BD910

世界に生まれる

8

翌朝。ルークは起きてこなかった。
部屋を覗けば熱発しており、診たところ疲労によるものだった。当然とも言えるだろう。風邪のような症状はなく、まるで出かけることに浮かれて当日に熱を出す子供のような。そう思いこそすれ口にするのはやめておいた。目蓋を僅かに開く様は気怠げで、体を熱で赤くし横たわるルークを見下ろす。
「解熱剤です。このまま飲んでは誤嚥の危険があるので起こしますよ」
「う……」
背中に腕を差し入れ、殆ど力の入っていないルークをベッドに起こす。枕で支え、水と錠剤を渡した。触れているどこもかしこも熱い。たどたどしく嚥下するのを眺め、口の端から溢れた滴を袖口で拭うのを確認する。コップは空になった。熱さで喉が渇いているのか。
「後でオービルが世話にきます。ですが、熱が引けば問題ないでしょう」
「……悪い。仕事なんだろ」
「まだ間に合いますよ。何かあるかもしれないと様子を見に来ただけです」
ルークが私を見て、息を吐きながらベッドの上で膝を抱えた。全てが緩慢で体温の籠りを感じる。だが、すぐにその肩が悪寒に震えたから、
「寝ていなさい」
再度ベッドへ横たわらせ、汗をかく額にかかる前髪を除けた。緑色の双眸は熱に濡れている。子供は大きく深呼吸をした。
「寝てるから」
「……何ですか?」
「もう、仕事、出て大丈夫だぞ」
まるで物分かりが良い幼子のように。そう告げるから。私は微かに笑ってしまって、けれどそれを見たルークの機嫌は損なわれなかったらしい、早く行けよ、と弱々しい声で追い討ちをかけてくる。
「仰せの通りに」
「……」
これは嫌味と捉えられたらしい。ルークの深呼吸に合わせてシーツが上下する。私は客間を出て、オービルに諸々を頼み、玄関を潜ると馬車に乗った。生憎と常に仕事が積まれていく身なのだ。馬車はいつも通りの道を進み、通常の勤務に合わせた時間には執務室に到着していた。

何かあればすぐに連絡するよう家の者には伝えている。その連絡も入ることなく、気づけば昼になっていた。やはり普段に流れる時間は恐ろしく早い。短い休憩を兼ねた軽食を終え、軍内施設の執務室に戻れば、見たくもない顔が応接用のソファとその横に揃って鎮座している。
「ようやく戻りましたねジェイド!」
「報告書見たらサフィールが大人しくしてくれなくてな」
ソファに身を沈める我が国の王は、果たしてその隣で浮かぶ椅子に座る男が全世界的に於いて犯罪者であるという認識はあるのだろうか。まあ、私が言えたことではないだろうが。それはそれ、こいつは頭だけ残して体の全てを拘束した方が世の中の為になるだろう。
レムの塔で死んだものと思っていたのに、タタル渓谷のあの夜よりも前に生きて堂々とグランコクマに現れた時にはその生命力と胆力に辟易してしまった。
「おやおや、鼻垂れサフィールではありませんか。機関開発部の棟はこちらではありませんよ。ああ……とうとう耄碌が始まりましたか。お可哀想に……」
「何ですって! 言っておきますがこの中では私が最も歳若いのですからね! 己の老いを差し置いてよくもそのような戯言を」
「ああ、そうでしたね。最も年下でした。最も、下。私としたことがうっかりしてしまいました」
「お前らお互いにその感じ全然変わらねぇのな……」
人の執務室に許可なく抜け穴を作っている国王が何事か宣っている。
ため息をつき、折角早めに戻ったところだが、執務を始める前に二人を追い出さねばと仕方無しに向かいのソファへと座る。
途端サフィールは嬉々としてロニール施設の話を始めた。予測値においては己が弾き出していた数値が近かっただの、再考内容の詰めが甘いだの、新たな機関の設計図を取り出して興奮気味に喋るものだから、一先ず全て喋らせてからだと口を挟まず聞いておいた。そしてようやく話が止まりそうな折に、鼻垂れの提案した再考内容ではキムラスカとの条約に抵触する恐れがあること、無駄に相手国に口を挟ませる余地を与える進め方を行うつもりは毛頭無いこと、今出された機関の設計図はほぼ問題ないが、ロニール以外の施設でも扱えるようもう少し量産における材料費やサイズ感を考慮する必要があることを伝えた。サフィールが唸る。そしてすぐに譲歩を含めた第二案を出してきた。それを聞きながら一考し、第二案も即時却下する。それでは今回観測できた実験結果の六割も稼働を期待できない。足を組んだまま鼻垂れがまた唸る。
趣味の悪い服を着た、腐れ縁であるこの幼馴染を眺める。目の前の男は愚かではあるが馬鹿ではない。関わりたくはないが利用価値はある。そして何より忌々しいのは、この男が私の考えている事柄について、追いつけこそしないもののある程度までは理解できる頭を持っていることだった。
「ええい! 腹立たしい! ここに居てはまとまる考えもまとまりません! 私は去りますよ、ジェイド! 我が城、我が部屋へ! 貴方がぐうの音も出ないほど完璧な機関を作り上げ、その暁にはより良き椅子と良き待遇を得させていただきます! よろしいですねピオニー! 言質を取らせなさい! 貴方国王でしょう!」
「いやまあ、そりゃそうだが。お前の扱いはだいぶ難しくなっちまったからな。うん、場合による。まあ頑張ってくれ」
「なんたる扱いの雑さ! この期に及んでまだ私をタダ働き……」
「もういいでしょうサフィール。気が済んだのなら出て行きなさい。私もピオニーに話があります」
「キーッ! ディストと呼びなさい! 薔薇のディストと! それにまたそうやって私を外して親しげに!! 貴方たちのそういうところが昔から」
サフィールの特注椅子を勝手に操り外に追いやった。ドアを閉める。厚い木材の向こうからまだ叫び声が聞こえていたが、そのまま無視してソファへと戻った。ドアを叩く音がする。だがやがてそれも止み、大人しくあの鼻垂れが自室という名の研究用の檻に戻ったのだと知れた。
ピオニーは笑いを隠しもせずその流れをずっと見ていたのだ。この幼馴染もなかなかに悪趣味だろう。
「貴方は何の御用ですか」
「心当たりないのか?」
「内密書の内容以外であれば、ありませんね」
「あるじゃねぇか。ったく、代筆ではなく俺が書く。それでいいな?」
「お手数をおかけしますが、その方がよろしいでしょう。同位の者でなければ失礼にあたります。礼を欠けばどこかで悪用される糸口になり得る」
肘掛に頬杖をついてピオニーが笑う。嫌な笑い方だった。まるで悪戯を仕掛ける子供のような。
「お前は人を信じないな、ジェイド」
あたかも今日は天気がいいなと呟くように。さして悪意も他意もない口振りで幼馴染は、我が王は、ピオニーは言う。私はにっこりと笑って見せた。彼がこの表情を嫌うのを知っていて笑った。幼馴染が肩を竦めたから、ようやく僅かであれ溜飲を下げることができる。
「だがお前のその性格を利用している俺も俺か。……正直なところ、ルークが戻って、少しは変わるかと思ったんだが。まあまだ幾らも日が経ってないからな、これからに期待するか」
「恐れながら、我が王よ、貴方を信じていなければ今のような馬車馬の如き働きはないかと存じますが」
「よく言う。お前が信じるのは自分のためだ。利用したり上手く扱うために、相手を信頼させる目的で頼るだけだ」
「皆そうでしょう」
「そうか? 俺はそうだが、お前、旅をしてる間、その後の四年の間、ずっとそう思いながら生きてきたのか? あいつらにもか。もしそれが本心だってんなら、ジェイド、お前は俺を騙せる程の詐欺師だよ」
ソファに深く座り直しながら幼馴染は言う。その表情は薄らと穏やかで、口にする言葉が王としてなのか、友人としてなのか、図りかねて私は眼鏡を押し上げる。
「それで。何が仰りたいのですか」
「上手くやれ、ってことさ。ルークがマルクト預かりのレプリカ……昨今の言葉で言えばノヴァか、そうなれるよう」
「そこまで貴方があの子供にご執心とは。ご配慮が足りず不手際に謝罪致しますよ」
「それはお前だよ、ジェイド」
ピオニーが私を見る。私もピオニーを見た。我らが国が戴く王。彼は伴侶を得ていない。探していないとも言える。私は、ここ数年の間に推し進めている新規法案のことを思い出していた。直系でなくとも王家の血筋を引く者を、現国王が認めれば後継者として据えることができるようにするという法。この男は己の行く末をもう決めている。私は、どうだろうか。決めていた筈なのだが。予定はつい先日から、全て狂い始めている。
「俺はお前にとって良い方向に進めばいいと思ってる」
「……真意を図りかねますが」
「俺みたいなのは俺一人でいいってことさ」
立ち上がり、幼馴染は私を見下ろした。やはりずっと穏やかな笑みだった。この男は諦めでもって生きている。あらゆる物に抗いながら、己の根底にある信念を揺らめかせながら、血で血を洗うような王族についてまわる狡猾な立ち回りをこなしながら、それであって多くのものを諦めてきた。ケテルブルクの妹の顔が浮かぶ。彼女も、この幼馴染と同じく、多くを諦めてきたのだろうか。結婚について。私について。
「内密書はこちらで送る。安心しろ、お前が言っていた範囲の人間にだけ伝わるよう手回しする」
「それについてなのですが、より厳重に事を成したいので人選をお聞かせ頂けませんか」
「一人しかいないだろう。ガイラルディアだよ」
「やはりそうなりますか。……ですが、ガルディオス伯は明日ルークと会う約束が出来ました。私は本日中にはマルクトから密書を送り出したいと考えています。ファブレ公爵夫人は非常に繊細な方です。恐らく少なく見積もって二日は寝込まれるでしょう」
「そんなにか」
「ええ。現在のルーク伯爵が帰還された折も寝込まれていました。元よりそういったショックに弱いのでしょう。朗報悲報どちらであろうと」
「じゃあどうする。今回は並大抵の人間には任せられないぞ」
私は幼馴染に座るよう促した。ピオニーは一瞬躊躇し、やれやれとでもいった風にソファに座り直した。それに代わって私が立ち上がる。
「昨日のうちに、適任と思われる方を呼んでおきました。つつがなく辿り着けば本日の夕方にはこちらへ到着するでしょう。彼女であればマルクトへの渡航もキムラスカへの渡航も怪しまれることはありません。その方にお任せしたいので、ピオニー、今ここで内密書を書いていただけませんか。必要な道具は揃っていますから」
「はあ?」
呆れによるため息で私を罵倒した国王は、目の前のローテーブルに置かれた書面作成の道具諸々を見、私を見て、この野郎、という心の声を反映したような表情を浮かべる。
「昨日連絡したって? いつだよ」
「ノヴァ施設です。あそこならば同様の世界中にある伝達機材に繋がっていますから、手続きを終えて発つ際にお借りしました。彼女は旧知の方なので私が通常の機器を使って連絡をとっても問題はありませんし、以前もその方経由で引き取っていただきたいノヴァの手続きについて連絡したことがありましたので、恐らくそう怪しまれてはいないかと」
「ガイラルディアがルークの相手で手が塞がるって分かってたのか」
「それについては予想していましたが確信はありませんでした。念のための第二案ですよ。もっとも、彼女にもルークについて話す必要性がありました。立場もあるため我々とキムラスカへ同行することは難しいですが、その後、日を改めて伺う予定です」
「……まったく」
幼馴染が頭を抱える。やがてローテーブルでは書きにくいから私の執務机を貸せと言った。それについては想定範囲内だったので、仕方無しにといったていで椅子を明け渡す。
「で? 誰を呼んだんだ」
草案はもう練り直され、この男の頭の中に出来上がっていたのだろう。淀みなく動くペンを眺めながら、私は両手を後ろで組み、書き綴る王の傍へと立つ。
「かつて我々と旅を共にした可憐な淑女ですよ」

内密書は、私が呼んでいた彼女に託され、その日グランコクマ発の最終便で出国していった。慌ただしく経緯を説明すれば彼女も過多な情報に倒れそうだと言い、しかし預けたものは責任をもって渡すと勇ましく去って行った。いずれ彼女にもルークと会わせなければならない。それが彼女たっての希望でもある。