世界に生まれる
6
「どういうことだ」
人払いをした控室に戻るなりガイが私を問い質した。その様子は不安と苛立ちを隠そうとしていない。
「ローレライが復活させたんだろう。他にもどこか、具合が悪いとこがあるんじゃないか?」
「その心配はありませんよ」
既に昼は過ぎていて、テーブルには軽食が用意されている。相変わらず手回しがいい幼馴染だ。ただ、誰も席につこうとはしない。
ルークはガイの隣で彼を不安げに見ている。ガイが怒る様は初見ではないが、確かに珍しいことではあった。そしていつであれこの男はレプリカであるルークに関して感情を乱す。
「ケテルブルクでの検査では右目以外に機能が損なわれている様子はなく、記憶の欠如や混濁といった精神面への影響も現状伺えません」
「……本当か、ルーク」
「うん。まだちょっとダルいのはあんだけど、飯食ったら治るって」
随分ざっくりとした受け取られ方をしているが、この子どもにとってはそれで十分だろう。
ガイがルークの言葉を聞き、ようやく気付いたように席へ座るよう促す。人払いをしたために私たち以外は誰もいなくなっているが、従者として控室に残っていたペールが給仕をかって出た。ありがたいことだった。
「それに復活という表現では少々意味が異なります。先ほどもお話しましたが、ローレライは再構築時に何かしらの要素が不足していたと伝えています。そうでしたね、ルーク」
「あ、ああ」
「エルドラント以降、全世界的な音素量を見ても第七音素の減少率が最も大きい。 推論ですが、ローレライであってもレプリカという存在を完全に再構築する事自体が不可能だったのでしょう」
音素の意識集合体などというおとぎ話めいた彼らにレプリカはどう映ったのだろうか。第二の被験者ともなれない、預言にも紡がれない歪な存在。
そもそもローレライ自身が万能であるという見方が危ういのかもしれない。地殻に閉じ込められていた折は同調する振動数を持つ者に呼びかける事しかできなかったのだ。
せめてもの救いとして生きて帰ってきたのだから、という慰めは不要だろう。全て分かっているはずだ。分かっていて、僅かな可能性があるのならばとそれに縋ってしまうのを誰も責めることなどできはしない。
「あまり楽観視するのはお勧めしませんが、そう深刻な状態でもありません。一先ず体調を戻すことと、今の視界に慣れるまでは人混みと足元に十分気をつけてください。常にガイがフォローできるわけでもありませんから」
「分かってるよ」
ルークはスプーンを手に取り、皿を見て、スープに口をつけた。あまり固形物に食欲が湧かないのかもしれない。その様子を見てガイが大きく息をついたのが分かった。しかしその表情は悲観的なものではない。
「悪い。一番不安なのはお前だって分かってるつもりなんだがな、けど俺らも心配なんだ」
「子供扱いすんなよな」
「心配することが子供扱いってわけじゃないさ。そうだ、体調が戻ったらまた剣の稽古でもするか。距離感を掴むための訓練にもなるだろうし」
「いいのか! あ、……でも、ガイ忙しいだろ」
「旦那ほどじゃないさ」
それからまた歓談が始まる。直近のガイの仕事、新しい邸のこと、ペールが世話をしている花壇と花の事。ガイが旅の仲間の話を避けているのだと私には分かっていた。ルークは、もしかすると気付いているかもしれないが、彼も旅の中で幾ばくか成長したということなのだろう。
フルコースを出されたわけではない。しかし、もうルークの手は動いていない。旅をしていた時分では適量だっただろう皿の半分ほども進んでいないと知るが、食欲があるだけ良かったと思うべきなのか。
「この後はそのままレプリカ保護施設に行くのか?」
食後の紅茶を飲みながらガイが訊ねてくる。控室に戻った直後に比べれば普段通りに落ち着いた声音だった。
「その予定です。居住区とは真反対になりますが、あなた方はどうしますか」
ルークが私を見る。そして視線をガイへと移した。私が口にしたあなた方が誰を指すのか理解したのだろう。ガイが困ったように後ろ頭をかいている。
「さて……」
「ガイ、仕事か?」
「うん? まぁな。午後からは予定が入っちまってるんだ」
「そっか」
子供の感情は手に取るようにわかった。見ている内にも頭が僅かに俯いていく。信頼の置ける人間が居なくなることは不安を掻き立てるのだろう。ガイがルークの肩に手を置く。
「おいおい、大丈夫か? んなしょげなくったって旦那が上手いことしてくれるって」
なあ、と同意を求められたところで、果たして本当に私にそれを望んでいるのだろうかと疑問が残る。
「おや、随分信頼をいただけているのですね。ありがたいことです」
「それに夜には終わるはずだ。そっちがよければまた顔を出したいんだが」
「あまり来客の多い邸ではありませんので、使用人が怯えるかもしれませんが、まあいいでしょう」
冗談めかして言えばガイが困ったように笑った。
城のホールで二人と別れる。ペールを連れたままのところを見るといつもの雑用というわけでもないらしい。
「気をつけて行けよ、ルーク」
「分かった。そっちもな」
去り際の言葉もごく自然に終え、城の奥へと向かう二人を見送る。やがてルークが私に振り返った。そして伺うように小首を傾げる。
「あのさ」
「なんですか」
「今日俺ってジェイドん家泊まるのか?」
一息。間を置いた。そして両手を後ろに回して立つ。
「ええ。その予定ですが」
「そっか」
「お嫌ですか」
「えっ」
「いやはや、嫌われてしまいましたね」
「なっ、違ぇって! ただその、さっきなんとなく聞き流しちまったけど、よく考えたら俺これからどうすんだろうって、思って」
言葉が尻すぼみになる。不安を隠しもしない彼の、赤い髪の束が風に揺らされるのを見る。
「どうすることもできますよ」
「……」
「如何様にも。ですが、選択肢が無限に並べられた中に置かれてしまってはかえって息苦しさもあるでしょう。まずは我が国の慣用に則っていただきます。といっても新設のものですが」
肩をすくめてみせる。明から様なふざけだった。ルークの目が一度、ガイが去った方を見たのが酷く不快で、そう感じながらも、彼が縋る先は私の想定を逸脱することなく親友のあの男であり、幸いなるかな、これが彼なのだと妙な充足感を得てしまうのだからどうしようもない。
「わかった。行こう」
ケテルブルクを出るときと同じ表情だった。意を決し、私の方へいくらか歩み寄る。意を決したところでルークは単身レプリカの施設へ行けるわけではない。私に案内を求めるその様が、また私の内腑に不毛な心地よさを与えるのだ。
マルクトが抱えるレプリカ保護施設は首都外れの海沿いに聳え立っている。いくつかの棟の奥、高い塔を有する様はさながらレムを彷彿とさせるので私は勝手なことだが好んではいない。
はあ、と息をついてそれを見上げるルークの横顔を眺めた。馬車の中では大人しく窓の外に目をやったり、水を口にしていたが、疲労の色は濃くなる一方らしい。それでも海を背に建つ壮観な景色は一時であっても気分の悪さを払拭したようだった。
「でっかいな」
「一部の利用者はここを拠点としていますから。この建物も概ね居住区です」
促し、裏口へと回る。視界の端、正面玄関の階段にはぼうっと虚空を見上げる何者かのレプリカが座り込んでいた。中へ入ると、借り物めいたよそよそしい匂いに包まれる。消毒液に似ているそれは清潔感を纏って篭る空気だった。
廊下向こうの正面ロビーには、まるで病院での待合室のように、既製裁縫の簡素な服を着たレプリカたちが本を読んだりおもむろに歩いている。
「お久しぶりです、中将」
医務室から現れた医療助手の女性に握手を求められ、それに軽く応じながら、
「こちらへ」
ルークを隣へと呼ぶ。緊張を帯びて体を強張らせながら子供は私の呼びかけに従った。
「彼が今回のノヴァです」
そう告げた私をルークが見上げるのを感じた。女性スタッフは何も言わずとも頷き、私たちを奥へと通した。今回特殊な事情を抱えていることは既に伝達済みだ。
「……ノヴァ?」
ひそめた声で問われる。このことについてはまだ彼に話していない。
「何かにつけ差別を嫌がる人間は幾らもいるのですよ」
それだけを言って、女性スタッフが開いた診察室のドアをくぐる。ルークは私に続いて入り、中に座る医者を見て、あ、と声をあげた。
「……っ」
思わずといったように手で口を覆う。それすら怪しまれる一因になることは自覚があるだろうが、反射で出るのなら避けようもない。
どこにでもあるような診察室だ。そしてそこに座るのは中年の極々普通の医者だった。彼は真面目で凡庸で、よもや四年前にレムの塔から帰ったルークレプリカを診察した経験があるなどと果たして誰が知り得るだろうか。
「こんにちは」
至極優しげに、穏やかに、ルークの挙動をものともせず、シュウという名の医者はそう声をかける。ぎくしゃくとお辞儀をしたルークの後ろでドアが閉まった。女性スタッフは出てゆき、彼女の職務へ戻っていった。
「……お久しぶりです。まさかまたお会いできるとは思ってもみませんでした」
「あの、あの時の」
「彼にはこの施設で医師長を務めていただいています」
「そうなのか」
「どうぞ、お座りください。ロニール雪山からここまで来るのには大変な距離だったでしょう」
促され、ルークが医者の前に据えられた患者用の椅子に座る。被っていたマントのフードを取る。医者は少し顔を傾け、ルークの視察を始めたようだった。私はそれをルークの後ろから眺めている。
瞼の裏を見、喉、肺の音、脈、音素の様子を測られている。通常であればレプリカとの意思疎通がどの程度できるかの問診から行う手筈だが、彼には私からの報告書を既に渡している。概ね診察が終わった。結果は旧ピオニー邸で私が出した結論とほぼ同様だった。
「確かに、右目が見えていないようですね。視野が狭くなり、立体視も難しい。こういった場合は、四肢や左右にある臓器でも同じことが言えますが、残された方が足りない分を補おうと負荷がかかることがあります。どうか無理はせず、例えば右側を見る場合は体ごと動かすようにするなど、眼球の動きだけで賄わないように気をつけてください。目の疲労は頭痛なども起きやすくなりますから」
「……はい」
「念のため鎮痛剤を出しておきましょうか」
「お願いします。酔い止めも頼めますか」
尋ねる。私では診察はできたとしても処方箋を出すことはできない。
「畏まりました。何かアレルギーなどはありますか」
「え? ……さあ、どうだろ」
「旅をしていた時分では特に見受けられませんでした」
「では、以前お会いした時の調剤を元にご用意いたします。待合室で少々お待ちください」
ルークが立ち上がる。私は動かなかった。
「ルーク。シュウ医師とお話しすることがありますので、先に出ていて下さい」
「……分かった」
「あまり遠くに行かないように」
「子供扱いすんな」
不満げに出て行ったルークを見送り、ドアが閉まり、私はそこでようやく医者へと振り返った。
シュウは、額に手を当て、大きく深呼吸をしていた。緊張したのだろう。そして私を見上げて穏やかに微笑んでみせる。
「不思議な心地です。あの時の御縁が、今の私の職を決め、こうして奇跡を目の当たりにさせているとは」
「医者が奇跡とは。神頼みも甚だしいですね」
「医者も姿なき者に縋ります。我々人間が出来ることは限られていますから」
椅子を勧められたが座る気分ではなかったので辞退した。医者は手元の診断書に幾らか書き込み、もう一度大きく息を吐く。
「不思議な方だ。私の理解の範疇を既に超えていたのに、こうしてまた存在されている」
「私の理論も覆されました。何をしでかすか分からない子供ですよ」
「……中将は、問題ありませんか」
医者に尋ねられる。私は瞬きをした。そしてにっこりと微笑んでみせる。彼は賢いのでこれで伝わるだろう。
「ご配慮に感謝いたします。何かあればその時は貴方にご相談致しますよ」
「……微力ではありますが、尽力させていただきます」
弱々し気な笑みだった。彼も四年の歳を経ている。その間にどれほどのレプリカを診たのだろうか。その度に、もしかするとルークの事も思い出していたのかもしれない。
「カーティス中将。ご心労もあるかと思います。どうかご無理はなさらず。……あの方がこれからどうなることか、僭越ながら私も心を砕いてしまいます。情が湧いてはいけないのですが、やはり、医者は程よく他人が良いのでしょうね」
彼は私の知識の幅をある程度把握しているのだろう。彼と同じものが私にも見えているのだと分かっていての言葉だろう。
私はもう一度微笑んだ。
「診断書には彼の記憶が無いとの記述をお願いします」
「勿論です」
「それから、全てのことは内密に。ご理解いただけていることは存じていますが」
「ええ」
「それでは」
念を押して診察室を出る。ルークはすぐ近くのソファに腰かけていた。何者かのレプリカらしい子どもが、少し離れた場所に座り、おおよそその年齢には幼いだろう絵本を開いてじっと眺めている。読めてはいないのだろう。絵を見ているのだ。その様子を、ルークが無言で見つめていた。
「ルーク」
「……話、終わったのか」
「ええ。先日貴方に書かせた書類と、この施設での診察記録で手続きの初歩的な事務処理は完了します。他にも必要な手続きはありますが、まあ、急ぐものでもないので追々手配しましょう」
「分かった。……もうここ、出るのか?」
「いいえ、ライセンスの発行があるので暫く待機です。外に出たいですか?」
尋ねる。ルークはもう一度子供を見て、私へと視線を戻す。
「……どうだろう。分かんねぇ」
周囲には数人のレプリカが居た。ぼうっとソファに腰掛けたり、窓の外を眺め続けたり、穏やかではあるが不穏な心地がぬぐえない場所ではある。
私はルークをその場で待たせ、受付の女性に取り計らいを頼み、施設にある伝達機材の使用と、個室として空いている居住区の部屋を一室、仮の待機場所として押さえることにした。彼女は何も問わず了承し、ライセンスの発行が終わるまで白く簡素な個室に私とルークは二人で座る。狭い部屋だった。相部屋ではないのだから仕方がないのだろうが、ベッドと、かろうじて椅子が二脚、小さなテーブルだけで家具は全てだった。
「ここに住んでるやつもいるんだよな」
零れるように会話を始める。私はルークを見て、ルークが私を見たから、ええ、と短く頷く。
「狭いな。なんか、自分ちの部屋思い出す」
「貴方の部屋は、本などの娯楽はあったでしょう」
「うん。稽古もしてもらえた。ガイも遊びに来てくれた。それでも暇でしょうがなかった。ここにいる奴らは、毎日、何してるんだろう」
絵本を眺めていた子供のレプリカでも思い出しているんだろうか。ルークの視線が遠い。うち片方は見えていないのだから、私に彼が何を見ているかは到底予想できるものではなかった。
暫く経ってライセンスが発行され、依頼していた薬を携え受付の女性がドアをノックするまで、私とルークは取り留めのない会話をしていた。それは旅の序盤では見られなかったことで、旅の終盤では怯える子どもを宥めるだけの行為だったから、まるでそれ以外の会話をしているこの状況は私にとって酷く新鮮に感じられていた。
幾人かのレプリカたちとすれ違いながら施設を出て、私たちを待ち続けていた馬車に再度乗り込む。私が酔い止めを渡すと、ルークは大人しくそれを飲んだ。やはり船程度ではないにしろ具合が悪かったのだろう。首都に向かって馬が走り出す。ルークは、揺れに促されたのか、気づけば隣で静かに眠っていた。