世界に生まれる
7
私の屋敷はカーティス家とは別に設けられている。養父たちと同じ屋根の下で暮らしていたのはほんの数年で、成人するよりも早く別邸を譲り受けた。かつて閉じこもり内密な研究に明け暮れるのには絶好の場所だったその邸は、今や無駄に広く、主が時折寝に帰るだけの存在となっている。
首都と、マルクトにおけるレプリカ保護施設間の往復という長距離の移動だったため、ルークは目に見えて疲弊していた。夕飯も食べられそうにないと言うから、一先ずシャワーを浴びるよう伝える。
オービルは既にルークのサイズの服を幾らか用意しており、客間も整えられていて、我が執事ながらその手腕に良い男を雇ったものだと実感する。
「遅くにガルディオス伯がいらっしゃるかもしれません」
「晩餐は如何なさいますか」
「用意は不要です。恐らくその時間には間に合わないでしょう。私の分の軽食と、チキンスープを一つお願いします」
「畏まりました」
「それから、あのノヴァは我が国の形式上ではありますがリュカという名をつけられました。以後、屋敷の外ではそう呼ぶように」
「仰せの通りに」
ルークがバスルームから出てくる。相変わらず髪は生乾きだった。旅の頃からこういったところはずぼらさが抜けないでいる。
「二階の客室を使ってください。オービルが案内します」
「ルーク様。こちらへ」
「お、……うん」
子どもには新たな名をつけられることは馬車の中で伝えていた。事務的な手続きとはこういうことだ。だから、屋敷の中とは言え既知の者以外から名を呼ばれて驚いたのだろう。
個体名が無いと困る事と、被験者と同じ名を持ってしまっては不便があるからだと教えている。「聖なる焔の光」という古代語では大仰すぎると、汎用的につけられる「光」を意味する名をつけたのは私だ。
ただの提案のつもりだった。彼自身が考えることもできた。だが、子供は大人しくそれを受け入れて、その事実は私を僅かばかり驚かせた。
使用人がバスルームを整えたと報告に来たので私もシャワーを浴びる。鏡に映る自分の様子は見慣れた顔で、ケテルブルクでルークが髪が短くなっていると指摘してきたのが、昨日のことなのかと思えば、ここ数年の中で最も長く感じられる一日だったと突如として疲労感に襲われる。年齢を重ねるにつれ、気づけば日が矢のように過ぎていくようになるのは当然だと享受していた。予想できることばかりが起こり、真新しいことなど何も見当たらなかったのだから。
今は次の瞬間何が起こるか分からない状況に陥っている。
バスルームから出て一階の自室に向かう。ああは言っていたが、恐らくガイは僅かでも顔を見せに来るだろう。普段着に着替え、廊下に出ると丁度ルークが階段を降りてきたところだった。
「ジェイド」
「何ですか」
「部屋が広すぎんだけど」
顔をしかめて子供が言う。私は、公爵家の者が何を言うかと思ったのだが、旅の間は野宿や旅人も使う宿屋で寝泊まりしていたのだし、船の個室、先ほど訪問したレプリカ施設では狭苦しい居住区を見た後なのだから、国内の軍事に関する有力者の所有する屋敷であれば、元別邸の客間であっても広すぎると感じたのだろう。
「ご心配いただかなくとも私の自室の方が広いですよ。今まで使われることも無かった部屋です。お好きに使えばよろしいのでは」
「だって俺、今、何も持ってないのに」
「そんな貴方に私が提供できる部屋はその客間しかないのですが。いやはや、苦言を呈されては困ってしまいますね」
「ちげーって! それに服! ぴったりなのが用意されててビビるっつーの」
「客人ひとり招けないようではカーティス家の名に泥を塗ります。それに公的レプリカとして認められた貴方の被験者は、一国の主の伴侶となる方です。むしろ王宮に部屋を設えてもらっても構わないほどだと思いますが」
「それは嫌だ」
「即答するのであればあの部屋で我慢してください」
「我慢っていうか、だからそうじゃなくて……」
話しながらダイニングへと向かう。思わずといった様子でルークがそれに続いた。見れば髪は乾いたようで、旅をしていた時分の宿屋備え付けの洗髪剤ではない、我が家の備品を使った後では自然乾燥でも子どもの髪をまともな質まで戻していた。一度だけ見た子爵の衣装を着た折の姿を思い出す。被験者や公爵夫妻の血筋を見るに、やはり素体として悪くは無いのだろう。
ダイニングテーブルには私の食事と一人分のスープが用意されていた。ルークがそれを見て、視線を一度私に戻す。
「……腹、あんま減ってない」
「体力を戻したいのであれば少量でも食べてください。消化器官が弱まると回復が遅くなります」
私がテーブルに着くと、渋々といった様子でルークもそれに続いた。普段私も夜はそれほど食べはしない。クリームスープにされたことで嚥下しやすくなったのか、何かと言っていたルークも一皿分は完飲した。
食べ終えた丁度その頃、使用人がガイの訪問を告げる。ルークが立ち上がりそうになり、私を見た。何故伺うのだろうか。行けば良いだろうに。
「応接室へお連れしてください。それから四人分のティーセットを。ペール殿もご一緒でしょう」
ガイの訪問は何よりルークを喜ばせた。やはりペール殿は同伴しており、今は我が家の使用人がいるのだから、甘んじてガルディオス伯の従者として静かにソファの後ろに立っている。座るよう勧めたのだが断られた。マナーを知る紳士である。
「やっぱり遅い時間になっちまったな。旦那のとこの使用人には悪い事をした」
「構いませんよ。偶には普段と違う状況が起きることで臨機応変な対応を行う訓練にもなりますから」
「……旦那に雇われる使用人は大変そうだ」
「僭越ながら、同様の身なれば主への訪問者は、特にご友人でしたらいつであれ喜ばしいものですよ」
いつであれこの老人のフォローは柔らかい。
早速ルークはガイとの稽古の日取りを決めていた。体調の回復を考慮して明後日の午前に落ち着いたらしい。ならばその翌日にキムラスカへ渡航できるよう手配しておこう。幼馴染に伝えた通り、事前にあちらへの内密な文書も作成しておかなければならない。その手筈が整うのと、ルークの具合を考慮すれば今から五日ほど間をおいて謁見するのが現実的な最短期間だろう。
「まぁ稽古つってもお前の体力が戻ってないから、軽く打ち合うくらいになるだろうけど」
「やっぱそうかな」
「自分が一番実感してるんじゃないか? だけど気にするなよ、ゆっくり療養すればいいさ」
「うーん、まあ、分かった」
素直に聞き入れている。私は、紅茶に砂糖を入れる際にルークがじっとシュガーポットを見て、殊更ゆっくりと触れるのを眺めた。
「明日は何かすること、あるのか」
スプーンを置くルークにガイが尋ねる。恐らくこの問いは私にも向けられている。案の定、ルークは私を見て、私はカップをソーサーに戻してローテーブルへと置いた。
「私は通常の仕事があります。ロニールの施設についてまとめなければなりませんし、国王への相談事もありますので」
「俺は?」
「貴方はご自由にしていただいて結構ですよ」
「へ?」
「街に出るでも、部屋に引きこもるでも。ああ、ただ、ガイとの稽古をまともに行いたいのなら、明日は三食何でもいいので口にしてください」
「何しててもいいのか」
「ご随意に」
そう答えると、途端にルークは口を噤んだ。何かを考えているようで、何も思いつかないような困惑が見て取れる。えっと、と溢す声は小さい。緑の目がカップを見つめる。
ガイが、やれやれ、と呟きながら頭を振った。
「休めよ、ルーク。昨日からずっと大変だっただろ」
「……大変っつーか、なんか、色んなことが起こってて、ちょっと考えがまとまらないっつーか……」
「だからだよ。四年も音素になっちまって、元の姿に戻りましたって言われて、そりゃ俺たちも戸惑ってるが一番はお前だろう。体調もまだ良くはないんだ。……ずっと旅もしてたしな。この際ゆっくり寝て、飯食って、明日は久々の休みを楽しめよ」
四年も、という時間感覚を、同じようにルークが体感していたか。ガイにはまだ伝えていなかった。見れば、ルークが曖昧な笑みを浮かべているから、私はそれを話すのをやめた。
結論として明日のルークは丸一日療養にあてることになった。私がほぼ不在になることに気づいた子供は、私が読み取れない複雑な表情をしていた。これは喜んでいるのか。不安がっているのか。時折彼は私が分からない思考を持つ。
「何かあればオービルに相談してください」
という言葉も、どうやら彼が望んだ返しではなかったようだが、判然としないことに気を揉んだところで仕方がない。
ガイとペールが帰るのを見送ったルークは、早速オービルへと向かっていった。オービルは執事の仕事の手を止めルークに向き直る。明日一日中邸に居る、何かあったらよろしく頼む、と、何があるでもないだろうにしどろもどろに話す子どもに、承知致しました、何用でもお申し付け下さい、と頭を下げ、静かに仕事へと戻ってゆく執事を眺める。その背中を見送るルークはどこか侘しげで、全快していない体躯の様子も相まって、酷く頼りなげに廊下へと立っていた。
自室でロニールの施設に関する資料をまとめる。本来なら旧ピオニー邸で終えていた筈の作業だが、ルークへの対応が差し込まれたお陰で優先度を下げていたのだ。ピオニーへと上げた報告書は基本的な内容のみで、後日この詳細報告を改めて提出する手筈になっている。
ケテルブルクからグランコクマへの渡航の間、船上の個室で、ルークから特段新しい情報を聞き出すことは出来なかった。かつて光の柱が現れたあの日から、音素のように揺蕩い、残った意識の中であっても自我を晒して「帰りたい」と願った彼が、果たして今、この四年後の世界において彼自身が望むように命を生きることができるだろうか。
ロニールにおける計測器の結果と予測値の大幅なずれの原因と、該当箇所の再考内容、その根拠を記しながら、キムラスカ王国へ送る内密書の草案を考える。伝え方はごまんとある。どう受け取るかも様々だろう。
私は私の欲深さを感じながら、書き終えた報告書を傍へ整えると、ペンにインクを含ませ、草案の書き出しを紙面へと走らせた。