BD910

愛していた

その日のパーティーは盛大なもので、国民のみならず、世界中の不安や行く先の暗闇を僅かでも晴らすようなものだった。
あてられた客室に戻り、ジェイドはかけていた眼鏡をベッドのサイドチェストへと乗せる。譜眼を解いて久しいが、ほぼ半生近く使用していたものだから、そのまま習慣でかけ続けている。恐ろしくも視力が低下すれば何食わぬ顔で掛け替えてしまえるだろう。
式服の上着をハンガーに任せ、小さくとも立派なバルコニーへと出る。マルクトの外交官としてこの場に居るのだから待遇は大層なものだった。
夜も更けたキムラスカ・ランバルディア王国は、ぽつぽつと灯る明かりを中心に未だ盛(さか)りであるようだった。王位継承者であるナタリア姫とその婚約者が婚姻の儀をとり行ったとして、騒いだまま日を跨いでいくようだった。明け方からはまた別の騒がしさでもって忙しくなるだろう。王族の結婚を祝して国中が浮かれた気分に酔うのだ。
ドアをノックする音がした。ジェイドは振り返り、どうぞ、と声をかける。やがて少しの間があり、ノブが回った。そこには一人の青年が立っている。
彼の名前を呼ぶことは簡単だろう。しかし容易ではなかった。ことジェイドとガイに関しては。あのときの仲間全てが、違った心境で彼の名前を呼ぶのを躊躇してしまっている。長い赤毛を背中へ垂らす彼は、タタル渓谷に現れた青年は、いま、キムラスカ王国のルーク子爵として受け入れられ、この度婚姻の儀の場で爵位が伯爵へと上げられた。彼はナタリア姫と結婚するのだ。
「これは殿下。こんな夜更けに如何されました」
「その呼び方をやめろ。アッシュでいいと言った」
「……ええ、構いませんよ。いまここにはあなたと私二人だけですから」
彼はゆっくりと歩き、バルコニーに立つジェイドの傍で止まった。ジェイドは両手をポケットへと入れ、ゆったりと構えている。装飾は外されているようだが、赤毛の青年の服装はパーティのままのもので、何をしていたのだろうか、ジェイドはここで考えるのをやめた。
彼がバルコニーの外を覗く。ジェイドと同じく夜の王国が見渡せるだろう。
「お前とは話さなければならないと思っていた」
「おや、何故ですか」
問うジェイドを青年が見上げる。ジェイドはバルコニーの柵にもたれ、もう景色を見てはいなかった。
「……記憶がある」
「ええ。大爆発とはそういうものです」
「お前とあいつのことを俺は知っている」
互いに静かな声だった。風はなく、僅かに二人の髪を揺らす程度だった。
ジェイドは青年を見た。見覚えのある高さより少し高い位置の頭を見た。表情はないに等しいが、怯えても怒りもしていない彼の顔とはこういうものだったのかと、どこか遠い存在のように傍らの一人を眺めた。
「全員が知っていますよ」
「……あいつらか?」
「ええ。あの密度で隠せるものでもないですし、明かした方が何かと楽でしたから。仲間が知っていることはあの子には黙っていましたが」
「そうか」
「あなたは私に何を話しにきたのですか」
青年がジェイドを見上げた。翡翠の瞳は部屋を照らす譜業灯の光にさらされ、虹彩を瞬かせる。ジェイドは気分が悪くなるのを感じた。覗き込むことは出来ない。しかし目を逸らすつもりはなかった。
ジェイドの指先が、眼鏡のブリッジに当てられる。そこに眼鏡は無い。ジェイドは、自分も冷静ではないと苦笑する。
「あの子の代わりに離別を告げに来たわけではないのでしょう。殿下。私は貴方が何者か知っていますよ」
「……」
「あなたはあの子ではない。アッシュでもない。アッシュを主人格とした、限りなく近い別人だ」
彼の表情を見ただろうか。僅かに動いた彼の顔を。ジェイドは、相変わらず自分が、優しい言葉をかけてやれないのだと理解した。どうしても自分の言葉は鋭利な刃物でもって、頬へとあてられるか、心臓へと突き刺さってしまう。どうすれば回避することができるか、ガイラルディアにでも訊ねておくべきだったのかもしれない。
しかし自分の周囲がすべて、その言葉を、誰も躊躇して突きつけられない刃物を望んで、自分の名を呼ぶことがあるのだとジェイドも知っていた。だからこそ告げる。ジェイドは彼が二人のどちらでもないことを知っている。
「……記憶はあるんだ」
「ええ」
「それだけしかない。俺の中に二人の人間の記憶がある。忘れているものもある。だが思い出したくない記憶ほど鮮明に浮かんでくる」
「脳の仕組みです。記憶を補完して鮮明にする」
「頭がおかしくなりそうだ。誘拐のあと、アクゼリュス、レムの塔、二人分の記憶と考えが混ざって、あのレプリカが、アッシュが、いくつも重なってるんだ。何度も思い出してたんだ、あいつらは、違う、俺か? 俺は結局アッシュなのか。オリジナルのルーク……でも違う何かが確かにあるんだ。お前らが全員、俺の向こうにどちらかを見ている。レプリカも、オリジナルも、お前らが知ってるやつはもう記憶の中にしかいないのに。俺の声に反応する。俺の動きを悲しそうに見る。……吐き気がする」
バルコニーに乗せられた彼の手は強く握りしめられていた。関節が白く浮かび上がるのをにらみながら、彼は、吐き出しようのない憤りを胸の中に燻らせている。ジェイドは目を伏せた。
「レプリカは死体が残りません」
「……なんだと」
「アッシュの死体を見た者もいません。だから誰もあなたをルークレプリカや、アッシュではないと、確信を持つことができないのですよ。あなたは死んだオリジナルと、消えるレプリカによる大爆発から作られた。ほとんど全てが再構成されたのですから、それはある種の別人です。記憶を受け継いだ。しかしその先を生きるのは貴方一人だ」
夜に死にたくないと泣いた子どもはいなくなった。死を見つめながら、覚悟を決めながら、しかしほんのわずかでも諦めることのできていなかった子どもは、二年前のエルドラントに消えた。記憶があるから何だというのだ。器に入った心臓を見せつけられるのと同じ事だ。死体を葬ることができないから、残された人間の始末がつかない。誰一人あの場で別れを告げられずに、待っていると残酷な約束を取り付け、それがまるで呪(まじな)いのようで、タタル渓谷に「一人」で現れた彼を見て、その全てを全員が理解した。
世界を救った自分たちは真の意味で誰一人幸せにはなれなかった。
「王妃の伴侶となることは難しい事でしょう。そしてレプリカと違い、記憶や教養は備わっていても、それは別の誰かの記憶だ。しかしそれを使ってあなたは生きていかねばならない」
「……ああ。そうだな」
「ナタリア王妃には、あなたの現状をお伝えするのですか」
「ジェイド。……お前、ナタリアが笑いながら泣くのを見たことがあるか?」
「いいえ」
「見てられない。たぶん気づいてるんだろう。でも俺の中にはアッシュもいて、その感覚が、アッシュである俺の一部が、ナタリアに言うなっていうんだ。俺が言いたくないんだ。……だから言わない」
「そうですか」
ルーク・フォン・ファブレという彼は、随分と複雑な人間になってしまったのだ。
ジェイドの知るレプリカのルークは、比較的単純な考え方をしていた。表情に全てが出ていた。嘘もつけない子どものような彼だった。雪が降るのを見て笑っていた。からかってやればバツが悪そうにしていた。緑色の目が熱を持ってジェイドを見ていた。その目を見るのが好きだった。
彼が愛おしかった。
「ジェイド」
いま目の前の彼が、呼ぶ名が、耳朶を震わせて胸を痛ませる。全て鮮明な記憶の中にしかいない、ジェイドにとっての彼を、ルークを、過去のものにしてしまっている自分にすら嫌気がさしていた。
同じ声だ。同じ顔だ。それでこの身が満足できるなら、良かったのだが。
「伝え忘れていました」
ルークの目をジェイドは見ていた。緑色の双眸が、眼鏡一枚すら通さず、譜眼でなくなったヘーゼルの双眸と見つめ合っていた。
「ご結婚、おめでとうございます。殿下」
他人の幸せを祈ることが、こんなにも悲しいのだと生まれて初めて知ったのだった。