BD910

世界に生まれる

9

結局邸からの緊急連絡は入らず、私は普段よりも少し早めに残業を切り上げ、帰宅の途についた。
ルークは玄関からすぐの応接間で本を読んでおり、私の帰宅を見つけると読書を切り上げこちらへと駆け寄った。まるで小さな犬のようだ。
「おかえり。遅かったな」
「今日は比較的早い方ですよ」
「そうなのか? そういやお前が出た後、薬が効いてだいぶ楽になってさ。ちょっとオービルの手伝いしてたんだよ。暇すぎて」
「それはそれは……随分殊勝な心掛けですね。それで、皿は何枚割ったんですか」
「なんで割った前提なんだよ。それにやったのは花壇の水やりとか庭の手入れの方だからな。何も壊してねぇっつの」
目視ではあるが幾分顔色はいい。尋ねれば、少しずつ食事は摂ったのだという。明日のガルディオス邸訪問は今のところ問題ないだろう。
応接間のローテーブルに乗る本は数冊あって、どれほどここに座っていたのだろうかと思い、考えるのをやめた。
訊ねれば夕食はまだらしい。朝食の時間がずれて昼の時間も遅かったのだと。この時間になっては私ももう食事は摂ることが無い。ルークもそれほど空腹ではないというから、使用人を呼んで簡易なティーセットを用意させた。リビングではなく、そのまま応接室のソファに座る。
「ルーク」
「なんだよ」
「知っているとは思いますが、この並びのソファであれば貴方が座る長椅子の方が上座にあたります」
「知ってるよ」
「そうですか」
ファブレ家ではそういったマナーも教え込んでいたらしい。旅の間ではあまりその知識を使っている様子を見た覚えがない。だが、これから生きていくには必要になるかもしれない。
あ、と間の抜けた声を出してルークが立ち上がる。そして明らかにしまった、という顔で私を見ていた。他意はそれほど無かったのだが、どうやら伝わりはしたらしい。
「どうしましたか」
惚けて訊ねる。
「俺こっちじゃないのか……?」
「さて、どうでしょう。客人といえば客人ですが。私は家人なので必然こちら側に座るというだけです」
座る一人掛けのソファを指差す。ややあってティーカートが運ばれてくる。ルークは、う、と短く唸り、悩んだ末に私の隣の一人掛けへと座り直した。一先ずそのまま長椅子には座れないと思ったのだろう。
正直向かいにいてくれた方が会話はしやすいのだが。
「わざわざ移動せずとも良かったのでは?」
「ホントにそう思ってるならわざわざ言うんじゃねぇよ」
苦々しげにそう言って、ルークが砂糖を一つ入れた紅茶を飲む。昨日のぎこちなさを考えると随分マシに指先が動いていた。
オービルを手伝い庭仕事をしたのだと。体を動かしたことで少しは感覚が掴めるようになったのだろうか。
「明日ガイんとこの馬車が迎えにくるってさ」
「そうですか。オービルに貴方の荷物の手配を頼みますから、きちんと持っていってくださいね」
「なんだそれ、ガキかよ……」
「汚れてもいい服装で行ってください。ただそれだけですよ」
あとのことはガイがどうにでもしてくれるだろう。
昼にサフィールが提案してきた機関の設計図を思い出す。ガイに見せれば大喜びでくまなく目を通すだろう緻密な図面。そう、あの鼻垂れは頭は悪くないのだ。ただ性根が完全に腐っているだけで。
あの機関を各地域に配備できるよう急がせなければならない。同様の機関をキムラスカが考案するには我が国よりも時間がかかるだろうが、どこで話が漏れるか分からない。代替エネルギーはどれほど保てるだろうか。永久に供され続けるエネルギー源など、見つかるのか。安全に使うことはできるのか。排出されることが予想される廃棄物の処理は。この星の寿命は。
お茶と共に供されたビスケットを齧りながら、明日の天気について話すルークの暢気さに僅かであれ救われる。頭を使わなければならないことが多すぎて、それ自体が苦ではなくとも、話の通じない低能な者が多くてうんざりするのだが、ここまで無関係な話はむしろ何も考えずに聞いていることができて肩の力が抜ける。
紅茶を飲む。オービルの手伝いの話をしていた途中であったのに、急にルークが言葉を切った。
あまりに突然だったので私の視線がルークへと向く。ルークはこちらを見ていた。シュウ医師に言われた通り、少し体ごとこちらへと向けて。
「ジェイド、お前目の色違くないか」
まるで大事のように。
言われて思い出す。そういえば彼に話していなかったか。別段話すことでもないと思っていた。ただ私が譜眼を解いて目の色が変わっただけなのだから。それ以上のことが起こっているわけではない。そも今更とも言える。
「あれ? 赤かったよな。譜眼? だっけか」
「ええ。解きました。もう不要になったので」
「え? あれって解けるのか?」
「解けますよ。術を施したのは私自身ですので、解除もできなくては二流でしょう」
「……ネフリーさんとおんなじ色だ」
本当に兄妹だったのか。言外で失礼なことを言われているようだ。
彼がまじまじと見てくるから、何が面白いのだろうと私も彼を見つめていた。何度か目を合わせる機会はあった筈なのに、恐らく子供の精神状態ではそれに気づくどころではなかったのだろう。瞬きが驚いている様を伝えている。
「そんなに見つめられてしまっては、眼鏡越しでも穴が開いてしまいそうですねぇ」
揶揄えばルークはハッとし、慌てて私から視線を逸らした。しかしちらちらとこちらを伺っている。今の目の色自体はそれほど珍しくもないヘーゼルだ。しかし赤色でないことに気づいてしまえば、気になって仕方が無いのだろう。
「この色では物足りませんか」
「いや、その、なんか、……ケテルブルクで会った時から、ちょっと雰囲気変わったなって思ってたんだよ。髪切ったせいか、服が違うからとか、その辺だと思ってたんだけど」
なあ、と、何かを思いついた顔で言葉を漏らす。大体予想はついていた。それでもルークが言い出すに任せる。
「眼鏡取ってみてくれよ」
本当に私の予想からはみ出ない思考をしている。思わず笑い、それが彼を少し不機嫌にさせた。
「なんだよ、勿体ぶるなって」
笑みを深める。そして「構いませんよ」と答え、既にただの硝子レンズとなった眼鏡を外してローテーブルへと置く。そのままルークを見た。すると、ややあって、突然ルークがソファの中で身を引いた。回避の動きだ。何のつもりだろうか。
「どうかしましたか」
「いや、……その、黙ってるジェイドって、ほんとに見た目は良いんだなって改めて思って……」
これは褒められているのだろうか。容姿の差異など有利に働く時にしか興味は無い。だが、そう身を引かれてしまうと何やら面映ゆい愉快さが浮かんで、手をソファへと着き、ぐ、とルークに顔を近づけた。びく、と子供の肩が揺れる。
「なっ、な……なんだよ」
「いえ、少々見えづらくて」
嘘だ。度数など幾らも入っていない。だが子供は少し驚いた表情に代わって、眉尻が僅かに下げられるのを見た。
「目、悪くなったのか」
「……さあ? どうでしょう」
答えると、ルークは何か思い当たったように瞬きをし、唇を噤み、どうやら怒りの表情らしいものを浮かべた。
「それ嘘だろ」
「私は何も言っていませんよ」
「眼鏡取ると見づらいっていったじゃんか」
「常にかけているものを取ったので視界に違和感を感じただけです」
「それも嘘だな」
「おや、信じてもらえないとは。悲しいですねぇ」
むくれたルークが私の肩を押す。まったくもって軽い力だ。意図的ではないだろうその弱々しさに不意に撫でるような虚しさが襲うが、押されたとおりに身を引いてソファへと座り直す。ルークがソファの中で出来る限り私から身を離しているのを眺める。
「赤色が良かったですか」
思い浮かんだ問いを口にした。ルークは私を見て、むくれた表情を無に戻すと、僅かに首を傾げた。
「少し」
正直な子供だと思う。
「でも視力悪くなってないんだろ。じゃあいいや」
おかしなことを言う。口角を上げるだけの笑みを見せれば、また笑いやがって、と悪態をついて紅茶を飲んでいる。そのバツが悪そうな顔を見るのが楽しいと思えた。これはきっと趣味が悪いのだろう。
「明日、ガイの屋敷へ行くついでにお使いをお願いします」
「どっか寄ってくのか?」
「いいえ。ガイの家に届けてほしいものがあるだけです」
なんだ。分かった。隠しもせずにがっかりとしている。外に出たいのだろうか。まあ、大人しく本を読んでいたのは単純に体力が尽きたからなのだろう。本来そうやって大人しく収まっている性分ではない筈だ。
温かなお茶を飲んだせいか、体を動かした疲労からか、ルークが大きく欠伸をした。目を擦っている。
「荷物はオービルに任せておきます。明日も動くのでしょう。もう寝てしまいなさい」
ルークがこちらを見る。緑色の目。もう瞼は重いようだった。
「分かってる」
分かった、と返ってくるのだと思っていた。だが子供はそう呟くと、ぐ、と伸びをして首の辺りをゆっくり解し、ソファから立ち上がった。
「ごっそさん」
「お粗末様です」
一度だけルークは振り返り、何も言わず応接室を出て行く。目が合った気がしたのは、それほど私の瞳の色が気になっているのだろうか。
ドアは途中から、外で待機していたオービルが閉じた。重い木材の音が響く。私はビスケットを食べ、残った紅茶を飲み干し、オービルを呼んでセットを片付けさせた。自室へと向かう。
一人の部屋で眼鏡を外し、目頭をゆっくりと押さえた。譜眼の際には、微弱であっても滞りなく譜力を流し続けていたそこは、もうただの視覚でしかない。あの子供が一つだけ無くして帰ってきたもの。
明日どれほど怪我をしてくるだろうか。ガイに全て任せてしまえ、とやや投げやりにも思うのは簡単だが、どこか己へ言い聞かせるような自嘲を抑えて顔の横に垂れる髪を耳にかけた。シャワーの用意のためオービルへ声をかける。わたしのデスクには使用人に頼んでいた幾つかの薬剤瓶が領収書とともに置かれていた。私はそれを小さな箱に入れ、紙袋で包むと、使用人への指示を終えたオービルを改めて呼びつけその荷物を預けた。