BD910

世界に生まれる

23

「おっ、おつかれ」
ドアベルが鳴る。グラスを乗せたトレイを片手に、私を振り返りながらルークが声をかけてくる。後ろ手に背後のドアが閉まる音を聞いた。今日もこの酒場は程よく客が入っている。
「いらっしゃいませ、でしょう」
「ジェイドだって分かるとおつかれとかおかえりのが出ちまうんだよな。もう仕事終わったのか」
「ええ。あなたは早くそのグラスを運んでしまいなさい」
「へいへい」
ウェイターの制服に身を包んだ子供が奥のテーブルへと向かっていく。私は空いているカウンター席に座った。普段は穏やかな表情を浮かべるだけのマスターが、少しばかり笑みを深めているのが気になった。
グランコクマにある酒場でも贔屓にしている店だ。二階はよりアルコールを楽しむ場になっているが、一階はこの時間なら食事を目当てにした客の方が多い。食前酒を頼む。マスターが目の前でグラスに注いでくれる。
「彼がご迷惑をかけてはいませんか」
「とんでもない。厨房でも仕入れた重い荷物を運んでくれたりと助かってますよ。何より素直だ。あなたが気にいるのも分かります」
マスターの言葉に返事は浮かばず、グラスの酒で唇を湿らせる。振り返ると、ルークがこちらへと歩いてくるところだった。トレイを傍に持ち、マスターにテーブルからの注文を告げ、座る私の隣に立つ。飲食店で働くため、後ろのはね髪を一つに小さく束ねている。
「今日は帰り早いな」
「明日に回しただけですよ」
「明日でいいならそうしろよ。ジェイドって何でも抱え込むんだもんな」
「何でも先に済むに越したことはないでしょう。……どうかしましたか」
「いえ、失礼」
グラスを磨いていたマスターが口元を隠さず笑った。バーテンダーのカクテルを作る音を聞きながら食事を注文をする。そこでスタッフルームから一人のウェイターが出てきたのを見つけると、ルークが気づいて駆け寄っていった。
「他のスタッフたちにも可愛がられていますよ」
「そのようですね」
軽口で返せば、マスターは微笑のまま静かに食事の用意を始めた。
ルークがこの酒場で働き始めてひと月になる。発端は「自分も働きたい」という彼自身からの希望だった。正直なところノヴァが職についた前例はマルクトですらまだ無い。職につけるほど意識がはっきりとした者がそもそも少なく、ノヴァという身分は各国保護対象であるため生活の保障がされているというのが大きな理由だった。
だが子供はその他大勢とは異なる存在だった。例え身分はノヴァであろうと、大人しく私の邸に収まり続けるような者ではなかった。ただ、被験者がキムラスカの王族に連なる者であるのだから、傭兵団などの危険が伴う仕事はまず却下し、元からの素質として学を要するものも候補から外した。残った選択肢の一つが接客業で、うち心当たりがあったのがこの酒場だった。
旅の時にもルークと訪れたことのある場所だ。マスターに訊ねれば、ノヴァとはいえ私の身内であるとして試用期間のひと月、様子を見ることになった。そして今日がその期間の終了日なのだ。
「さて、彼の働きぶりはいかがですか」
訊ねる。マスターがカレーの皿を私の前に置く。
「あなたと彼がよければ、店としてはそのままお手伝いいただきたいと思っていますよ」
グラスを傾けた。マスターの表情を見ていれば分かることだった。ここでも歳上に好かれやすい体質を遺憾なく発揮している。子供からすれば職場の仲間は全員歳上になるのだろうが。
「そうですか」
「……ジェイド! 俺もうすぐ上がりなんだけど、それまでちょっと待っててくれないか」
スタッフと話し終えたらしいルークがこちらに戻ってくる。その時間に合わせて来たのだ。とは告げないまま、さて、と呟きグラスを置く。
するとマスターが声をかけた。
「リュカさん、今日はスタッフも足りていますし、少し早いですがもう上がって構いませんよ。よければ賄いもここで食べていってください」
「え、いいんですか」
私の横に並びながらルークが返す。嬉々とした様子を隠しきれていない。マスターが頷き、今日の賄いの用意を始める。じゃあ、と遠慮なく子供は頷き、着替えてくる、とその場を離れていった。
「彼にはもう伝えたのですか」
「いいえ、あなたにお伝えして許可を頂くのが先かと思いまして」
旅の頃も会ったことがあるのだ。だが顔を覚えるのが仕事であろうマスターは、「初めまして」と挨拶したルークに初対面として対応した。恐らく勘付いているだろう。それでも彼がそう返すのなら、こちらから複雑な説明をする必要はなく、私の保護下にあるノヴァの一人として扱われるに徹している。世界には賢くまともな人間も少なからずいるのだ。その希少さがあるからこそ日々を暮らしていくことができる。
「許可を頂くのはこちらのほうです。どうぞあなたから伝えてやってください。彼も喜ぶでしょう」
やがてスタッフルームから私服で出てきたルークが私の隣、カウンターに座り食事を始める。私もスプーンを手に取った。昔から外食をする時は大概この店を選んでいる。
「試用期間最終日はどうでした」
訊ねる。ルークが口の中のものを飲み込むまで待つ。そして彼はおずおずとした視線をマスターに向けた。
「そうだった。……俺、ちゃんとやれてましたか」
「ええ、勿論」
水のグラスをルークの前に置きながらマスターが答える。そして私を見て、小さく首肯した。
「丁度そのお話をカーティス中将としていました。これからもうちの店で働いていただけませんか?」
ルークの目が見開かれる。そして破顔し、私へと顔を向けた。
「いいよな、ジェイド!」
「マスターもこうおっしゃってますし、あなたのお好きなように」
「やった!」
周囲への配慮か、しかし小さく声を上げ、ルークは笑いながら拳を握った。「よろしくお願いします!」と言うや、空腹を思い出したように賄いを嬉しそうに食べ始める。私も食事を再開した。
ぽつぽつと、マスターとルークと話しながら緩やかに時間が過ぎる。途中、来月の分だと言って別のスタッフがルークにシフト表を渡しにきた。それがより現実味を帯びるきっかけとなったのか、子供は噛み締めるような表情でその紙面を眺めていた。
正直に言えばルークが働かなくとも資金面では問題がない。子供が働いた分の稼ぎは彼のものにしてもらえばよいだろう。何を買うつもりかはあまり興味がなかった。買い物の仕方は昔に教わっているのだ、放っておいても好きに使うだろう。
食事を終えて帰路につく。マスターに馬車を呼んでもらい、それを待つ間、酒場の前で二人立ち並ぶ。
「ウェイターはあんまり混んでない時にさせてもらうようになったんだ。テーブルに皿置く時片目だとたまにミスっちまって」
「なるほど。確かに置かれている食器が増えると難しくなることもありそうですね」
「いつもは大体食器用意したり、注文取ったり、裏で皿洗ったりとか下ごしらえの手伝いしてる」
グランコクマでもこの時期の夜は流石に風が冷たくなる。羽織るジャケットの前を合わせ、肩を上げたルークが私を見上げた。
「なんか最近、ここで働くのもそうだし、ガイとの稽古とか庭の手入れとか、いろんなことがすげー楽しい」
「それは何よりです」
「ありがとな、ジェイド」
彼を見下ろす。眼帯に覆われていない方の緑色の目が笑う。
「何がでしょう」
「ここの酒場紹介してくれて」
「実際のあなたの働きがないと雇われることは無かったでしょう。お礼をいただくのは少々過剰ですよ」
「いいんだ。俺が言いたいだけだから」
馬車が到着する。御者に行き先を告げて賃金を払い、ルークを乗せて後に続く。二人きりの空間で、以前は向かい合って座っていたのだが、ここのところルークが私の隣に座ってくるのだ。私は何も言わないことにしている。街の中を馬車が走る。
「あのさ」
「はい」
馬車が小さく揺れる。ルークが手元を見ながら小さく言葉を落とす。
「ジェイドって明日休みだよな」
「ええ」
「俺もなんだけど、」
ひとつ大きな揺れがあった。ルークの肩が私の腕に弱くぶつかる。互いに相手を見る。
ルークが瞬きをする。
「……今日そっちで寝ていいか」
訊ねられる。私は僅かに首を傾げ、子供の表情を見た。意を決したかのような真剣な様子に思わず目が細まるのを感じる。彼は必ず確認を怠らない。別に突如として現れても構わないのだが。私は常套句を口にする。
「どうぞ、お好きなように」

ガイとの稽古は不定期に続けている。何か起これば連絡するよう伝えているが、初めての稽古日に熱を出してからは、常備薬として持たせた薬を使うような事は現在まで起こっていない。ルークは楽しそうにガイラルディア伯邸へと遊びに向かい、一泊して戻ってくるのがお決まりの流れだ。今はそれにミュウも同行するようになっている。
「ご迷惑をおかけしないように」
「だーから、ガキ扱いすんなっての」
「ボクが見てるですの!」
「うざいこと言ってんじゃねぇ!」
初めは騒がしいやり取りに驚いていた御者も、何度か遭遇すれば見慣れたらしい。押し込まれるように一人と一匹が乗り込み、ドアの閉まる音が聞こえて、ややあって馬が走り始める。ガイの邸は私の邸から少々距離がある。その間もずっとあの子供らは騒いでいるのだろうかと少々呆れながら玄関から中に戻った。
「旦那様。ご出勤のご用意が整っております」
「ええ」
オービルが広げるコートに袖を通す。もう一台馬車が到着する音がした。ルークがガイの家に泊まる日は私が残業する日でもあった。オービルも概ね把握しているだろう。書類を手に外へ出た。鉄製のステップを上がり、座席に身を沈めれば、オービルによってドアが閉められる。中から御者へとノックする。ゆっくりと馬車は動き出した。

「最近調子が良さそうだな」
ペンを片手に、雑談のようにピオニーが話しかけてきた。国王の執務室だ。私の持ってきた重要書類に必要な国主手ずからのサインを止めてまで、ペンについた飾り羽の先を私に向けて振ってみせる。
「ありがたくもいつも通りですが」
「やっぱり愛はいいなぁ、愛は。ずるいな、一人だけ若返ったみたいだぞ。まぁ元から老けが分かりづらい面してるんだが」
「お褒めに預かり光栄です。産みの両親に感謝せねばなりませんね」
「言葉の鋭利さが減ったのは加点と減点だな。お前が厳しくしてくれないと俺が手を抜いてやれないだろう」
勝手なことを言ってくれる。肩を竦めて次の書類を差し出す。ピオニーは伸びをして頬杖をつき、とうとうペン立てに羽ペンを戻してしまった。
「陛下」
「ノヴァと結婚できる法律でも作るか?」
肩を伸ばしながら訊ねてくる幼馴染に溜息をつき、羽ペンにインクを含ませ問答無用で差し出す。
「余計なことはしていただかなくて結構とお話ししたはずです。その書類もさっさと終わらせてください。いくらでも次がありますので」

ルークが育てている花の芽が出ていた。
それは私が気づいたことではなく、ある朝子供が日課となった庭の様子見から慌てて戻って知ったことだった。
「芽が出てる!」
サプライズというものが下手らしい。事実をあっさりと告げて、私に手招きするから、朝食途中のところを仕方なしに立ち上がり子供が先導する中庭へと向かう。
柔らかな土を押し返すように小さな芽がぽつぽつと現れていた。朝と夕に確認をしているルークが今見つけたのだから朝芽吹いたのだろう。
「順調なようですね」
「すげー。ほんとに芽が出るんだな……」
「ここから先、枯らすことがないよう慎重に育てなさい」
「うん。……なあ、触ったらまずいかな」
訊ねられて肩を竦める。若芽に触れたいという感情が湧いたことが無いので私も知らない事だった。
「あまりお勧めはしませんが、少々ならば問題無いのでは」
無責任に言えば、子供は屈んでまじまじと見つめ、そっと指先だけで生まれたばかりの芽に触れる。まだ硬さの弱い葉が小さくしなる。
「柔らかいな」
「あまり力を込めると折れますよ」
「分かってる」
私を見上げてルークが笑う。日々常々、何が彼をこうも喜ばせているのか、あまり私が理解できていない節がある。彼は些細なことで喜ぶ。その切っ掛けがあらゆる事象に渡っているから、そしてその度に私に笑ってみせるから、そうやって彼が喜んでいるのならばそれでいいかと思っている。理由もきっとささやかなことなのだろう。彼が幸福だというのなら私はそれで構わなかった。

「おや」
執務室に入ると部下が内装の花瓶を整えているところだった。水を変えたのだろう、それに合わせて枯れかけていた数本を新しいものに差し替えている。その花が、今ちょうどルークの育てている種類であったためか、思わず目に留まりそして部下を見た。日頃の行いによるのだろう。その行為が何か私の気に障ったと受け取ったらしい部下は慌てて花瓶の世話を片付け始める。
「しっ、失礼しました! 他の部屋も回っていたので時間がかかってしまい」
「いえ、作業環境の景観を整えてくださるのは良い事です。慌てず職務を全うしなさい」
持ち込んだ書類をデスクに置き、必要な資料を本棚から取り出す。その間部下は時間が止まったように動かなかったが、ようやく呼吸を取り戻したように敬礼と返事を行い、花瓶を整え終えると、深々と礼をして去っていった。思えばこの部屋にも装飾はあり、それを世話している者がいるのだった。無視をしていたわけではない。ただ興味が無かっただけだ。そういった些細な事に意識が向くようになったのは私の心境の変化が影響しているのかもしれない。
赤い色の花がみずみずしく咲いている。こうして眺めている様子を、ピオニーに見られれば揶揄われるであろうし、ルークに見られれば庭の手入れを張り切るだろう。息をついて書類を開く。今日は定時で帰ることにした。