世界に生まれる
3
三年前。帰ってきた青年はルーク・レプリカでもなく、ルーク・オリジナルでもなく、新しい第三のルークだった。
大爆発の理論から、体以外のそのおおよそがアッシュで構成されていることは、彼の所作や仕草、口調、利き手によって明らかで、何より纏う空気が異なっていた。私の知るルークではなかった。腕に飛び込んできたミュウも、決して彼を『ご主人様』とは呼ばなかった。殊勝なチーグルだ。今は森に帰り、その後どうなったかは聞いていない。
「タタル渓谷に、姿がルーク・フォン・ファブレである青年が帰還しました。私たち全員の目の前に下り立ち、その目を見たときにあなたではないと確信しました」
「……ジェイドはアッシュが帰ってくるって分かってたのか」
燃え盛る暖炉の火を見ながらルークが呟く。私はどう足掻いても彼の心に傷をつけるらしい。
「他の完全同位体であるレプリカで同じ事象が起こっていましたから。……それを回避させようとしていました。別の個体として存在できるように。結果、叶いませんでしたが。
彼はあなたとアッシュ、両方の記憶を持ち、かつ新たな人格を与えられているようでした。ただ、折に見せる様子から察するに、あなたの記憶を受けてアッシュが新しく生まれたような具合でしたよ。あなたにしては賢慮が伺え、アッシュにしては穏和な態度で、私たちを困惑させた。
しかし、彼が誰であれ、彼が一人だけで帰ってきたことが全ての結論でした。一人の『ルーク』は、ファブレ公爵の息子であれと望まれること、帰ればナタリア王女との婚姻が結ばれること。つつがなく、私たちの予想どおり事は運びました。その繋がりを、彼自身とナタリアが受け入れたとなれば、私たちは彼らの婚姻について口を挟む権利も理由も持っていませんでした。
現在バチカルにはナタリア王女と婚約を結んだルーク・フォン・ファブレ伯爵がいます。然る良き日にご成婚なさるでしょう。その際には爵位をファブレ公爵から譲り受けるものと思われます」
今度は私が語る番だった。ルークは静かにそれを聞き、紅茶に砂糖を入れるのも忘れ、行き場なくカップの持ち手を指先で弄っている。
タタル渓谷のあの日、バチカルへと戻る道すがらガイは私に「最悪だ」と呟いた。明らかな声量と、一団から一人分離れていたのは私と彼しかいなかったのだから、月夜の下で私は彼を伺った。
「一人だ。あいつは、……あれはアッシュなのか?」
「分かりません。言えることは、大爆発は起こったということだけです。彼は二人分の記憶を有して存在している」
「記憶を持っていて何になる。アッシュとルーク、どっちも戻らなければ、じゃないと……」
誰のためにそう思ったのだろうか。ただしく彼の親友も、レプリカであるルークだった。片手で額を覆うように項垂れた彼が望んだのは二人の帰還だった。そしてそれは叶わなかった。
私たちは何のために世界を救ったのだろうか。
彼を犠牲にして。それにより自分たちの未来を犠牲にして。果たされない約束を取り付けて。
相変わらずやることは山とあった。世界を救っただけでは飽き足らず、救った後の世界も面倒を見なければならない。一人や二人死んだとして世界は消えない。また夜明けはやってくるのだ。
帰還するかもしれないという微かな希望も途絶えてしまった。それが三年も過ぎたこの日に、覆されたのだ。
「ルーク」
私は何度目かも分からないまま彼の名を呼んだ。与えられた情報が過ぎて、彼は疲弊しているようだった。
彼が持つカップに砂糖を一つ入れ、それをスプーンで攪拌してやる。
「私はあなたが帰ってきたことを喜んでいます。あまりそうは見えないかもしれませんが」
「……自分で言うなよ」
「ですが現在の情勢はあなたには不利だと言えるでしょう。それを飲みなさい。わたしにはまだあなたに話さなければならないことがある」
躊躇が見て取れた。幼いことだ。飲み終えなくとも話はしなければならない。
カップに口をつけ、嚥下して、短くルークが息を吐いた。そしてそのまま緩慢に飲み干す。喉が渇いていたのだろう。ソーサーに戻すときに再度長い溜息があった。
飲み終えたがすぐには話をしなかった。ルークを着替えさせ、簡単な触診を行う。その限りでは右目以外に違和感は無いようだった。熱が少し低く、脈もやや静かだが、問題ない範囲だろう。実際にはより精密な検査が必要だが今はこれで済ませておく。
オービルに用意させた服はこの家に長くしまいこまれていたもので、見覚えのある厚手の上着とシンプルな長ズボンだ。暖炉の傍では暑くなるかもしれないが、少々痩せてしまった彼からすれば丁度よいだろう。
「だけど早いな」
彼は言う。私はポットに残る紅茶を彼のカップへと注いでいた。ルークは自分が着ていた服を畳んでいた。こういった小さなところで彼は突然思い出したように躾のよさを見せてくる。
「早い、とは」
「や、アッシュがさ……戻ってから、そんなすぐナタリアと婚約できたんだなと思って」
「……そうでしょうか」
「早いよ。でもまぁ、あいつすげぇナタリアのこと好きだったもんな。うまくいってよかったよ。なぁジェイド」
顔を上げる。若干であれ覇気を取り戻したようだった。
「そういえばジェイドはここで何してたんだ? 他のみんなは、今何してるんだ?」
違和感があった。
私は眼鏡を押し上げる。透明なガラス越しにルークを見た。彼は疲労を隠せないようで、けれど先ほどよりは落ち着いた様子で私を見上げている。他愛ない会話だ。まるで久しぶりに会った旧友との一場面のような。
そうだ。久しぶりに会ったのだ。
「ルーク、あなたは……」
思わず言葉を飲んだ。思い当たったことがあった。違和感の正体だ。もしかすると彼は気付いてはいない。私は彼に必要な情報を与えられていない。
「ルーク。先ほどからの話を考慮すると、あなたがエルドラントからローレライと会い、再構築されるまでの期間はどの程度でしたか」
「期間?」
「ええ。見るにあなたは姿があの日エルドラントで別れた時とほとんど変わっていない」
「……別れた時、って、姿? ……どういうことだ?」
ルークの表情が曇る。相変わらず顔に全てが出ている。困惑。思案。私の言葉を分析しようとしているのに、うまく把握できないでいるらしい。それとも理解することを拒否しているのか。
えっと、とルークが言葉を濁した。目が泳いでいる。きょときょとと動いた双眸が私を再度捉えるまでそう時間はかからなかった。怯え。混乱。私はルークへと告げる一言一言が、彼を傷つけているだろうと想定できているのに、伝えるべきであると口を開くことが私自身に課せられた罰のようにすら思えた。
「ルーク。今はND二〇二三。エルドラントで私たちと貴方が別れてから四年が経っています」
「……」
「アッシュがタタル渓谷へ帰ってきたのは今から三年前です。そして今度はあなたが帰ってきた。あなたの体という素体があるアッシュと違い、ゼロから再構築されたとなれば要した時間が異なるのは理解できますが」
「……四年?」
「ええ。ガイはマルクトへ、ナタリアはバチカルへ、ティアはユリアシティへ、アニスはダアトへと帰っていきました。私は今ロニール雪山で音素の代替エネルギーの研究をしています。階級は中将となり、生憎と今年で四十になりました」
「四十!?」
「そこは大仰に驚くんですか。傷つきますねぇ」
呆れて尋ねるとルークは目を丸くしてこちらを見ていた。無遠慮な視線である。はあ、と気の抜けた声を出し、おもむろに手を伸ばしてくる。好きにさせることにした。
ルークの指が、私の手に触れる。かさついた皮膚の硬さが伝わる。私の手の甲を撫で、不思議そうに首をかしげてから彼は手を引っ込めた。
「もう四十……って、見えねぇし、つかそれっておっさんじゃねぇか」
「その言葉、どうぞ我が陛下の前でも言っていただきたいものですね」
「うわー、陛下、四十一か。四年……そうか」
彼の視線が遠くを見つめた。現実逃避のためではなく、正しく逡巡したのだろう。声が小さくなったようだった。
「そんなに経ってんのか」
独り言だ。
私の注いだ紅茶を飲み干し、ソファの上で膝を抱える。先ほど正面扉の花壇で見たときと同じ姿勢だった。上着の首元を引き上げながら、膝に乗せた腕に顔を埋めている。私はオービルを呼びポットを片付けさせた。それをルークは静かに見ていた。
「今こちらに居るのは、ロニール雪山での新エネルギー源開発視察という名目で派遣されたためです」
隣に座るルークを見るが、彼は黙って微かに頷いたようで、ただ呼吸しているだけのようでもあった。気にせずに口を開く。
「無限に生成されなくなった音素に代わるエネルギーの検討はこの四年間でも常に各国議会を悩ませる種です。全世界的な問題ですから、表沙汰には良好な協力体制は結べているものの、中層の管理管轄者間ではまだ懐疑的な見解が拭いきれてはいません。その証拠に領土問題は非常にシビアになり、領海領空の境界線が改めて明確になりました。他にも失地避難民の受け入れ体制や、二大国に属しない地域の対応、各国音素士の再就職先など……まぁ、今の貴方に直接関係しないとはいえ問題は山積みですね」
「……忙しいんだな、ジェイド」
「ありがたいことです。ですから本日夕方にはここも引き上げて本国へ戻る予定なのですよ。ルーク。貴方にも同行していただいたほうが良さそうですね」
膝を抱える腕が反応する。ルークが顔を上げ、瞬きをしながら私を見た。
「同行って、マルクトか?」
「はい。世界的な緊急体制であった四年前とは違い、私も容易にはキムラスカへと入国することができなくなっています。貴方の存在についても非常に繊細な問題ですから、一度我が国王の見解も伺っておかねばなりません」
「……」
黙して彼は逡巡する。随分慎重になったものだ。しかしいつだって決断は出来る子供だった。ややあって私へと向き直る。
「分かった」
その顔は存外穏やかだった。ただそれは水面と同じく、小々波であって大きく揺れることも容易いだろう危うさがある。私は了承の意を込めて控えめに頷いた。
「さて」
ソファから立ち上がる。暖炉は明々と燃えているがまだ寒い。
「船の出航時刻は日没後です。まだ日が昇って間もない程度ですから、貴方は少し休みなさい」