BD910

世界に生まれる

4

ルークを寝室に寝かしつけてから私はオービルを呼んだ。
必要な手続きと書類、あらゆる準備を言いつけ、彼が邸を出てから私も支度を始める。出発までに済ませるつもりだった書類の中で優先度の低いものをまとめ、最重要なものをこなしている間にオービルが先に戻った。作業を切り上げ、彼が持ち帰った道具を手にルークの眠る寝室へと向かう。幸いなことに寝息は穏やかだった。
彼が眠っている間に可能な限りの検査を行った。オービルにケテルブルクのメインホテルへ取りに行かせたものは、興行施設に規定として設備されている簡易の医療用具だ。音素計を見るに、やはり第七音素のみで生成されているらしい彼の体は、それであって異常なほどに落ち着いていた。鮮明なままの記憶の中で、怯える彼の指先が透き通った瞬間の事を思い出す。血液を見て、脈を測り、貧血気味で栄養失調だが目立った問題はないと判断する。ローレライの言う「足りない」とはこういった箇所にも及んでいるのだろう。しばらくは摂取させるものも考える必要がある。
検査機材とともに用意していた点滴を設置する頃には、荷物の大半はオービルによってまとめられていた。私はオービルに取りに行かせた書類を書き終え、彼へと渡した。再度使用人として裏口から出て行く音を聞く。私は中断していた軍書類の整理を再開し、予定していた時間までには何もかもの用意を整え終えていた。
「起きなさい。ルーク」
揺り動かし、緩慢に覚醒していくルークを見下ろす。目を擦り、眉間にしわを寄せ、ベッドの中で伸びをした彼は、まだ自分の状況を思い出せていないのかもしれなかった。そしてまもなく自身の腕に残るガーゼと、ベッド傍に置かれた点滴を見て驚いた。
「うわっ、なんだよこれ」
「点滴を行いました。今のあなたは胃も体も空で応急処置が必要でしたから」
しげしげとガーゼを見たルークは、促すような私の視線を感じ取れたらしくベッドから起き上がった。そしてベッドメーキングを施す。寝癖で後ろ襟がはねていることは伝えたほうがいいのだろうか。分からず、「顔を洗ってきなさい」と言えば子供は大人しく従った。応接間に戻った時には寝癖はなんとか撫でつけられていたのだから、その程度は分かるのかと、口にすれば怒りだしそうなことを考える。
「ジェイド、軍服変わったんだな」
私の頭からつま先までを見てぽつりと零す。今着用しているのは将官の軍服だった。彼が見ていた佐官のものとはデザインが異なっている。
「ええ。公的な資金を使用した移動なので軍服の着用が義務づけられています」
「へえ。アスランが着てたのに似てるな」
そう言って、自ら記憶を掘り返しては一瞬目を遠くへとやる。まだ生きるのが下手らしい。
懐中時計が昼過ぎを指した。
「これからマルクト行きの定期便へ乗船するため港へ向かいます」
「分かった」
「港までは軍の手配した馬車が用意されています。オービルは私の使用人として馬車と定期便どちらのチケットも持っていますが、貴方は完全にイレギュラーです」
「チケット」
「ええ、ですがあなたもお金なんて持っていないでしょう」
ルークの顔がざっと青ざめる。その通りなのだろう。私は眼鏡を押し上げ、両手を背面で組む。
「……持ってねぇ」
「想定どおりですよ。しかし手が無いわけではありません」
ローテーブルに一枚の書類を差し出す。紙面にはマルクトの国章と、印刷された各国の担当代議人名がある。
彼がそれを手にし、記された内容を読むよりも先に、私が口を開く。
「ルーク。これからあなたを公的にルーク・フォン・ファブレ伯爵のレプリカとします」
緑色の双眸が私を見つめる。これも彼には負荷となるだろうか。そう思いながら続ける。
「いまや全世界的にレプリカの扱いについて措置が求められています。現段階においては、レプリカへの権利付与やその範囲、保障、現存する人数とその頒布把握が各国平等に課せられた義務です。
その書類は新たなレプリカを発見した際に発行される一時的な権利証です。マルクトでは国内で発見されたレプリカは一度王都にある施設へ移送されることになっています。そのため、その権利証を提示すれば王都までの費用などは国から保障されます。そして施設で検査を受け、必要であれば適切な処置と、レプリカという身分をもって社会へ出るための対応が行われます」
言葉を切ると、ルークの目が再度紙面へと戻った。左から右へ、上から下へと辿り、一番下に記された今回の報告者である私のサインを見ている。
ローテーブルへと戻された書類の、各国担当代議人名をルークが撫でた。そこにも私の名が記されている。マルクトにおけるレプリカ対策の最重要担当者は私なのだ。
「この権利証発行時には、対象が誰のレプリカであるかは報告義務がありません。今回もロニール雪山内で発見した一レプリカという扱いになっています」
「……うん」
「これからあなたをグランコクマへと連れていきます。あなたは四年前、世界を混乱たらしめたヴァン・グランツ謡将がロニール雪山の研究施設内で生成したものの、放棄されていたレプリカという扱いになります。あなたの姿が現在のルーク伯爵よりも若いのは……レプリカ生成時の劣化を補うため行われた結合音素置換実験において第二、三、四音素の処置が失敗し全身を凍結させられていたことにでもしておきましょう」
「え、なんて?」
「二割ほど真実が混ざれば嘘も事実に聞こえます。逆にそれ以上含ませてしまうと実際の事実との齟齬が大きくなり面倒です。また、何を問われるか分かりません、あなた自身は私に保護される前の記憶は無いということにしましょう」
「……分かった」
「説明は全てこちらで行います」
時間を確認し、懐中時計を仕舞う。振り返るとオービルが立っている。出発の用意は出来ているらしい。
「そろそろ出ましょう」
ソファから立ち上がる。

日は傾き、空は既に薄暗くなっている時間帯だった。ケテルブルクを出る道すがら、検査と医療用の機材をホテルへ返却し、マルクト軍の用意する馬車へと乗り込む。ドアが閉まり動き出すまで、ルークは一言も発さずモコモコとした帽子を目深にかぶっていた。
「そう怯えずとも構いませんよ」
コートの高襟と帽子の合間、かろうじて見えるのは鼻と目だけだ。緑色の双眸が私を見つめ、ようやく襟を口元まで下げる。
「怯えるっつーか、緊張すんなってほうがムリだろ」
「密航しているわけではありませんし、むしろ公式に正しい手順を踏んで渡航しているのですよ。定期船とは言いましたが個室は得ています。聞こえは悪いでしょうが、傍目には監視目的としてあなたもそちらに入っていただくつもりです」
「それは、いいんだけどさ……なんつーか、変なこと言って怪しまれんのも嫌っつーか」
所在なさげに目を泳がせる。明らかに挙動不審だった。私は肩をすくめる。
「そうですね。今のあなたは怪しさ満点です。ですが保護されるレプリカは、大概ぼうっとしているか、私たちの存在に怯えているかのどちらかが多いですから。むしろ通常の反応に見えるかもしれません」
「……そうなのか?」
「ええ。そうでないレプリカはほぼ自力で施設までたどり着けます。それも保護を求める場合は、ですが。自我がはっきりしている者の保護は任意です。希望しなければ別途対処しています」
雪原を馬車が走る。広く雪の避けられた地面は然程揺れを与えなかった。この辺りも魔物が出ることはあるが、時期もあって冬眠に入る種が多く、比較的治安は良い。
「マルクトへ渡る前に聞いておきたいことはありますか」
沈黙が苦しくなったわけではなかった。ただ、促さないと尋ねられない事もあるだろうかと思った。
旅の最中にも、何度もガイに言葉が足りないのだと言われた。私は不確定な言葉を口にするのを嫌っていて、言ってしまえば不快にすら思っているのだから、そう助言を受けたところで変えることはできなかった。
ただ、エルドラントから戻ったあの日、天を貫く光の柱を見た時に、私はまだ彼に告げてやれる言葉はあったのではないかと感じてしまったのだ。後悔だ。私はいつであれ、優れて記憶されてしまう過去を思い出しては反芻し、修正なし得ない行いを考えついては飲み込んでいる。
「……ルークには」
ぽつりとルークが呟く。
それは彼自身を示した名ではなかった。
「レプリカがいなかったってことになってるんだよな? さっき聞いた話だとさ」
「ええ、その通りです。エルドラントまで旅をし、ヴァン・グランツ謡将を倒したのは、預言を乗り越えたキムラスカ・ランバルディア王国のルーク・フォン・ファブレ本人ということになっています」
大爆発で記憶を取り込んだ被験者たる第三のルークをもってすれば、口裏合わせも造作もない事だった。それに加えて国の重鎮らが素知らぬ顔で頷いてしまえば『公式』など容易に取り繕える。
「何よりキムラスカ国内の情勢と、ナタリアの立ち位置を考えれば、ルーク・フォン・ファブレは一人であるほうが何かと都合が良いですから」
「……」
ルークが黙り、窓の外を見る。日が落ちて青みが深くなった灰色の景色がどこまでも続いている。
「レプリカでも、俺が出るとアッシュに迷惑かかんないかな」
「……さて、どうでしょう」
「なぁジェイド、今の俺がバチカルに戻るとまずいのかな」
もうすぐ港に着くだろう。私は私を見る緑色の目を正面から見つめ返した。
「なぜそう思うのですか」
「……王族に関係する人間のレプリカって、まずくないか。アッシュとナタリアが婚約してるのはいいとして、今俺が出たら変に混乱させるようなやつらも出てくるんじゃないのか。ルークが一人のほうが都合がいいってそういうことだろ」
私は座席に深く座り、両指を絡めて腹の前に置いた。今までにもあったことだった。ルークはあまり賢くはないが、七年の月日をあの狭い屋敷で過ごしたのにかわりはなく、貴族に連なって被る薄暗い話はよく理解しているのだった。
「あなたが危惧することを杞憂だと斬り捨てられればよかったのですが、恐らく皆無とは言えないでしょう。どこにでも愚かな人はいます」
事実、三年前のタタル渓谷にあの青年が現れるまで、ナタリアの伴侶にとキムラスカ王国内の貴族名家の幾つかが子息を推薦していたのは驚くべきことでもなかった。例え実際にルーク・レプリカを継承権争いに加わらせるつもりがなかったとしても、それにより起こるであろう混乱に乗じて、二次三次的な利益を得る事は難しくないだろう。例えば議会の結論先延ばし、レプリカに関する国家間条約への干渉、弁の立つ者が常に善人であるとは限らないのだ。私が言えることでもないのかもしれないが。
「ですが、ここであなたを非公式の存在としておくほうが問題は多いでしょう。あなたは家に籠っているほど大人しくはありませんし、友人知人へ会いに行くには国家間を移動する必要が出てきます。先ほどもお伝えした通り、国を越える移動は旅をしていたときとは事情が異なりますから、通常と同様の手続きを要します。身分を明らかにしておいた方が後々の為です」
ごとり、と馬車が止まった。ドアの外から開けようとする気配がある。私はルークを一瞥し、静かに開いたドアの向こうにオービルを見つけて目を細めた。
「ありがとうございます。あなたまで御者台に乗せてしまいすみませんでした」
「お心配り感謝いたします。どうぞ、足元にお気を付けください」
オービルがドアを引き、馬車外にある雪景色を見せる。片目の機能していないルークに手を貸してやりながら降車する。再度ルークは襟を上げ沈黙した。
ケテルブルク港から出る定期船は巨大な貨物運搬型だが、甲板から上層の一部区画を客室として改装している。乗り込み、辛うじて暖かな客室に落ち着いてから、ようやくルークのこわばりも解けたようだった。
「明日の朝には本国に着くでしょう」
そう伝えてやれば、既に疲労したように嘆息した。