BD910

生きること

邸に帰り、ドアを内側から施錠すると安心できた。
薄暗い室内で浮かぶ埃に顔をしかめる。そろそろ掃除をしなければならないだろう。けれど明日の休みは無くなってしまったから、それが叶うのももう少し先になる。
さて、どう伝えたものかと考えていたが、まっすぐ二階の寝室へ入ったところで自室の光景にその思考は断ち切られてしまう。
「ルーク」
認識すると無意識に名を呼んでいた。ベッドで丸まって眠る赤毛の少年を見る。
すうすうと寝息を立てるたびに薄いシーツが僅かに上下している。朝、ベッドは直して出て行ったが、どうやらそれは無駄に終わったらしい。
呆れて眺めていると、枕元からオレンジ色の塊がむくりと起き上がり、小首を傾げながらこちらを見返してきた。
「みゅっ」
「チーグル。ルークが外に出ないよう、見ていなさいと言ったでしょう」
「みゅう……」
大きな耳が悲しそうに垂れる。
ベッドに腰掛け、ルークの細く小さな腕が枕に乗せられているのを見下ろす。弱く握られた指も細い。チーグルはルークの体を飛び越え、私の横へと寄ってきた後、何かを期待するような目でこちらを見上げた。思わず腕を差し出してしまったのは体の慣れだ。
飛び込んできたチーグルを逆の腕で抱え直し、眠っているルークの髪を撫でる。鮮やかな朱色だ。毛先も色素は薄くなってはおらず、額にはりつく一束を耳にかけてやりながら思わず息をつく。
「……う」
「ルーク」
僅かに動いた瞼に声をかける。やがて緩慢に開いたその目は緑色だ。宝石を埋め込んだような澄んだ深い色だ。ぼんやりとしながら何度か瞬きをし、目を擦ってからルークが私を認識する。そして少しだけふにゃりと笑った。
「おかえり、ジェイド」
「今日は自室にいなさいと言ったはずです。何故私の部屋で眠っているのですか」
「……ごめん」
「この部屋からは出ていませんか。足を見せてください」
背中に手をまわして起き上がるのを助けてやる。ルークは大人しく寝間着に包まれた両足を出した。膝は汚れていない。足先も同様で、ベッドサイドに脱いであった、揃えられたスリッパも酷使された様子はなかった。
「出てない」
「そのようですね」
隣に座るルークを見下ろす。子どもに興味が無いので、果たして今のルークが標準の十一歳と比較しても差異があるかは分からなかった。手の甲を滑らせて体を撫でるが、どこか熱くなっているところもなく、汗を薄くかいているのは今日がこの時期にしては気温が高かったせいだろう。締め切った部屋は熱がこもる。額を手のひらで覆い体温を測れば、くすぐったそうにルークが目を細めた。
「ジェイド」
「喉が渇いたでしょう。食事はとりましたか」
「……うん」
「嘘ですね。まったく……支度をするので、あなたは私のベッドを直して降りて来なさい。チーグル、ルークを手伝ってください」
「みゅっ」
腕から飛び降りたチーグルがルークの肩に乗る。ふかふかとした毛が頬に触れてルークが笑う。手伝うといってもチーグルに出来ることなど無くて、ただその場を一人と一匹に任せて、部屋を出た。階下にあるリビングへと向かう。

私は預言を順守したりはしない。天気を見ることはあるが、空気と雲の流れを読めば預言を見ずともおおよその見当はつくのだから、その必要性すら危うい。
それは今生よりも前からの性格だった。違う。私は私のままだ。老齢で往生するという、おおよそ自らの成してきた事には似つかわしくない最期を迎えた「私」は、死んだと思っていれば何故か再度目を覚まし、そして私自身のベッドにいた。始めは何が何だか分からなかった。
やがて、多くの検証を重ね、私はもう一度「私」として目覚めたのだと知った。死んでから復活をしたのではない。純粋に、二十五歳の自分として、二十五歳当時の世界に目覚めたのだった。原理や理論など組み立てられるはずもなく、ただそうであるという純然たる結果のみが私には与えられた。
そしてそれが、ありとあらゆることの始まりが全て過ぎた後の年齢であったこと、これから起こることは分かっているのに止めることはできない過ぎた頃であったのは、やはり幸運というよりは不幸に近いのだろうと思う。
どうせやり直すのならば生まれるところから始まれば良かった。

ルークの皿で人参が端に寄せられている。チーグルは不安げにそれを見ながら、自分の皿を着実に空にしていた。
私はスプーンを動かしながら見ないふりをしていたが、ルークが困ったようにこちらを見てすぐ視線を逸らしたものだから、無視してやるのを止めることにした。
「人参も食べなさい」
「……おいしくない」
「おや、それは調理した私に対する文句にも受け取れますよ。ルーク」
「ちがう、ニンジンが、」
慌てたルークの手が揺れて皿にぶつかったスプーンが音を立てた。それにびくりとするルークは伺うように再度私を見た。私はそれを聞かなかったふりをし、テーブルナイフを手に取りルークの皿に乗る人参を細かくしてやる。そもそも小さくしていたつもりなのだが。
「口を」
「……イヤだ」
「ルーク」
「ジェイド」
「駄目です」
言うと、観念したのか薄く口を開ける。そこへフォークに刺されたごくごく小さな人参を差し込んだ。フォークの先が唇から歯へと微かにあたるのが指先に伝わる。フォークを抜く。そこには人参が刺さったままだった。
「ルーク、あなたは」
「イヤだって言ってんじゃん!」
しかしもう一度差し込めば大人しく人参はルークの口へと落ちた。ぎゅっと目を瞑り、小さな塊を咀嚼するのを見る。
ようやく飲み込んですぐにグラスを空にしたルークにため息をついた。

相変わらず私は目にしたものをきちんと憶えているらしかった。二十五歳で目覚めた時、私は自ら放棄し、自ら再開したフォミクリー研究のその先を忘れてはいなかった。ただ、それが十年以上進んだ先で行っていたことであったから、少々誤差や二十五歳当時で足りないものがいくらかあり、けれどそれも全て私が組み立ててしまえば問題はなかった。
少しばかり歴史を改ざんすることにした。
フォミクリー研究は、私の憶えている歴史通り途中で放棄することにした。意図的に残したデータは不完全なモノばかりで、けれど実際のところ研究はほぼ完成していた。完全同位体のレプリカを作成する事。そして、そのレプリカが、第七音素の消滅を起こさないようにすること。個体としての寿命で死が訪れるようにすること。
安定性を向上させたことで劣化やオリジナルの消失が起こる可能性は限りなく低くなったが、それを完全にゼロにすることは難しかったし、それでも構わなかった。この年よりも前には戻れない今、私はたった一度が成功すれば他はどうでも良かった。

「ルーク」
食事を終え、風呂を出てから自室へと上がる。ルークはタオルを頭に巻いたまま、同じく濡れているオレンジ色のチーグルを拭くのに忙しいらしかった。ベッドの上だ。自分の毛先から落ちた水滴が襟元を濡らしているのを気にも留めない。
同じ歳の子どもと比べたことはないが、比べずとも分かるのはルークの言動は幼いという事だった。まだ生まれて一年しか経っていない。ベッドで寝返りを打つばかりだった頃から、歩き方を覚えさせ、食べ物の咀嚼や指先を動かすことを教えてからそう久しくない。体は七年分育っているのだから、できる用意は整っているのに、頭と心がまっさらなのだから教えるのもそう楽ではなかった。
「貴方の髪も濡れているでしょう」
「でもミュウが濡れてるから」
「……やれやれ」
ルークの後ろへまわり、頭に乗せているだけのタオルを取る。頭を拭いてやりながら、手を伸ばして脈をとったり、体に不調が無いかをルークに尋ねる。私がルークを生み出して常にそうしているのだから、ルークは何も疑うことなくそれに返していた。これが彼における日常なのだ。
「ミュウ、もう乾いたぞ」
「みゅっみゅっ」
「あなたも髪が乾いたらもう眠りなさい」
「……ジェイドは寝るのか?」
「私はまだ起きていますよ」
そこまで話して思い出したことがあった。ルークは振り返り、後ろに座っている私を見上げている。その顔は不安だった。そしてその不安を私は杞憂で終わらせることができない。少しだけ困った顔をすることにした。
「ルーク。明日のお休みですが、お昼まで待つことはできますか?」
「……仕事?」
「ええ、そうです。実験結果が芳しくなかったので、もう一度音機関にサンプルをかけてきました。明日の朝、その確認に行きます」
ルークが体ごとこちらに向き直る。そしてああ、だとかうう、だとか、小さく唸りながら、視線を彷徨わせながら、私に何か伝えようとしている。私はルークの口が開くのを待った。
「昼だよな?」
「ええ」
「のびるかもしれない?」
「場合によっては」
「じゃあ……」
いやだ、という声が飲み込まれていくのを見た。私は過剰に期待させないよう、うそぶいて頷くことはしなかった。
明日、ルークと出かけることになっていた。便宜上私の養子となっているルークは、一人で出歩くことを私に禁じられている。それをよく守るルークはいつも大人しく自室に居て、稀に寂しさに耐えかねてか私の部屋までは侵略してくることはあれど、約束を破って邸の門を一人で潜ったことはなかった。明日は単純な買い出しの予定だった。
「もし昼を過ぎたとしても、夕方には出かけることができますよ」
「……前もそういって夜になったじゃん」
「それについては弁明のしようがありません。ですが今回は前回とは違いますから」
「一緒だろ」
「ルーク。それでは、明日出かけた時に貴方が欲しがっていた本を買いましょう。もし遅れてしまったら他のものでも」
「……いい、いらない」
ルークの声が小さい。顔を俯けたまま、私の方を見ようともせずベッドをおりる。スリッパをはく間に、うとうとと舟をこいでいたチーグルが慌ててルークの後ろに飛びついた。
「もう寝る。あした、仕事行っていいよ。こい、ミュウ」
「みゅう……」
「おやすみジェイド」
「おやすみなさい、ルーク」
何度かこちらを振り返るチーグルに対して、ルークは振り返らず私の部屋から続く自室へのドアを開いた。彼の部屋は私の部屋を介してのみ出入りができる。ドアが閉まり、かちり、と鍵の閉まる音がした。出入りをする際に施錠をするよう言ったのは私だった。
想像以上に落ち込ませてしまったらしい。眼鏡を押し上げる。もう一度ドアを眺めてから、寝室に据えられている簡易のデスクへ向かう。持ち帰った書類を少しでも片づけてしまわねばならない。

今の私は「戦場で拾った孤児を養子として迎えた奇特な少佐」の位置にいる。
ルークを手に入れるために、私は、ヴァン・グランツがオリジナルのルークをさらう前にさらってしまうことにした。時期が被ったことを怪しまれないよう、私の養子縁組手続き自体はオリジナルルークの誘拐よりもいくらか先に済ませておいた。人間が一人いるように見せかけるだけの偽装はレプリカ研究を行ってきた身からすれば容易だった。
そして誘拐事件から帰ってくるのはレプリカルークではなく本物のオリジナルルークだ。
この世界に鮮血のアッシュという六神将は存在しないことになった。
帰ってきたオリジナルルークに対して、果たしてガイが復讐を遂げるのか。
ヴァンはさらに警備の厳しくなった王城で二度目の誘拐を強行するのか。
この世界で預言のとおりアクゼリュスを崩壊させるのはオリジナルか、第二のレプリカルークか。
何も分からない。これから数年後の未来が、世界が、どう変化していくかなどに興味はない。
私が欲したレプリカルークは私の手元にある。必要なのはただそれだけだった。

翌朝、早朝。外はまだ薄暗い。
身支度を済ませて、ルークの部屋へと足音もたてず近づく。肌身離さず持つその部屋の鍵は、私と、ルークだけが持っている。
かち、という金属音とともに鍵が開く。中に入るとルークは丸まってベッドに寝ていた。その腕の中にチーグルが収まっている。私が近づくとチーグルが僅かに目を開け、やがてぱちりと瞬きをした。
「静かに」
唇に指を当ててそう呟くと、チーグルは大人しく瞬きを返した。持って来た食事を狭い部屋の小さなテーブルに置き、結局昨日は手つかずとなった分のトレイと取り換える。寝ているルークの首に鍵を下げるためのストラップがついているのを確認し、静かにしていたチーグルの頭を撫でてやり、部屋を出る。
ルークの部屋にとりつけられた唯一のドアの鍵を閉める。これでは記憶にあるルークと同じく軟禁されているだけだ。そして私はそのつもりで彼を手に入れたのだ。
決して周囲に彼がレプリカルークであることは知られてはいけない。
私は鍵をかけるその瞬間に、鍵が閉まっているのを確認しながら開く瞬間に、何度でも安堵する。

フォミクリーの研究が成功したと断言できる成功例がルークの持つチーグルだ。
オレンジ色の彼は、恐らく雄だが、完全同位体かつ劣化が他サンプルに比べてほとんど緩和されていた。そして何より検出された音素の乖離率が極端に低くなっていた。ほぼ零に等しい。私は喜びを覚え、その実験に関するサンプリングデータおよびすべての媒体のデータを処分した。必要な数値は私の頭の中に入っていればそれでいい。
チーグルの寿命は人間に比べはるかに短いが、乖離率が通常のレプリカは試験後、一定の期間をおいて消滅していた。いまルークの手の中にいるチーグルはレプリカとして生まれて二年を越えようとしている。いまやルークの傍を片時も離れようとしないほど睦まじくしている。
ただ、ルークにオレンジのチーグルを与えた時、鳴き声から「ミュウ」と名付けたのにはぞっとした。

私は急いでいた。時計を見れば昼などとうに過ぎている。
降り出した雨はどしゃぶりとなり、走る足元はぐずぐずに水を吸っている。灰色の雲は厚く、切れ間も見えないのだから、この雨はしばらく続くだろうと思った。
邸の門を越え、玄関ポーチで思わず息をつく。天気が急に変わり、雨具などもっていなかったから、頭から爪先までぐっしょりと濡れ切っていて、まだ肩口程の髪を軽く絞ると毛先から水がぼたぼたと垂れた。コートは脱げば空気を異様に冷たく感じて、それも軽く絞ってしまい、ようやく中へと入る。
施錠すると扉の向こうで雨音が籠って聞こえた。
邸の中もほとんど夜のようで、私は譜術でぼんやりとついた灯りを見ながら自室へと上がろうとする。
その時、がたりと音がした。それは邸の中からだった。
手の中に槍が具現化する。私は音がしたほうへと目を向けた。一階だ。私の部屋は二階にある。ルークに許容した活動範囲もつまり二階のみになる。一瞬だけ、ルークを確認しようかとも思ったが、侵入者であればそれを消すのが先だとすぐに考え直した。
「誰です」
フォンスロットを解放する準備は整っている。音がしたのはバスルームからだった。かろうじて人が入れる窓がある。私は慎重に、けれど緩慢な動きではないままバスルームへと入る。
そこには棚から零れ落ちたタオルの山があった。その下から細い腕が覗いている。
「……ルーク!」
思わず呼んだ。見間違うはずはなかった。槍は空気にとけ、タオルの山をどかすと、その下から怯えたような顔でルークが私を見上げていた。
「ジェイド」
「何をしているんですか! なぜ一階に、」
言って周囲を見れば理由は簡単だった。棚の前に椅子がある。椅子の前にはスリッパが揃えられている。ルークがタオルを棚から取ろうとしたのだろう。私の部屋の窓は表通りに面していて、きっと自室で待ちきれずに外を覗いていたのだ。そして私が帰るのが見えたのだろう。外は雨が降っているから。棚にはまだ届かない身長であるのに。
どうして、子どもがこうも分かりやすく、かつ、自分では到底完遂できないであろうことを思いつくのか、私には理解できなかった。瞬間頭に血も昇ったが、すぐに呆れへと昇華されてしまって、けれど喉元につまる衝動が消えたわけでもなくて、どうしようもなくなり盛大にため息をついた。
「ごめん……なさい」
「……全く」
「ジェイド、ごめんなさい」
目に涙がたまっている。堪えられているのは努力によるものだ。声が震えている。私はぺたりと座り込んだまま立ち上がることのできないルークを見下ろし、名を呼んでから、ルークの肩を上から掴んでむりやりに立たせてやった。
「頭を打ちませんでしたか。痛いところは」
「ううん。……ううん、大丈夫」
「嘘をついてもあとでバレますよ」
「……ひざ」
「見せなさい」
ルークの前にかがみ込み、部屋着であるハーフパンツの裾から伸びる足を見た。少し外側が赤くなっている。痣にはなるだろうが大したことはないだろう。他は、と聞いても頭を横に振るから、そこでとうとうルークの目の縁から涙がこぼれた。慌ててそれを拭うのを見ないことにする。
「ジェイド」
「なんですか」
言葉からとげが抜けない。一度死ぬまで生きた身からすれば、まだこの体は未熟なのだと知った。ルークは少したじろぎながら、けれどおずおずとタオルを差し出してくる。
「ジェイド、濡れてるよ」
鼻をすすって何を言うのだ。目の前のタオルを見ながら思う。雨に降られた私など、椅子から落ちた子どもの身からすれば些細なことだろう。溢れるほどに潤んだ目を見る。ルークは視線を逸らさず、困ったように私を見ている。
「……ルーク」
手を引く。屈んだままであれば私の方が彼よりも低かった。全身濡れたままではあるが、気にせずそのまま細い体を抱きしめた。ルークは驚いたようで、けれど喜んだようで、冷たいはずの私の首に腕を回して遠慮もなく頭を擦りつけてきた。そして冷たい、と言って笑った。耳元で鼻をすする音がする。
温かく、土が混じったような肌の匂いがした。人の匂いだった。ルークが腕の座りよい場所を探してそわそわと抱き直すのを好きにさせてやる。
「私は怒っています」
「……怒ってるのか」
「何故だかわかりますか」
「うん、……危ないことしたから」
「そうです」
「あと、約束破ったからだろ」
「……私がいない間に一階に下りましたね」
「外には出てないよ」
「当然です」
ルークの体を抱え上げる。まだ片腕で持てる程度の重さだ。ルークが本格的にしがみつく。
浴室に入り、バスタブの蛇口をひねった。吐き出されるお湯の温度を確かめながら、しがみつきつつバスタブを見ようとするルークを抱え直す。
そして思いついたことを、深く考えずに実行してしまうことにした。

「十でいい?」
「もっと多く数えられるでしょう」
「長いよ」
「長く浸かるんですよ。……肩まで沈めなさい」
掌で掬い、肩にかけてやればぱしゃ、と湯がはねる。ルークがころころと笑う。バスタブの中、私の膝の間に収まったルークは、首を傾げて、十から先を数えはじめる。わざと誤って、私が訂正するのをさも面白そうに聞いてさらに笑うのだ。このままでは追々のぼせるだろう。
「そんなに楽しいですか」
「楽しいっ」
「それは結構なことです」
ルークが腕を伸ばしてくる。湯が滴り、私の首に抱き着いてくるのを拒まず受け入れる。張った湯の表面が波打って、それが追い打ちのようにルークの体をこちらへと押しつけて、私の胸にぶつかって笑う高い声がバスルームに響く。毛先まで冷えていた私と、ルークの体温はもう上がっていた。温かな空間の中で湯に揺られている。浮力でルークの体はほとんど浮いていた。
「なあ、ジェイド」
「なんですか」
気の抜けた声で名を呼ばれる。問うが、ルークは身をよじるだけで続きを口にしなかった。それは躊躇いのようで、言いよどんでいるのだと気付いたからこそ、朱色の髪がぺたりと倒れている後頭部を撫でるに留めた。
「なんでもない……」
ぎゅ、と腕に力を込めたルークに、少しだけ頭を傾けてやる。すり寄るようにもとれるその仕草だけでルークは嬉しそうに笑った。ジェイド、と名を呼んで体を密着させてくる。あいにく子どもをどうこうする気はない。これから先を私の手の中に収めるため、先んじて掌の上で転がしているだけだ。けれどこの温度はひどく心地よかった。僅かに重さのある細い体も、抱きしめてやるには丁度よかった。
途端、バスルームのガラス扉に何か柔らかいものがぶつかる音がする。二階から降りてきたらしいオレンジのチーグルだった。先ほど着替えを取りに寝室へあがった時にそのドアを開いたままにしておいたのだ。バスタブで遊ぶルークと私の長湯に待ちきれなくなったらしい。扉越しでくぐもったみゅうみゅうと鳴く声が聞こえる。
「ルーク、そろそろ出ますよ」
「やだ、もうちょっと」
「貴方はのぼせているでしょう。ほら、立ちなさい」
「のぼせてない……」
拒否するが子どもの力に負ける訳もない。二人同時に立ち上がれば、ざば、とバスタブを越えて湯が流れ出ていく。ふらついて私の腕にしがみついたルークを見下ろした。水の屈折が消えて露わになった肢体は目に毒ではある。
「足元に気をつけて」
「うん」
促されて先にバスタブから下りたルークは、しかしバスルームからは出ずに私を待っていた。ハンガーから取りあげたタオルでルークを拭いてやる。ルークは大人しくされるがままだ。タオルを巻いてやり、ガラス扉を開けるとチーグルがルークに飛びついてきた。狙いすましてルークの肩へとしがみつき、ルークが再び笑い出すのを見ながら私も脱衣所へと出る。
「早く服を着なさい」
裸体のままチーグルとじゃれつくルークを叱りつけるのだ。私も少しのぼせたのだろう。

それから食事を作る間、ルークはずっと私について回った。背中にチーグルを張りつけたまま、キッチンに立つ私の後ろで、手元を覗きこんだり腰の辺りにしがみついたりと忙しい。
海老が多めのカクテルサラダに満足した彼は、なにか吹っ切れてしまったのか、その日はそのまま子ども然とした甘えを全力で見せていた。しまいにはチーグルまで私に飛び移ってくる始末だから手に負えないだろう。
「一緒に寝る!」
「貴方が眠れば、奥の部屋へ運んでしまいますよ」
「……でも眠るまでは一緒に寝てくれるだろ」
「ええ、眠るまでは」
私のベッドに早々に潜り込んだルークは期待を込めた眼差しをこちらへと寄越している。仕方なしに隣へ横になると、にこにこと体をすり寄せてくるのだ。私はルークの頭を持ち上げ、枕をその下へ入れてやった。
「ルーク」
「うん?」
既に目が細まり始めているルークが力の無い声で答える。私は肘をついた姿勢のまま、空いた手でルークの頭を撫でてやった。
「今日は、……すみませんでした。私こそ約束を破ってしまいましたね」
謝罪というものは、それこそ自分に非があればより口にしづらいものだとつくづく思う。大人げないのだろう。ルークはぱちりと目を開けた。そしてふにゃりと笑った。
「ジェイド」
「なんですか」
ルークが、かけてやったシーツから手を出して、私の頭を撫でた。シーツからはチーグルが顔を出して不思議そうに私とルークを見比べている。
私は、うまく反応もできず、小さな掌が髪を乱すのを振り払えもしなかった。
「……なんのつもりですか」
「俺、ジェイドと一緒で嬉しいよ。外でれなかったけど、いいよ。また次に行こうな」
手はすぐにシーツの中へと戻っていった。そしてチーグルを抱え直し、穏やかに両目を閉じるのだ。
その様に眩暈がした。この姿形をした幼い塊が、いつだって私をどうしようもない気分にさせている。
そしてルークは、うっすらと目を開けて、翡翠の双眸で、私を見上げた。
「なあ、ジェイド」
「ええ」
バスルームでもあった問答だった。ルークはやはり身じろぎをして、チーグルの頭に少し顔を埋めて、けれど今は意を決したらしかった。小さく唸り、ごく微かな声で言う。耳まで赤くなっているのは薄闇の見間違いではない。
「俺ね、ジェイドのこと好きだよ」
完全同位体でないレプリカを作ることは容易だった。けれどそれは私の望んだルークではないのだ。完全同位体で自分がレプリカという存在であると知った、あの時のルークが欲しかった。
いつか干渉が起こるだろう。いつか彼の存在も世界に気付かれるだろう。世界が彼の死を欲しがる前に、彼の存在全てを好きにしてしまいたかった。
私のもとで育つことで、彼が彼ならざる何かになることに懸念もあった。けれどルークは、私が望むとおり、彼そのままの存在であって、いま目の前に据えられているのだ。たとえまだ未熟であっても。たとえ世界が少々歪んでいっているのだとしても。私は構わなかった。彼がルークとして存在すること以外にこの世界に価値が見いだせなかった。
人は私を人で無しと言った。私もそう思う。私が孤児を拾ったのだと、便宜上であれ言った時に、親友と妹を含めて周囲の人間は驚きを隠しもしなかった。何か裏があるのではないかと言われもした。別段どう受け取られようと興味はなかった。
私は眠りについたルークをぎこちなく抱き寄せる。明日の早朝にでも、ルークが眠っている間に彼の寝室へ運べばいいだろう。有事であれこの部屋に誰かが入り込み、この状態を見たとして、親子のそれにしか見えないのだろう。そしてきっと、ルークが目覚める前に、私がそいつを消してしまえば全てうまくいくのだから。
「私も貴方が好きですよ、ルーク」
眠ってしまったルークには聞こえていないだろう。けれどそれで問題はない。私はこのまま、彼の手を離さずにいればいい。

その一年後にオレンジ色のチーグルは消えた。個体としての寿命ではなかった。私はその現象に覚えがあった。
チーグルが消えたことをうまく飲み込めず、苦しそうな表情で私に泣きつくルークを、その背を、撫でながら、私はきっと自分はもう一度、死んでから目を覚ますのだろうと思った。

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