BD910

世界に生まれる

24

そうして一年が巡った。
冬のケテルブルク、私の目の前に現れたルーク・レプリカは、新たな生命の旅路を歩み続けている。
あまり季節変化のないグランコクマでの生活にも慣れ、街を歩けば知り合いらしい店番の者や働き先の常連客に声をかけられる様子を見ることがあった。
彼がノヴァであることはさざ波のように知れ渡っており、同じく私の保護下にある者だというのも周知のようだった。なにせ赤毛に白い眼帯と緑色の目をした、会話をそつなくこなすノヴァである。珍しさにかけては不足ないだろう。見るに、差別的な扱われ方をされることは少なくとも私の目の前では起きていなかった。実際のところは彼のみぞ知るだろう。リュカ、と呼ばれることにも慣れ、ごく自然に振舞えているようだった。慣れないうちは名前を記すときに誤ることが多かったが、今は癖のある字で問題なくこなせている。リュカ・カーティスという名の一人のノヴァはグランコクマで日々を朗らかに過ごしている。

ある日手紙が送られてきた。その宛名は私になっており、差出人はユリアシティのティアからだった。オービルが差し出してきたということはルークはまだ知らないだろう。開封し、中を確認して、さて、どうしたものかと逡巡する。
彼女とは定期的に連絡を取り合っていた。それはルークについてでもあり、彼女自身の環境の変化に関係することでもあった。そしてそのやりとりをしている事実はルークに伝えていない。彼がどう受け取るか、私は予想することはできても、恐らく当てる事はできないだろうと思っている。
しかしこと今回に関しては知らせるべきだと思った。ガイ、アニス、キムラスカの二人にも同じ手紙を届けていると記されている。彼一人知らないでいる事は難しい事柄だった。私は、明後日からが週末であるとして、ガイとアニス、ティアに宛てた速達を書き起こす。キムラスカの二人にはアニスを通して連絡する他ないだろう。それをオービルに出してくるよう伝えながら、ユリアシティ行きの客船のチケットの手配を申し付けた。

「なんだよ。改まって話したいことって」
朝食を終えて、本来であれば私は出勤の支度を整え早々に出る時間になっている。だがその出勤を遅らせてでも話さなければならない。用件があると伝えて、普段ならすぐに席を立つルークも座らせたままにしている。ミュウはそれに倣っていた。
「突然の旅程にはなりますが、この週末の二日間、ユリアシティへ向かいます。あなたも同伴で」
「はあ? ユリアシティ?」
急な予定にルークが思わず声をあげる。その隣に座っていたミュウは椅子の上で小さく跳ねた。
「ジェイドさん! ご主人様が行くならボクも行くですの!」
「ええ、勿論構いませんよ」
「いや、つーか週末の二日ってノームとレムだよな。明後日とかマジで突然じゃねぇか」
「正しくは明日の夜の便で出ます。この週末にかけては運よくあなたのシフトもお休みでしょう」
「そうだけど……てかなんでシフト知ってんだよ」
「ユリアシティならティアさんにお会いできるですの? 嬉しいですの!」
ミュウが跳ねながらティアの名を出す。私は口元だけで笑う。
「そのつもりですよ。ところでミュウ、ルークと二人だけで話したいことがありますので、一人で先に部屋へ戻っておいていただけますか」
訊ねるとチーグルは大きく頷いた。
「はいですの!」
椅子から飛び降り、小さな足を動かして出入口へと向かって行く。オービルが開いたドアから青いチーグルが去ってから、ルークが私を振り返った。その目が揺らいでいるのを見る。
「……話って、もしかしてティアのことか? あいつに何かあったのか?」
彼の心配はどういったものだろうか。恐らく私がこれから口にすることはまた彼を傷つけるかもしれないと思う。だがやはり、黙し続ける事も出来ない事だった。私はなるべく静かな声で質問に答える。
「ティアが出産しました。手紙を見るにひと月は経っているでしょう。産後の経過としては母子ともに健康だそうです。その連絡があったので、急ではありますが顔を見せに行こうかと」
リビングが一息に静かになる。私を前にルークの目が見開き、何度か瞬きをした。そして、立ち上がろうとして失敗し、がた、と椅子から落ちそうになる。驚くと彼はこんな反応をするのだったか。
「しゅ……出産?」
「女の子だそうです」
「いや、いやいやちょっと待て、ジェイドお前、ティアと連絡とり合ってたのか?」
「簡単な身辺報告ですよ。彼女もあなたが私の家に入ったことや酒場で働いている事は既に知っています」
「は!? なんだよそれ、聞いてねぇぞ!」
「ここ最近行っている以前の仲間とのやり取りとしては、ガイを除けば私と彼女が一番密に取っていたかもしれませんね」
「なんで!」
それは怒りや失望が含まれていてもおかしくない質問であったろうに、彼の声音は純粋な問いだけを浮かべていた。確かに私と彼女の接点といえば旅の頃か、言ってしまえばルークの存在がほとんどだろう。彼女は一年前に再会して以来、ずっと我々のことを気にかけていた。だからこそ彼女にはルークがどういった環境にあるかを伝えるべきだと思ったのだ。そしてそれは彼女の望みでもあった。
「彼女にあなたを頼まれていましたから」
その言葉が全てだった。あの日、泣く彼女から託されたものは大きな責だった。彼女が果たせなかったもの。残酷な時の流れが残した一縷の光。
未だに、きっと私がその役割でなくても良かったのだと思うことがある。ただ、事実としてその役割を手に入れたのは私だった。例え不釣り合いなのだとしても。
声を上げた時に思わず立ち上がったルークは、短く唸り、椅子に座り直した。そして恨みがましそうな表情を浮かべてこちらを見る。
「ジェイドって……やっぱ何考えてっかさっぱり分かんねぇ……」
「おや、奇遇ですね。私もあなたの考えは上手く読み取れないのですよ」
笑いかける。彼の心は無事だろうか。私が彼に与えた情が、彼の心の中に納まったのだとしても、彼女に対しての情がどんな形に変容したかは完全には知りえていない。それはもしかすると彼自身そうなのかもしれない。現に今も真意の読めない、複雑そうな表情を浮かべて小首を傾げている。
「……ティア、大丈夫なんだな」
「ええ。彼女自身の筆跡で手紙が届きましたから、恐らく無事でしょう」
「そっか……」
テーブルに頬杖を突く。テーブルマナーとしては反しているだろうが、今はそのような些末なことは指摘するにも値しない。
ルークが逡巡する。そして緑色の目が改めて私を見る。表情は落ちついたようだった。
「これも、必要だから黙ってたのか?」
彼の言葉は時折私を責め立てる。しかしそれを受けて然るべきの事を私は起こしてきている。彼と出会って、今までもずっと。
「ええ。いつかは話すべきことだとも思っていました」
ずっと隠したままではいられないと分かっていた。ただ、彼が忌憚なく私に意見するのを、自らの気持ちを吐露するのを、初めての感情に戸惑うのを、見ていればあまり多く気を遣う先を与えてしまうのは良策ではないと考えていた。新しい生活に慣れるのも大変だっただろう。毎日を目まぐるしそうに過ごしている時期もあった。その頃に被せてティアから懐妊の報告があったのだ。ルークに伝えるか否か、すべて私に任せるとあった。彼女も考えた末のことだろう。その手紙の前には彼女にも私とルークの関係は伝えていた。寄越された文面には安堵を告げる言葉があったが、果たして受け取った彼女の感情も複雑だったろう。
「無論、行かないという選択肢もあります」
眼鏡を押し上げながら続ける。ルークは私を見つめた。
「どうしますか」
訊ねる。
ルークは視線を私から外し、一つ呼吸を置いた。それがまるで溜息のようで、私は思わず彼を見る。
「なあ、ジェイド」
「はい」
「俺、ジェイドが好きだよ」
不意な言葉だった。ルークが再び私を見る。
「ティアに子供出来たって聞いて、今すげぇびっくりしてるけど、でも、なんか変な感じじゃないんだ。そりゃ、急に言われたからさ。昔の仲間なんだ、驚くだろ普通。……きっと、これがナタリアでもアニスでもびっくりするよ。いつの間にそんなことになってたんだろうって、そういうびっくりで。だから、多分、ジェイドが心配してるみたいなやつじゃないと思う」
「……どういう意味でしょう」
「ジェイド、多分俺がまだティアのこと、そういう意味で好きだと思ってるだろ」
今度は私が瞬きをする番だった。一度会話が途切れる。彼はいつから私を黙させるのが上手くなっていたのだろう。
「さて、どうでしょう」
「誤魔化すってことはそうなんだろ。俺もちょっとだけど、ジェイドの事段々分かって来てるんだぜ」
「自負が強いですね」
「言ってろよ」
ルークが笑いながら立ち上がり、私の座る椅子の傍らに立つ。そして肘置きにある私の手を取った。私より少し高い子供の体温で握りこまれる。
「一緒に行こうぜ。ユリアシティ。俺、赤ん坊ってあんま見たことないんだ。ティアの子供だってんなら絶対可愛いだろ」
言ってまた笑う。私は座ったまま傍らに立つ彼を見上げていた。いつの間にこれほど強くなっていたのだろうか。ここのところ私の憂いは大概において杞憂に終わる。

翌日。残業もなく私は帰宅し、先に戻っていたルークとミュウを連れて港でガイと合流した。グランコクマからユリアシティへ向かう客船に乗る。
聞けばガイにアニスから連絡が入ったらしく、彼女はキムラスカを経由して、急な用立てに対しては動くのに向かないナタリアとルーク伯爵の贈り物を秘密裏に受け取り一日遅れて現地で合流するとのことだった。個人的な贈り物であっても扱いを誤れば外交問題に発展させられる可能性はある。秘密裏とは、相変わらず根回しの得意な女性である。
「そういえば、やっぱこういう時ってなんか贈り物とかしたほうがいいよな」
客室で落ち着かない様子のルークが言う。アニスが運んでくるという贈り物と聞いてだろう。ガイが考えるように顎へ指を当てた。
「まあ出産祝にあたるわけだからな。話が急だったから俺は分かりやすい物しか買えてないんだが」
「最も手っ取り早く扱いやすいのは現金でしょうね」
「うわ、身も蓋もねぇ」
ルークの膝の上でミュウが揉まれている。弄られているのではなくマッサージに近いようで、夜の時間でもある為か、チーグルはうとうととし始めている。
「一番困りませんし使い勝手も良いと思いますが。他と被ったものを渡されても迷惑でしょうし」
「はは、そう言われちまうと一気に渡しづらくなるな」
「ジェイドはそうするってだけで別にガイは贈り物渡せばいいだろ。俺どうしようかな。ユリアシティに何か売ってっかな」
「なんだ、旦那と一緒に渡すんじゃないのか」
「数あったほうが嬉しくね?」
今彼が自由にできる金額はそれなりに貯まっているだろう。私が妹の結婚祝いにも基本的には現金を贈ったのだと言えば二人はどんな反応をするか。想像に易い。
客船で一泊し、翌朝ユリアシティへと到着する。訊ねればガイは涎掛けやタオルなどの困らない消耗品で質の良いものを用意したのだという。恐らくキムラスカから贈られるものもそう外したものではないだろう。そしてアニスが手ぶらで来るとは考えにくかった。ルークはまだ悩んでいるようだった。
「気持ちがあればなんでも喜んでもらえるさ」
「プレゼント、とってもワクワクするですの!」
「いや、そうなんだけどさ……」
ティアの家を訪ねる前に、ユリアシティの中を男三人とチーグル一匹がぞろぞろと歩き贈り物を見繕っている。ぞっとしない光景だろう。私は宣言通り現金を渡す予定であったため、それを包むための絹の布を購入した。
「うわ、マジで金包むんだ」
「被らずに済んで助かるでしょう」
「俺どうしようかな。……あ」
布を売る服飾雑貨の店頭に並ぶものを見渡したルークが立ち止まる。ショーウィンドウにも並べられていたそれは、見れば生産数の少ない限定品と書かれていた。ミュウが思わず飛び上がって喜んでいる。
「こういうのって赤ん坊にやっていいのかな」
「さあどうでしょう。生憎子供をもつ知人が居ないもので」
「俺は貰った記憶もあるが、赤ん坊の頃じゃなかったからな。店員に聞いてみればいいんじゃないか。……ああ、すみません」
すぐにガイが女性店員に声をかける。旅の頃では見なかったが、ここ数年では珍しくもなくなった光景だった。そして女性が頬を染める原因にもなり得る。
結局店員に相談して別の品物でルークの贈り物は決定した。そしてそれとは別で、ショーウィンドウに飾られたものも購入する。
「それはティアにか?」
「うん、あいつも頑張ったと思うから」
ガイがルークの頭を撫でる。いつもなら子供扱いだと拗ねるところだろうが、両手に贈り物を抱えた今はそれを振り払うことはできないようだった。

ティアの家に到着する。贈り物を探していれば速達で伝えていた時間丁度になったところだった。
ドアノッカーを叩けば、中からこちらに向かう足音がする。ドアが開いた。出迎えたのは、ゆったりとした私服姿のティアだった。
「こんにちは、中将、伯爵、……リュカ」
「こんにちは」
「やあ、久しぶりだな、ティア」
「……ほんと、久しぶりだ」
「ボクもいるですの!」
「ミュウ。あなたも来てくれて嬉しいわ」
ガイがドアを開くのを引き受け、招かれるままルークに続いて室内へと入る。ミュウは歩くのが遅いとルークに捕まっていた。
奥で赤子の泣き声がする。恐らく母親を探しているのだろう。
「ごめんなさい。丁度目を覚ましたところで」
「ノックの音で起こしてしまったかもしれませんね」
「奥へどうぞ」
ティアがルークを見、ルークがティアを見た。そして中へと進んでいく。リビングルームにはベビーベッドが据えられており、泣き声の主はそこにいるのだと知れた。ティアがあやす言葉をかけながらベッドへと近寄る。柵の中、何かを取り上げ、振り返った彼女の腕の中には小さな赤子がいる。
「ほら、どうしたの」
聞いたことのないような優しい声でティアが赤子を小さく揺する。すぐに娘は泣きやみ、口元を僅かに動かしながらその小さな身を母親へともたせかけた。
ルークとガイが感嘆の息を漏らす。ミュウがきらきらとした瞳で赤子を見つめる。新たな生命はその場の視線を独占しながら、本人は至って穏やかに大きな目を欠伸で細めている。まだ両親のどちらに似ているとははっきり判別できないような頃だろうか。ただ、目の色は彼女と同じ青色だった。
「はあ、可愛いな」
「すげぇ小っせぇ……」
「当たり前よ。生まれたばかりだもの。まだ首も座っていないのよ」
娘の背を軽く叩いてあやしながらティアが言う。首が座るという概念をルークが理解できているかは訊ねないことにした。私が口にしなくともガイが説明するだろうと思えば、案の定すぐに横からフォローが入っている。優秀な男である。
「抱っこしてみる?」
訊ねられる。これはルークとガイに向けられているのだろう。二人は頷き、贈り物とミュウを一度ソファへ置くと、ガイは喜びながら、ルークは怯えながらティアへと近づいていった。私は両手を腰の後ろに回し、その様子を少し離れた場所から眺めることにした。
「ちょっと待ってね」
娘にか、二人にか、そう声をかけて一度赤子をベビーベッドへと戻している。そして二人の手を取り、赤子を受け取るための腕の組み方を教えている。恐らく旦那にも教えたのだろう。ぎこちなさの観点から見てまずガイに渡された。赤子は自分を抱いている相手が誰かを認識しないまま、パチパチと瞬きしながら目だけであたりを見渡している。
「信じられないくらい軽いな。下手したら潰しちまいそうだ」
「あら、一日中抱っこしてたらどんどん重く感じてくるわよ」
「そりゃそうだ。しかし今からこんな美人さんなら将来が楽しみだな」
口説く相手の年齢は幅広いらしい。ガイがティアに赤子を返し、次はルークの番だった。明らかに緊張している。
「うわ、怖ぇ。俺落とさねぇかな」
「落とさないようにして頂戴。……ほら、大丈夫よ」
声をかけながらそっとティアが手を離す。ルークの腕の中に赤子が収まる。彼女が再び欠伸をするとルークが驚き、それを見たティアとガイが笑った。
ティアが私を伺うが、私は無言のまま辞退した。意思の疎通ができない生き物は苦手なのだ。だがその断りを見ていないルークがこちらを振り返り、「ジェイドも抱っこしてみろよ」と言うものだから、もう一度はっきりと断り、しかし気づけばティアから赤子を渡されている。
ルークを介せば私が動くとでも思われているのだろうか。しかしこれ以上固辞する理由も見つけられず、仕方なしに小さな生き物を受け取る。抱え方は二人に教示しているときに見ていたから問題はない。片腕に収まるほどの彼女は、私に抱かれても泣き声をあげず、ただきょろきょろと視線を動かしているだけだった。
「あまり中将やガイほど背の高い人に抱っこされた経験がないので驚いているのかもしれませんね」
「旦那さんもそんなに高くないのか」
「そうね、ガイよりは低いわ」
「今は留守みたいだが」
「丁度呼ばれてしまって。近所だから、すぐに戻ってくるとは言っていたのだけど」
二人が話している間にルークがこちらへと寄ってくる。ふっくらとした赤子の頬を、そろそろと指先でつついている。飛び上がったミュウがルークの肩につかまりながら同じく赤子を眺めていた。柔らかく小さな手が、反射か、ぎゅ、と握られるのを見た。ルークが笑う。
「ジェイドに赤ん坊って似合わないな」
「あなたほどではありませんよ」
ドアの鍵が開く音がする。それに気づいてティアがリビングを出て行った。旦那が帰ってきたのだろう。玄関でやり取りをする声がし、リビングへティアと彼女の夫が入ってくる。
「こんにちは、皆さん。今日は来ていただけて光栄です」
「いや、こちらこそ野郎ばっかが大勢で押しかけてすみません。可愛らしい娘さんだ」
「ええ本当に。僕に似なくて良かったですよ」
ガイが人好きのする挨拶をする中、私の隣でルークが緊張するのを感じた。そういえば彼がティアの夫を見るのはこれが初めてになる。見ていれば、自ら前へと出て行き、鳶色の髪をした彼の正面へと向かって行った。
「あの、初めまして」
「やあ初めまして。もしかして、あなたがリュカさんですか?」
「え? あ、はい、そうです、けど」
自ら名乗ろうとしていたのだろう、先に言い当てられて思わず口ごもるルークに鳶色の彼はにこやかに答える。
「ああやっぱり。いえね、ティアが、あなたの話をよくするものですから。グランコクマで頑張っている仲の良いノヴァの方がいると」
「ちょ、ちょっと!」
夫の突然の告白にティアが顔を赤らめている。ルークは虚を突かれた顔をして二人を見た。夫はにこにことしている。彼女たちの娘はといえば、私の腕の中で眠そうにしている。
「ユリアシティではあまりノヴァの方を見ないもので、私も勉強不足なところはありますが、あなたの活躍に励まされる人や助けられる人は多くいるでしょう。今日はあなたにお会いできてとても嬉しいです。これでようやく、ティアが話しているリュカさんの顔を覚えられる」
「もう、やめて」
赤い顔を隠しながらティアが夫をルークから遠ざける。ルークは少し呆けたまま、しかしすぐに気を取り直した表情になる。
「あの、俺、リュカ・カーティスっていいます。こっちにいるジェイドが、多分ティアに俺のこと色々連絡してるんです。だから、手紙で何を言われても恥ずかしくないように頑張ります。あと、ティアの事、よろしくお願いします」
頭を下げる。その肩を、ティアの手から離れた夫が穏やかに掴んで頭を上げさせる。そして二人は短い握手を交わした。ルークはようやく落ち着いたというように短い溜息をついた。
ティアに赤子を返し、先に到着している私達の贈り物を二人に渡すことにする。ガイの贈り物は素直に喜ばれ、私の贈り物は慌てたティアが一度受け取りを断ったが、代わりに夫へと押し付けて事は済んだ。そしてルークの贈り物は、今の彼女たちの娘と同じほどのサイズもあるチーグルの布製ぬいぐるみと、ティアへの贈り物である同じチーグルを模した本格的なぬいぐるみだった。本物であるミュウと並んでも遜色のない出来である。
「これ……大通りのお店の」
「なんだ、知ってたのか」
「良かったじゃないかティア。いつもじっと見ていたもんな」
「み、見てないわ」
そう言いながらも長い毛足のぬいぐるみを膝に乗せたティアは、その隣に立つミュウと見比べながら頬をまた赤く染めている。娘は布製のチーグルのぬいぐるみを父親に目の前で振られ、視線で追い、偶然だろうか、僅かに手を伸ばす素振りを見せた。
「ふふ、この子も気にいったみたいです」
「よかった」
心底そう感じているようにルークが笑う。ティアがぬいぐるみを撫で、小さな声で「ありがとう」と呟いた。ルークは笑顔のまま「どういたしまして」と答え、その膝にはミュウが飛び込んだ。
その日はユリアシティの宿泊施設に泊まった。二人部屋と一人部屋しか種類の無いその施設で、私とルーク、ガイとに分かれる。明日の合流時間とアニスの到着時間を確認し部屋に入った。ミュウは無論ルークと同じベッドへと上った。
「あー、……緊張した」
「陛下やキムラスカの時よりも気を張っていたのでは?」
「なんか違う感じの緊張だよな。でもいい人そうで良かったよ。それに赤ん坊ってあんなぐにゃぐにゃなんだな、こいつの方がまだ扱いやすいぜ」
「みゅう」
強めに頭を撫でられたチーグルは、褒められたと思ったのか満面の笑みを浮かべている。
「生後一年もすれば見違えるように動き回るようになりますよ。子供の成長は早いと聞きますから」
「……なあ、俺も、生まれて……戻されてすぐってさ、あんな感じだったのかな」
またミュウを揉みながらルークが言葉を零す。視線がどこか遠くを見ている。私は備えつけのポットで湯を沸かしながら肩を竦めた。
「どうでしょう。他のレプリカたちの様子を見るに、体は被験者の年齢相応の発達をしているはずですから。ああもぐにゃぐにゃではなかったかと」
「そりゃそうかもしれねーけどさ」
「ガイに聞いてみては」
「……聞きにくいだろ!」
流石にそういった情緒はあるらしい。私は沸いた湯で紅茶を淹れ、サイドボードにカップを二つ並べた。この温度ではミュウは飲むことが出来ない。それにチーグルは長旅で疲れたのか、既にうとうとと船を漕ぎ始めている。
「もう日記を書いて眠ってしまいなさい。明日は朝が早いですよ」
「分かってる」
少し冷めるのを待つ間に日記を書き終え、ルークが紅茶を飲み干す。そして私の分も受け取ると、軽く洗ってアメニティの置き場へと戻す。酒場で働くようになってから邸での手伝いの幅も増えているようだった。今までなら自らそんなことはしていなかったのだが。茶化せば機嫌を損ねるだろうと黙っておくことにする。
「電気消すぞ」
眼帯を外しているルークに呼び掛けられる。私も眼鏡を外し、頷けば室内に闇が広がった。
「おやすみ」
そう呟かれても相変わらず私は上手く返せないでいる。「ええ」とだけ呟き、明日の予定を逡巡しながら眠りについた。

翌日。キムラスカを経由してきたアニスと港で合流した。両手いっぱいの荷物はすぐにガイへと引き渡され、早速というように再び全員でティアの家を訪ねることにする。
「はうあ! これは明らかなティア似! 既に美人さんの予感~!」
今日は夫のほうは仕事らしく不在だった。巡教者の子供の洗礼を手伝うこともあるというアニスは手慣れた様子で赤子を抱き上げ、ティアを労わり、贈り物をガイを介して渡した。
キムラスカからは上質な素材で出来た子供用ケープとブランケットが、そしてアニス自身からは割れにくい素材で出来ているという子供用の食器と、授乳中の母親でも飲めるハーブティーの差し入れがあった。流石に抜け目のない選択をしてくる。既に赤子を寝かしつけるのに成功している手腕は伊達ではないのだろう。
「リラックスできるし美味しいって教徒の人たちの間でも話題だったんだ。子育てってどれだけ子供が可愛くっても疲れちゃうときはあるもんね。ティアの旦那さんは理解ありそうだけど、本人にしか分かんない事だっていっぱいあるだろうし。無理しちゃだめだよ~」
「ありがとう、アニス」
そう礼を言うティアの傍らには昨日のぬいぐるみが置かれている。既に彼女を癒す道具が集まりつつあるらしい。
寝かしつけられた娘はベビーベッドへと移動し、その後は密やかな声ではあるが、それぞれの近況を話す報告会と相成った。一年も経てば様々な話が湧いて出てくるようで、特にアニスとティア、そしてルークは話題に事欠かないようだった。
私とガイは基本聞くに徹している。書類仕事をしていれば日々などいくらでも送られていく。それはガイも同じらしく、唯一話題になるだろうルークとの稽古はあちらで既に話されているのだから、いくらか相槌を打つに留めていた。
「……しっかし、ルークには驚かされるな」
「驚かされる要素が多くて見当がつきませんが、何のことでしょう」
「ティアのことだよ」
リビングのソファに座る三人の輪から少し離れ、ベビーベッドを眺めながらガイがより声を潜めて私に話しかけてくる。私は、三年前のタタル渓谷からの帰り道のことを思い出していた。いつであれこの男の気を揉む先はルーク・レプリカだと決まっている。
「まさか昔好きだった女性の子供抱く日が来るとは思わないだろ」
「彼の中では既に折り合いがついているということでしょう。ここで下手に引きずられていても扱いに困ります」
「まあ、今の旦那の立場ならそうだろうな……」
苦笑いをしたガイがルークに呼ばれ、返事をしながらあちらの輪へと加わる。私はベビーベッドで眠る小さな姿を見下ろしていた。この二日の間に起こった多くの事象は私には彼に経験させることのできないことだった。ルークは何を思っただろうか。恐らく口にしていたことが、全てとは言わずともほとんどだろう。
「ジェイド、そんなに赤ん坊が気になるのか?」
ルークの揶揄う声が聞こえる。こちらを見ながら面々が笑う。私は肩を竦めた。世話をする子供は一人で充分だろう。

昼を過ぎた港で帰りの船に乗り込む。ガイは陛下に仕事を与えられていたようで、ダアトを経由して戻るからとここで別れることになった。
「じゃあアニスちゃんの護衛だね」
「任せてくれよ。女性の一人旅なんて危険だからな」
「出た出た~節操無しぃ。でもこっそり贈り物大作戦も成功したし、ガイが一緒なら帰りは気が楽かも~」
軽口を叩き合うアニスとガイ、そしてティアとその娘に見送られる。船が出てからもルークはあちらの顔が見えなくなるまでブリッジから眺めていた。
グランコクマへの到着は深夜の予定で、客室に入ると、ルークは息をつきながら備え付けのベッドへと横になった。その仕草には疲労が見えている。
「あー、楽しかったけど疲れたな」
「日程が強行軍でしたからね。明日からはまた仕事ですし」
「それなんだよな。……あんなに暇だって思ってたのに、働き始めると休みが恋しいぜ」
「贅沢な悩みですね」
ミュウが寝転がるルークにシーツをかけようとする。それを途中から受け取りながらルークは寝そべり、腕を枕にしてこちらを向いた。
「なあ」
「はい」
「ケテルブルク行かないか」
突然の提案だった。しかし今回の旅程も突然のことだったのだ。意趣返しかと考えながら、彼が横になっている向かいのベッドへと座る。ルークは眼帯を外しており、緑色の双眸で私を見つめている。
相変わらずこの子供は面白いことを言う。
「これからですか」
「そう」
「いいですね」
「だろ? あのでっけぇホテルに泊まってさ、カジノして、迷路入って、あと一日だけ遊ぼうぜ」
きっと現実逃避だろう。ふざけた言葉遊びとも言える。私は彼を見つめたまま笑った。そして僅かに首肯する。
「構いませんよ」
ルークがベッドの上で半身を起こす。私の真意を探ろうとしている目だった。私は、口にした通りそれでも構わなかった。
「あなたが行きたい場所に行きましょう」
ルーク・レプリカ。預言にも読まれない歪な存在。いつの間にか私の中に住み着き、内腑に毒を溜めこませ、気づけばそれすら浄化するかのように私の情を受け取り、読めない行動をとり、常に私を大いに揺らがせている唯一人。
何故私は彼を望んだのだろうか。
何故彼は私を選んだのだろうか。
答えのない問だった。解けない事など世の中にはいくらでもある。目の前にあるそれだけが事実だ。例えどんなに不可思議でも、今彼が私と共に在り、それを出来うる限り永くと望むのならば。旅の終わりの時分と同じことだった。私は何でもするだろうと思った。彼の好きなようにさせたかった。
彼と私、どちらが残された時間は少ないのだろうか。
ルークが短く呻き、そのまま再びベッドへと倒れ込む。そしてじっとりとした目で私を見た。まるで私が悪いかのように。
「……グランコクマ」
告げられた行き先はあっさりと変えられていた。
「ええ」
「……帰るぞ。明日も仕事だから」
「そうですね」
「でもほんとに、休み合わせようぜ。そんで、今度はほんとにケテルブルクに行く」
「構いませんよ。ですがルーク、どうしてそこまでしてケテルブルクへ行きたいのですか」
純粋な疑問だった。今日他の面々と話していた時もそれほどかの地につながるような話題は無かったはずだ。彼が瞬きをする。そして緩慢に体を仰向けに横たえる。ミュウがもぞもぞとルークがかぶるシーツへと潜り込んでいる。
「俺が生まれなおしたところだからかな」
彼は両手を天井へと伸ばした。指を絡め、脱力して胸の上で手を組んだ。それがまるで死に近く見えて、私は、何かを言おうとしたのだが、すぐにルークが寝返りを打ってこちらを向いたものだからその必要もなくなってしまった。
「ジェイドとまた会えた場所だから」
殊勝なことを言う。否、彼は元からこうだったのかもしれない。旅の責は終わり、生まれなおしたこの世界で、彼は彼のまま稚さをもって新しく生きている。
「でもジェイドと俺が、……恋人になってるって、あの時の俺が聞いても絶対信じないよな」
「混乱しか生まないでしょうね」
「俺も未だに不思議な感じする」
「私もですよ」
他愛ない会話だ。互いに不確定な要素を持ったまま相手を愛している。その不確定さは膨らむこともあるかもしれない。だがそれでもいいと思えた。次の手が全て分かる相手などつまらない。ただでさえ世界にはそれほど期待していないのだから。せめて彼だけは私をかき乱してほしい。
ミュウはうとうととルークの傍で眠そうにしている。ルークが頭を撫でてやると、はっとしたように一度は覚醒したが、それも束の間で、撫でられるがまま小さな体を横たえて目を瞑った。
「ジェイド」
小声で呼ばれる。見れば、緑色の双眸は嬉しそうに細められている。
「旅行の予定、出来るだけ早く合わせような」
あの日のケテルブルクの私に、今の私は想像できただろうか。笑いかけてくるルークに、私は笑い返してやれているだろうか。分からないが、彼が喜んでいるのならそれで良かった。それがいつからか私の望みになっていたのだから。

約束を果たした彼とのこの先も生きていく。
確かに彼が再びこの世界にうまれたのだという奇跡の元に。