている。
「大丈夫か」
「……ああ、なんとか」
「あんた、あの時間には乗らないほうがいい。三十分は早い奴だとだいぶ空く」
「そうだな。そっちにも、迷惑をかけた」
前に抱えたままのリュックの紐をいじっている。迷惑をかけたのは痴漢であってこいつではない。
「別にいい」
「……ありがとう。助かった」
フードを引き下ろしながら礼を言われる。ああ、とだけ答える。少しだけ無言があり、やがて交通量の少ないところにシルバーの高級車が現れた。
なんだ、と思うが、それを見て、山姥切が車道に寄るから、は、と短く息を吐く。運転席には山伏が乗っていてこちらに手を振っている。なんとなく変な取り合わせだと思った。財布から名刺が出る男がよく磨かれた高級車を繰る。
助手席に山姥切が乗り込み、呆気に取られている俺と長谷部に、助手席の窓が下りる。
「この度は世話になった。弟も一人ではないと心強かったことだろう。長谷部殿、何かあればいつでも連絡してほしい。では」
窓が上がる。山姥切がその向こうで会釈した。車が去っていく。角を曲がって、見えなくなってから、おもむろに長谷部が受け取った名刺を再確認する。
「……家が寺だな」
「……寺って金持ちなのか」
「知らん。知らんが、この寺の名前は聞いたことがある」
二人で立ち尽くす。電車の発車音がする。長谷部を見た。
「送ってもらったほうがよかったか」
頭を振られる。
「タクシー拾うぞ」
同感だった。