BD910

世界に生まれる

22

目が覚めるとまだ日は昇っていなかった。瞬時には状況を思い出せず、隣に眠るルークを見て、ようやく昨晩のことが現実味を帯びてくる。
彼は仰向けになっており、シーツがその呼吸に合わせて上下している。私はサイドボードから眼鏡を取り上げると、なるべく静かにベッドを降り、昨晩やり残した資料を捲るが、刹那逡巡して手を付けるのをやめた。どうせここで広げても捗らないだろう。眼鏡を押し上げる。
起き上がった時。ベッドから降りる時。ルークも目を覚ますかと思ったが、寝息は健やかだった。ベッド端に腰を下ろす。眠る子供の前髪を払い、額に手を添える。ここのところ体調を崩している兆しはなかった。オービルからの報告にもない。瞑られたままの瞼、右目のそれに指を弱くあてる。彼は限られた視界に慣れたのだろうか。
ルークが。私の内に潜むものにゆっくりと沈んできているのを感じている。それが良いことかどうかは分からない。私は、自分自身がどうあれと願っているか分からなくなっている。
起こそうかとも思った。だがまだ早朝にもならない時間である。眠らせておいて問題ないだろうと身支度を整え、書類を片手に部屋を出る。応接室へ向かいがてら、現れたオービルに私の部屋にルークが寝ている旨と、応接室に紅茶を持ってくるよう伝える。一人掛けへと座りながらローテーブルへと二冊の草稿を置いた。息をつき、一つ目の書類に手をつける。

「よお旦那」
軍事施設内を歩いていると聞き覚えのある声に呼び止められた。見なくとも分かる。振り返れば丸めた設計書らしいものを持ったガイがこちらに片手を上げていた。
音機関でなくとも彼の興味はくすぐられるらしく、ピオニーに酷使されながら新規設立である機関部門にも自ら携わっている。彼の知識の元は独学だが、着眼点が各専門に偏っている技術者たちよりも鋭いと言っていたのはシェリダンの技師たちだっただろうか。
「今日はこちらの仕事ですか」
「陛下の使いが一段落したからな。水力式の方は上手くいったらしいじゃないか。試運転に間に合わなくて残念だよ」
手にした設計書を持ち上げながら笑う。先日の試験を受けて新しく調整されたものだろう。これから嬉々として詳細を確認するのだろうか。何がそんなに面白いのか、私にはさっぱり分からないが、新しい観点からの意見がもらえること自体は純粋にありがたかった。
「これから鼻垂れの独房にでも行くのですか」
「独房って……まあ似たようなもんか。今行ってきたところだよ。確かに癖は強いが、そこまで邪見に扱わなくてもいいんじゃないか」
「あなたのような方がいるので私のような役割が必要なのですよ」
歩きながら話し始める。ガイが私の執務室の方へ訪れるのは珍しい事だった。
「ところで、こちらに用事でも?」
「こちらっていうか、旦那にちょっと用事でな」
「ピオニーの言付けなら不要ですよ」
「はは……、別の話さ。良かったらこれから少し時間貰えないか」
それこそ珍しい事だった。揃ってピオニーに酷使されているというのもあるが、お互いにそれほど相手への用事が生まれることがない。だが今となっては心当たりはあった。「では私の執務室へ」と告げれば、朗らかに頷き私についてくる。きっとも何もなくルークの事だろう。彼と私に共通する話題などそれほど多くはない。
最近この部屋に人が訪れる事が増えたと思う。何のための執務室だろうか。今まではピオニーが寝るためだけに存在していたソファセットがこうも役割を果たしている。座るよう勧めるとガイは遠慮なく腰を下ろした。抱えていた書類を傍らに置く。
「この前エンゲーブに行っただろう」
「ええ。あなたにも休暇を取っていただいて感謝していますよ」
「それはいいんだ。俺も休みは余ってたから。……その時にな、ルークに一つ相談されたんだが」
向かいに座った私をガイが正面から見据えてくる。その目の色が、私を探るときのピオニーのような光を持っている気がして思わず少し笑ってしまう。
「相談と」
「なんでも最近、気になる奴ができたんだと」
随分可愛らしい表現をされたものだと思う。自負ではなく明確にそれは私の話だろう。子供は私につけ込まれて心を揺さぶられている。そういえば今日の朝、目覚めて自分の部屋ではないことに驚きはしなかっただろうか。
「なるほど」
「ただ、前に好きだった相手がいて、その相手については今はもう友人に戻っちまったらしいが、好きだって気持ちを諦めて日も開かずに別のやつが気になってるのが不義なんじゃないかと感じてるらしくてな」
全て伏せているのにあらゆるものが筒抜けだった。私は薄く笑みを浮かべたままガイを見る。ガイも私を見ていた。彼の表情は笑ってはいないが、別段不快そうな様子も見受けられない。ナタリアは候補に上がらないだろう。アニスだと思うのならば、回りくどく隠さず訊ねてくるはずだ。ガイの問いに私は答えを出すべきなのだろうか。相談を受けたのは事実だろうが、確かにそういった内容であれば最後は本人の気持ちでしかない。
「おかしなところで真面目ですね」
「そういう奴なんだよ。珍しいことで悩んでるもんだと思ってな」
「色恋沙汰には疎そうですからね。それで、貴方はどんな助言をしたのですか」
訊ねる。ガイは後ろ頭を掻いた。そして改めて私を見る。
「本当にその相手が気になるんならいいんじゃないかって答えた」
彼らしい言葉だった。ガイはピオニーとは別の手段でルークを甘やかす。それは親のような兄弟のような近さでもって、子供を穏やかに喜ばせるだろう。私にはできない事だった。その役割は私ではないとも思っている。
「随分彼任せですね」
「こればっかりは本人次第さ。そうだろ?」
訊ねてくるのは私に答えを求めているのか。肩を竦めて見せれば、ガイは少しだけ苦笑いを浮かべた。
「ただ、俺はあいつが幸せであれと願ってるんだ」
ガイの言葉は静かに私の中に落ちていった。釘を刺されたと受け取ってもいいのだろう。そんなものを刺されたところでどうということはない。常にそうだ。私の中では全てが判然としている。それ以外の答えはあの子供の中にしか無い。

それから週末まで、ルークが私の部屋を訪ねてくることはなかった。朝や夜に顔を合わせる事はあっても、「いってらっしゃい」「おかえり」の言葉があっても、それ以上会話が発展することもなく、私が帰っても応接室に灯りがともっていることはなかった。それが普通であった筈なのに、どこか物足りなさを感じている自分に私は辟易して、家には仕事を持ち帰らず執務室での残業に勤しんだ。実際業務は常に忙しかった。
迎えた週末。定められた休みであって、私は仕事を持ち帰っていた。目を通しておきたい論文がいくつかあるのだ。目が覚め、私服ではあるが身支度をし、食事を摂ってから書類を片付けようと自室を出る。階段を下りてくる音がする。見れば、ルークと、その足元にはミュウがいる。
「おはよ」
「おはようございますですの!」
「おはようございます」
先を譲り、食堂へと向かう。平日ならば私はとうに出勤している時間で、朝、食事を共にするのは旅の頃や艦内であったことを除けば初めての事だった。
軽食を済ませる。立ち上がり、出て行こうとする私をルークの声が止めた。
「ジェイド」
振り返る。一人と一匹も食事を丁度終えたようだった。
「今日、休みだろ。ちょっといいか?」
最近感じる既視感だった。私は了承し、ミュウは部屋に戻るようルークに指示されている。大人しくそれにチーグルが従うと、ルークは立ち上がり私の隣に並んだ。彼の親友からエンゲーブでの相談事について話されたことは無論伝えていない。今、彼がちょっと話したいという内容とその相談事は無関係ではないのだろう。私はどこか、追い詰められている心地すらしていた。だが逃げる先はない。これは必要な対話だった。
「なあ、庭出ないか」
誘われて、あまり足を向けない自らの邸の中庭に向かう。応接室の窓から見えるその景観を整えている庭師は、どうやら今は中庭以外の植物を相手しているようだった。その場には私とルークしかいない。彼が何を話すのか、何故庭なのか、分からないが、先を歩く彼に付き従って私も進む。
すると、中庭の一角に何も植えられていない場所が現れた。応接室からは見えない位置だ。言ってしまえば空間の隅に当たる。そこに小さな立札があり、この季節に植え始めるだろう花の名前が、癖のある文字で手書きされていた。
「おや」
「デリックがここ貸してくれたんだ。種もくれて、そんなに興味があるなら育ててみるかって」
いつのまにか庭師まで絆されている。その事実がおかしくて笑いそうになるのを堪えた。ルークがその一角の前に屈みこむのを見て、隣に立つ。白い眼帯と緑色の目が私を見上げる。
「デリックも見てくれるらしいけど基本は俺に任せてくれるって」
「そうですか。水のやり過ぎで根腐れなどさせないように」
「同じこと言ってら。そんなにやらかしそうか、俺」
「さあ、どうでしょう。何でも初めて行う事は試行錯誤が必要でしょうから」
ルークが、自らが立てただろう小さな立札を指先でつついている。まだその区画は柔らかそうな土しか見えず、恐らくここ数日の内に植えたのだろうと知れる。芽は出るだろうか。育つだろうか。花は咲くか、種子まで生れば上出来だろう。両手をポケットに入れて、土の表面を眺めるルークを見下ろす。これを見せたかったのか。だがそれではミュウを部屋に戻した理由にはならない。
「なあ」
「はい」
「俺がジェイドの事好きだって言ったら、信じるか?」
風が吹く。目の前に在る朱色の髪が揺れる。私はルークが、言葉を告げてから私を見上げる様子を見つめた。問われたことは想定できていたことで、ただ言われた言葉が予想外だった。
「信じるかと言われれば、信じられないというのが答えになりますね」
「……俺が言うのは信じられない?」
「いいえ。信じられない理由は私自身にあるでしょう。私はあなたにそういった感情を向けられてもよいことをしてきていませんから」
両手をポケットに入れたまま、ルークが植えた種子があるだろう区画を見下ろす。これからこの子供が世話をするのだという。立札に書かれた花の名前はそれほど咲かせるのが難しい物ではない。それでも、この子供が上手くやれるだろうかという気持ちはある。これも彼を信じられていないということになるのだろうか。
「今まで、……旅をしてきたころからずっと、助けてくれてたのにか」
「それとこれとは少々話が違ってきます。助力することで得られる好意は、私の中では詮無き事です。あなたはそれだけが理由で私を好きになったのですか」
「……」
ルークの目が土へと向けられる。グランコクマの涼しい季節だ。隣に生えた常緑樹の木陰に入っている私達二人に髪を揺らす程度の風が吹く。
「自分のことを好きだって言ってくれた相手が気になるようになるのって、ずるいのかな」
質問が変わる。私は眼鏡を押し上げ、再びポケットへと手を仕舞う。
「それはどうでしょう。好意を与えられて相手への印象が変わることはそれほどあり得ないことではないのでは」
「じゃあ、なら……。なんかジェイドと話してると、簡単だと思ってた話がだんだん難しくなるんだよな」
それは私が意図してそう誘導しているからだ。未だに私は彼の明確な答えを避けようとしている。煙に巻き、気のせいだと囁いて、この内腑に溜まる毒がこれ以上回らないよう引きはがそうとしてしまう。これは生まれ持った性質なのだろう。ひねくれている、と称されても言い返せないような悪癖だ。
「難しいですか」
「難しい。ジェイドが俺を好きで、俺もジェイドが好きで、ただそれだけのことだと思ったのに」
彼の導き出した答えは恐ろしく最短距離にある一つだった。私は再び彼を見下ろし、そのつむじから伸びるくせ毛が風に揺れるのを眺める。
「あなたの気持ちと私の気持ちが同じかどうか、分かりませんから」
「……?」
「あなたはガイも好きでしょう」
「……うん」
「アッシュも、旅の仲間やファブレ御夫妻も。それぞれに向ける好意と、私に向かう好意と、それらの何が違うのかがはっきりしないことには何とも言えません」
彼の感情は成熟していない。青いまま熟れるのを待っている状態だ。
きっと私の持つ愛は重い。彼に渡すのを躊躇するほどに。
「分かってる」
突き付けられたのは明確な言葉だった。ルークが私を見る。緑色と目が合う。執務室で詰め寄られた時のことを思い出す。
彼はあれからずっと、考えているのだろうか。私の言葉を。私からの感情を。
ルークが立ち上がった。私の隣に立ち並ぶ。真剣な表情で、私をまっすぐ射殺すように、見つめてくる。私は彼の感情を探る。そうだった、いつであれ、悩み、怯え、それでも彼は決断することが出来るのだ。己がどうするか。何を望むか。私は一度だけ、意識して緩慢な瞬きをした。ルークはひとつ呼吸を置いて、再び口を開く。
「みんなのことは好きだ。だけど、ジェイドに感じてるのとは違うって、分かる」
「……そうですか」
沈黙が降りる。息苦しさは感じなかった。お互いに、目をそらさず、ただ言葉だけが出てこない。
「……俺がジェイドを好きだと迷惑か?」
何故そう思考が行きつくのか。訊ねてみたかったがそれも的外れだろう。肩を竦める。
「もしそう受け取られているのなら、私は改めてあなたに告白せねばなりませんが」
「……そっか。そうだな」
また沈黙だ。私と彼は黙しても目だけはお互いを見ていた。
私は、どうしてこんな状況になったかを考えている。だがそんなことは無駄だった。彼がこの世界に再び現れてから、私の中で押し殺したはずの感情が向かう先を改めて見つけてしまったのだから、遅かれ早かれこんな居た堪れない空気に晒されることは予想していなかったと言えば嘘になる。ただ、ここに辿り着くまでに何度も分岐路は目の前に敷かれていた。それを誘導してきたのは私自身だ。私がこの未来を望んだ。そしてその未来の先に、ルークが今、彼自身の意思で立とうとしている。
一言。信じると告げればすべては収まるのだろう。それでも最後まで私の愚かな理性が歯止めをかける。彼が行き着くだろう他の幸せのことを考えてしまう。まだ見える、別の分岐路の先を予想してしまう。私はきっと彼を不幸にすることもあるだろう。悲しいかな、容易に想像がついた。そう思えば、別の道を指し示したくなるのだ。この期に及んでまだ第三者であろうとする自分が滑稽だった。
「俺、ジェイドに好きだって言って貰えて嬉しかった」
「……」
「ジェイドは俺がジェイドのこと好きだと嬉しいか?」
とどめだ。もう逃げ場は無い。誘導しているのは私だと思っていた。だがルークが、たどたどしく青い言葉で、私が思い浮かべる他の分岐路を閉じようとしている。彼自身と私の道を繋ごうとしている。
私は。
「……ええ、嬉しいですよ」
負けを認めることにした。もう他に何も思いつかない。この言葉以外。この感情の向かう先。彼が立つその道筋に歩を進めるしかない。差し出された手を取るしかない。
「じゃあ、もうそれでいいんじゃねぇの」
「……そうでしょうか」
「ジェイドはさ、俺と違って頭いいから、色々考えてるんだろうけど」
「ええ」
「嬉しいとか、そういう理由で、どうするか決めてもいいんじゃないか」
彼に諭されてしまった。まったくその通りなのだから言葉が出ない。私が認めればそれまでだった。私が彼を好きで、彼が私を好きだという。ただそれだけだ。他にぐだぐだと蛇足したところで時間の無駄だろう。この感情が変わることはきっとこの先無いのだから。
隣に立つ彼に手を伸ばす。親指で頬を撫で、指の背で彼の輪郭をなぞる。ルークは少しだけ目を瞑った。そしてゆっくりと開き、私を見つめる。
互いに無言のまま、顔だけが近づいた。半歩彼に寄る。そうしないと彼の身長では届かないのだ。
目を瞑り唇を重ねる。子供が身を硬直させているのが分かる。僅かに離し、もう一度重ねた。稚拙な行為だ。ただそれだけで良かった。
私が顔を離し、触れていた手を解くと、ようやく固く瞑られていたルークの片目が開く。頬が紅潮している。恐らく初めての経験だろう。視線が揺れ、しかし最後には私を見つめてくる。その奥に熱を見た。恐らく彼も、私の目に同じものを見ている。
「……ジェイド」
「なんでしょう」
ひどく近い距離でなければ聞こえないような声量だった。私が下ろした手を、ルークの指が緩く捕まえる。
「も、……もう一回……」
言葉尻は呼気に消えて聞こえなかった。私は彼の顎を掬い上げる。僅かにでも笑ってしまったのは伝わっているだろう。私はもう一度目を瞑った。

彼が帰ってきたケテルブルクで、彼の肩を抱いた時は互いにどうすればよいか分からなかった。
唇は離れ、ただ体の前面が重なる。ルークの腕が背に回るのを感じる。私は腕の中にある体を抱きしめ、微かに目の前のこめかみに唇を押し付ける。
彼を好いたことを伝えるつもりはなかった。態度を変容させるつもりはなかった。感情を介入させる気はなかった。その全ては破られ、私は変えられてしまった。このたった一人の存在に。腕の中で収まりの良い位置を見つけて、静かに身を寄せてくるこの温度に。
ルークの方へと首を傾ける。それに応えるように、ルークの頭が私の肩に乗せられて、背中に回された腕には力が込められた。この先私は彼を悲しませずにいられるだろうか。分からないが、今はただここにある存在が自分には必要なのだと思える。私も腕に僅かばかり力を込める。触れている体、胸のあたりで、思わずというように笑う声があった。