BD910

世界に生まれる

21

二日の休みを取ることは初めてではなかった。ただ、タイミングは悪かったと見える。私の承認を待つ書類の山が想像より一つ多くデスクに乗せられていた。その光景を眺めながらドアを閉め、執務室を見渡し、留守中にどうやらピオニーは現れなかったらしいと確認する。
そも部屋の主がいないのに訪れる事があることが問題なのだが。執務からの逃げ先として真っ先に調べられるだろう私の部屋に来てどうするというのか。
並べられた書類を一つ一つ手に取り優先順位を決めていく。期日が近い物、サインで終わるもの、意見を求められるもの。デスクに座り、広げながら選別し、まとめ直して一息つく。流し読みしただけだが少々重めのものも混ざっているようだった。こめかみに指をあてて僅かに逡巡する。そして立ち上がり、執務室を出た。書類仕事をするには紅茶がポットで必要だろう。

その日の午前には軽微な書類を早々に片づけた。外で待機する部下に渡し、残りの山の切り崩しにかかる。午後に回したものは重めの内容が多く、少々厄介で、書き始めに丁度万年筆のインクが切れたのも私が眉を顰める原因になった。補充されたものと取り換えようとした時、ドアがノックされる。思わずそちらを一瞥する。現れる相手によっては多忙を理由に追い返してしまうかもしれない。
「どうぞ」
一先ず入室を許可すると、ドアが音高々と開かれる。現れたのはピオニーだった。追い返すにも難しい相手が正面から来てしまった。こんなにも国主とは暇だっただろうか。
「ようジェイド。休みはどうだった」
「用件をお伺いするのはドアを閉めてからです。部下が困っているでしょう」
国王を止められなかった負い目か、間近で見た事への畏怖か。青ざめた顔をしている部下が、ピオニーが閉めるドア越しに見えなくなる。
私が勧めずとも我らが王はソファに深く腰掛け、無視をして職務を続ける私に同じ質問を投げかけた。
「チーグルの森に行ったんだろう。ガイラルディアから聞いたぞ」
「では私からお話しすることは無いのでは」
「なに、それとは別の話をしようと思ってな。実はルークにライセンスを発行するのはどうかと思っているんだが」
瞬きをする。ライセンス。一つ思い当たることがあったが、まさかと思い素知らぬふりをする。
「既に発行済みですが」
「それはノヴァの身分証明書だろう。ここの施設に出入りするライセンスだよ」
「……正気を疑うことをおっしゃらないでください」
目を眇めて応えてしまう。この施設は軍事に関わるものだ。先日やそれ以前に、ルークが私の執務室がある奥のエリアまで来ることができたのはピオニーや私が同伴していたからだ。基本的にはライセンスを持たない人間を入れても良い場所では到底ない。機密情報があちらこちらにあるのだから。
「あいつもガイの邸にしか行き先がないんなら暇だろう。ここに来る自由ぐらい与えてやったらどうだ。何か手伝えることくらいあるだろう」
「甘やかしも大概になさってください。それに彼がここに来たところで仕事の効率が上がることはありませんよ」
「お? そうなのか?」
にやりと。いやな笑い方をして肘置きに頬杖をつく。私は文章を書くのを諦めて、一旦手に持っていた万年筆をデスクへと置いた。
「貴方はこの施設の主ですし、ここに訪れる事で書類の承認が早まることはあるでしょう。訪れる理由がない場合が多いとしても有益なことはまま起こり得ます。ですが彼がここに居ることで有益になることはほぼありません。まさか、お茶汲みや本棚の整理なんぞに駆り出すわけでもないでしょう」
「いいんじゃないか? あいつも暇な時間の方が多いだろうし」
「結構です。秘書や副官は既に居りますので」
「手厳しいな」
頭の後ろに両手を当て、背を伸ばしながらピオニーが言う。実際、もし自由に行き来が出来るようになったとして、例えば重要な機密情報を盗むようなことなど子供はしないだろう。だがどこで耳に入るか分からない。目に映るかわからない。それに、今は私の保護下に入っていると言っても、公に見れば敵国重鎮のノヴァである。不要な疑いをかけられるような権利を与える必要は無い。
「過ぎた物を与えるのは止してください」
「過ぎた物ね」
「貴方が彼を気に入っているのは知っています。ですが今の情勢と状況を鑑みてください。旅をしていた時分とは異なるのですよ」
再びピオニーが頬杖をつく。私はその目がまだ笑っているのがどこか不愉快だった。
「お前とルークの状況も変わったしな」
結局この話に戻ってくるのだ。僅かに目を細め、小さく溜息をつく。
「まだ審査が通っておりませんので事実上の保護者ではありますが」
「手続きは何でも遅いな。それに保護者と保護される側ってだけじゃないだろ」
いつ、どこから見ているのか。私の言葉を深読みする術をこの男は身に着けていて、そんな幼馴染に空恐ろしさを感じるときがある。そしてガイと違うのはそれについて詫びれもせず訊ねてくることだ。賢い伯爵ならばこんな下世話なことはしてこないのだが。
「あいつなりの答えは出たのか?」
「何を訊ねているかの肝要な部分が抜けているように聞こえますが」
「お前の告白に何て答えたのかって聞いてんだよ」
まるで若者同士の他愛無い話のような。四十路の二人でする話題ではないと、思わずそれに笑ってしまう。ピオニーは私の反応が予想外だったらしく、少し驚いたように目を見開いた。
「失礼。あまりにストレートな質問でしたので」
「お前がそう訊けって言ったんだろう。で? どうだったんだ」
「下世話な話は職場でしないことにしております」
にっこりと。笑って見せればピオニーは呆れたように肩を竦めた。いよいよもって、無視を決め込んで万年筆を手に取る。ロニール雪山に設置予定の機関に関する説明文書。土地管理者に向けた対応にも使われる書類のため不備が無いかを改めて確認しなければならない。
私がこれ以上話すつもりがないことを認めたピオニーは、ソファに横になり退屈そうに欠伸をした。堂々たるサボタージュだ。しかしこの部屋にわざわざ眠りに来るときは普段より疲労を自覚していることが多い。暫く放置して、程よいタイミングで外の警備に引き渡せば問題無いだろう。それが先か、ピオニーを引き取りに部下が現れるのが先か。どちらでも構わなかった。説明文書の草案にペンを走らせる。

その日は遅い残業となった。書類作業の合間の会議と、明日の午前までには差し戻すべき作業を終わらせていれば夜は更けていた。ポットは二度空になり、食事は軽い物しか摂れなかったが、予定していた分量は終えられたので全体で見れば良しと言える。
馬車から降り、ドアを潜れば、その先の応接室のドアが細く開いている。明かりがついているようだった。来客があるという連絡は受けておらず、オービルを見るが、コートを受け取った執事は何も言わずただ応接室のドアへと私を案内する。それで概ねの事が読めた。
中に入れば、いつかと同じくそこにはルークが居た。ただしいつかと異なるのは、長椅子に横になり丸まって寝ているということだった。手元には読んでいただろう園芸の本があり、その腕の下、腹部のあたりでミュウも寝入っている。どういうことだろうか。一人と一匹にブランケットがかけられているのを眺めてからオービルを振り返る。
「旦那様のお帰りをお待ちでしたが、その間にお休みになられました」
小声で伝えられたそれが全てだろう。溜息をつき、長椅子の背の方から体を屈めてルークの肩を揺する。オービルは静かに出て行った。白い眼帯をつけた子供が、僅かに呻き、片目だけをゆっくりと開けていく。
「ルーク」
名を呼ぶ。緑の目が細く瞬きし、視線を彷徨わせた後、私を見つけて大きく目を見開いた。
「……ジェイド。……あれ、俺寝てたのか」
「完全に横になっていましたよ。眠るのなら自室に戻りなさい」
「ああ……」
欠伸をする。体を起こし、目を擦りながら、閉じられた本へと視線が移る。そしてしおりが挟まっているのを確認すると、あ、と短く声を出して、私へと緩慢に振り返った。
「おかえり、ジェイド」
この言葉に慣れる日はいつか来るのだろうか。思わず眉間に皺が寄るのを感じる。なんと答えればいいのか分からない。否、分かってはいるが、それを口にするには少々精神的に憚られるところがある。
「ええ。丁度戻ったところですよ。そんなことよりここで寝ては風邪をひきます」
「うん、そうだな……おいミュウ、部屋戻るぞ」
「みゅ、……」
かけられていたブランケットを畳み、ソファの端にかけながら、ルークは目が覚めないらしいチーグルの小さな体を仕方なさそうに小脇に抱える。まるでそれが幼子が玩具を抱える仕草のようで、「まるでぬいぐるみのようですね」と茶化すが、睡魔でぼうっとしているのか、揶揄いが通じなかったらしいルークは「寝相悪ぃぬいぐるみだよ」とぼやいて、本とまとめて持つと応接室をふらふら出て行った。一つの視界となった彼に二階の部屋を与えたのは良くなかっただろうか。しかしあいにくと一階には私の部屋しか設えられていないのだ。子供に慣れてもらうしかないだろう。密かにオービルが後を追ったのを見る。
ルークが無事上りきった足音を聞き、私は自室へと向かう。持ち帰った書類があった。これも終わらせてしまいたいのだ。
シャワーを浴び、寝支度を整えながら書き物机に書類を広げる。草稿のチェックを二件程度、やり終える時間はまだ残っているだろう。
そこでドアがノックされる。オービルの音ではない。既視感を感じながら、私は立ち上がり敢えて自らドアを開けた。
「……っお」
「どうしましたか」
予想通りの客人だった。返事をされるものと予想していたらしいルークが一歩後ずさる。廊下の譜業灯に朱色の髪が照らされていた。先ほどよりも意識は覚醒しているらしく、明確に用件があって私の部屋に訪れたらしいと悟る。
「あ……その、寝る前に悪い」
「いえ、もう少し起きているつもりでしたので。何かご用ですか」
再び訊ねる。ルークは後ろ頭を掻いて、ああ、と短く問いに答える。
「あのさ、ちょっと頼みたいことがあって」
「……そうですか。一先ず中に入りなさい」
「ああ」
どうやら立ち話では終わらない内容らしい。ドアを閉め、書き物机の書類が閉じられているのを目だけで確認し、以前と同じくルークをベッドへと座らせる。私は彼の左隣に座った。ルークが私へと体を向けてくる。
「あー、……っと」
言い淀む。行動力はあるのだが如何せん決定力に欠ける。これは草稿を見る時間は無くなるだろうかと思いながらルークが口を開くのを待つ。
「嫌なら嫌でいいんだけど」
「何がでしょう」
「その、……今日一緒に寝てもいいか?」
沈黙。
してしまった。こういった場合、応対に間を開けるのは良くないと分かっているのだが。相変わらず私の読めない行動をとってくる彼なのだから、この程度の思考停止は致し方ないのかもしれない。
「……失礼。もう一度伺っても?」
「えっ」
「正直予想だにしないことだったので聞き間違いかと」
「聞き間違いじゃねぇって。……だから、今日ここで寝させてほしいんだけど」
その言葉の後、しばらくの間私もルークも黙ってしまった。何故、と問えばよいのだと分かっている。だが今告げられたことへの現実味が薄く、彼が何のためにそう言ってきたのかが本当に理解しがたかった。ここで眠らせてほしいという。今さっき戻った自室があるだろうに。
「それほどミュウの寝相が悪いんですか」
「なっ、違ぇって。別にあいつがどうとかじゃなくて」
「では何故ですか」
ようやく訊ねる事ができる。私は自分が動揺しているのだと知った。なるほど、これは思考があまり広がらず意識が朦朧とする気さえする。彼は自分が何を言っているか分かっているのだろうか?
「……ジェイドに」
視線を外し、言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「好きだって言われて、色々考えたんだ。俺のどこがとか、何でだろうとか。でも全然分からなくて」
指先をこすり合わせながらルークが言う。落ち着かないのだろう。私が私の感情を伝えてからむこう、ルークはその時を不意に思い出すのか、私を目にしては落ち着きのない素振りを見せることが増えている。
ルークがこの世に生まれて、旅の頃を含めても八年ほどか。その程度の人生経験で、恋慕や愛情を理解し切るには些か気が早いだろう。ティアが最初で最後だったのではないか。そんな中、自らが知らぬうちに四年経った世界に生まれなおし、旅の頃には苦手としていただろう私からそんな情を明らかに向けられたところで混乱しか与えられていないのではないか。
「だから……」
「私に直接訊ねようと?」
「……うん、まあ」
そしてそれを理解しようと努める子供は、私に至極自然に随分な試練を与えようとしている。
改めて、内腑の奥に溜まってしまった情という名の毒を、ルークに見せてしまったことを後悔し始めている。何も言わなければよかった。そうすれば彼はほんの僅かな罪悪感だけで私を上手く利用できただろうし、私は私でこんな質問を浴びせられずに済んだだろうに。
「それがどうして一緒に寝ることになるんですか」
「お前すげぇ忙しそうだから」
「まあ、そうですね。至って多忙です」
「だから、ジェイドも疲れてるだろうから、寝落ちするまでの時間だけ貰おうと思って」
どういった気の回し方だろうか。自分を好きだと口にした相手の部屋にのこのことやってくるような警戒心の薄さは、ガイの教育の賜物だろうか。もしくは旅の仲間だったという感覚がそういった警戒を麻痺させているのかもしれない。もしそうなら、やはりこの子供は私の言葉の意味を理解できていない。
つまるところ何かしら話したいというのが私の部屋に訪れた主だった理由なのだろう。果たして今のやりとりを聞かずに、一緒に寝に来たと情を告白した相手に言われた世間一般におけるその後の自然な流れがどういったものになるか、誰か彼に教えてほしかった。それを知る機会は恐らく失われていて、これも私が教育するというのだろうか。保護者とはそういう立ち回りも求められるのか。
旅の頃、ベッドが足りなければ大概はガイが自ら譲り、ソファや長椅子を使っていた。時折仮眠と称して早々に起き、書類仕事を抱えた私と交代でベッドを使っていたことをルークは知っているだろうか。お陰で女性陣のように同じベッドに二人で眠るという事態は避けられていた。そう、旅の時にも無かった状況だ。
「嫌ならいいんだ。仕事から帰って疲れてるだろうし、知りたいのって俺の我儘だし……」
様々なことが頭を過っている私の様子にルークが慌てて両手を振る。そういった気遣いはできるというのに、別の方向には気が回らないらしい。仕方がないと言えばいいのか。これが地であるのだから末恐ろしい相手に情を与えてしまったと思う。
「構いませんよ」
「え」
私は草稿を読むのを諦めることにした。そして、自らに課したことのない試練を請けさせることにする。
「もう寝る準備は出来ているのですか?」
このベッドが少々狭いのだと初めて感じた。
互いに微妙な距離を取っている。当然のことだろう。並んで仰向けになり天井を見上げている今の状況が滑稽にすら思える。
私がサイドボードに眼鏡を置くのを見て、思い出したようにルークは眼帯を外した。けれど一人用のベッドのサイドボードは片側にしかなく、私が受け取り眼鏡の横に並べた。不思議な感覚だった。私は今どんな表情をしているだろうか。きっとこの話をすればピオニーは大喜びで笑うだろう。
「……なあ」
「ええ」
彼が望んでいるのは対話だった。それは私が最も不得意とするものだ。恐らく私の言葉は彼に正しく伝わらない。私自身が正しく伝わらず、表面だけを感じ取られればよいと考えているせいもある。
「あのさ」
「はい」
「……なんで俺の事好きなんだ?」
単刀直入にも程があるだろう。だがそれが根本の問いなのだから、これ以上の言い回しを子供が知らないだけだと思うことにする。そうでなければ耐えられない。笑ってしまいそうになるのを堪え、天井を見上げたまま一つ呼吸を置く。
「さあ、何故でしょう」
「……茶化すなよ」
「茶化していませんよ。私自身知りたいくらいです。貴方のような子供は正直苦手な部類ですし」
「……」
ルークが黙る。私も黙った。夜の四十万に二人分の呼吸の音だけが聞こえる。
口にしていることは事実だった。
「ですが、貴方は旅の中で随分と変わりました。……それに感化でもされたんでしょう、私も貴方を見る目が変わり、次第に次は何を起こすのかと目が離せなくなった」
「……それって面白半分なんじゃねぇの」
「始まりはそうかもしれません」
それがいつ頃かなどはっきりとは分からない。徐々に染まっていく感情に私は気づき、封をし、言動に現れないよう全てを飲み込んだ。それが毒のように己を蝕み、やがて表層にまで出てくるとは思わなかった。
この歳にもなって、自分が他人に熱を感じる事があるのかと思った。
「切っ掛けなど些細なことでしょう。貴方も人を好きになったことがあるのなら分かるのではないですか」
「……っ!」
ルークが体を起こす。彼は私の左側に寝ていた。彼の視界で私を捉えるにははっきりとこちらを向く必要がある。薄闇の中であって、ルークが赤面しているのは見えずとも知れた。
「お前、俺の日記読んだろ」
「必要な箇所だけとお伝えしたはずです。日記に何か書いていたのですか?」
とぼけた答えを返せば、墓穴を掘ったのだと思ったらしいルークが声にならない呻きをあげて、再びベッドに横になる。私に背を向けた格好で。
「おや、もう眠りますか」
「……まだ、寝ない」
「そうですか」
もぞもぞと、緩慢にルークが仰向けに戻るのをベッドの揺れで感じる。正直頭脳労働をした後なのだから、体を横にしては眠ってしまいそうだった。天井でも見上げて目を開けていないと目覚めは保てないと感覚で分かる。
「他に聞きたいことは」
ルークは、すぐには答えなかった。何か言いにくそうにしているのだと雰囲気で伝わる。訊ねたいが口にしづらいことなのだろう。段々瞼が重くなってきた。
「今までジェイドは好きになった人っているのか」
随分と間を開けて、訊ねられたのはそれだった。思わず沈みかけていた意識が一気に浮上する。そして堪えきれずに小さく笑った。その音とベッドの揺れに、「何だよ」、と不機嫌そうな声が寄越される。
「いえ。……かつていた、と言ったら貴方はどう思いますか」
また沈黙が降りる。なかなか進まない会話だと思った。話題のせいか。睡魔のせいか。どちらもであろうし、核としてはどちらも異なるのだろう。
「……それって、その、ネビリム先生って人か?」
子供の言葉はまっすぐに突き立てられた。私は、「ええ」と答えた自分の声が思いのほか落ち着いているのだと知った。
ただ、あの人に向けた情と、今感じているルークへの情が完全に同じかどうかは分からなかった。妹やピオニーに感じていた情とは異なっていたのは確かだった。憧れ、羨望、それに傲慢な自己評価。それらは今感じているものには何一つ当てはまらないとも言える。
「ですが、既にそれは別物ですよ。幼かった頃の感情と比べられるものではありません。そもそもあの人と貴方は違う存在ですし、あの頃の私と今の私もまた別の人間です」
「……なんだ、それ」
「今の私にとって彼女はもう過去の人物だということですよ」
もう遠い昔になってしまった。彼女のことを忘れたことは無いが、四六時中考えていた時期を思えばほんの僅か、過去の自分に影響を与えたという存在に収まってしまった。幼い日の稚い情。それが全てであり、その延長線上でしかない。
それにかつての私は私が立てた理論の証明を理由にきせ彼女の復活を企てていた。私は確かに歪んでいた。その考えはもう元の形が分からないまでになっている。
またルークが上半身を起こす。眠るつもりがないのだろうか。応接室での仮眠で目が冴えているのかもしれない。私は欠伸を噛み殺し、彼の気が済む前に日付が変わるだろうと思い始めている。
「俺のことは?」
小さな声だった。
薄闇に目が慣れてきていた。ルークは体をこちらへと向け、私を見下ろしていて、私は、彼が訊ねようとしているその核が見えた気がした。
「俺のことも、戻ってこなかったら、過去の人物ってのになってた?」
相変わらず私は彼を傷つけることに長けている。近頃は鳴りを潜めていたと思ったのだが。未だに自己評価が甘いのかもしれない。
私は、ルークと同じく上半身を起こし、彼の傍に並んだ。
二人して黙る。どちらから話し出せばいいのか、恐らくお互いに分かっていない。
「いずれはそうなっていたでしょう。……長くかかったかもしれませんが」
「……」
「三年前のタタル渓谷で、私はその予想が確定した未来になったと知りました。貴方ではない貴方が戻ったあの夜に」
今までに何度も思い出していた光景だった。白い花弁が闇に浮かぶような、幻想的な景色の中に現れた青年。彼が、剣を左利きに持っていたのに、その顔を見た途端に、私は私の理論の正確性を改めて呪ったのだった。
「同時に思い知りました。自分の理論が正しかったことよりも、その結果貴方が戻らなかったことの方が私の記憶に強く残ったことを。三人目のルークに私は何も言う事は出来なかった。貴方ではないルークは私が求めていた人ではありませんでしたから」
ルークがベッドの上で動く。膝を立て、いつかのケテルブルクで見たのと同じく、そこに腕を置き顔を突っ伏して動かなくなる。泣いているだろうか。何か逡巡しているのかもしれない。
「貴方を過去にするつもりだった私は嫌になりましたか」
訊ねる。きっとこの言葉は彼の胸に爪を立てると理解している。それでも、はっきりと言われた方が良かった。答えを出しきれず、向けられたことの無い熱と情を受けてぐらつく子供の心に私は取り入ろうとしている。それが彼にとって良い事ではないと分かっていて、尚。
「……」
「……」
「ジェイドだったら」
僅かにルークの顔がこちらを向く。薄闇が段々と明るく感じられている。それはあちらも同じようで、やがて子供が私を見るように再び体ごと動いたようだった。
「……ジェイドだったら、過去の人物になっても、俺のこと忘れないでいてくれたか」
言葉が出てこなかった。
何が彼をそうさせるのか。ルークが次に何を言うかなど分からなかった。こと、彼に私の感情を告白をしてから。
「さて、……どうでしょう。実際貴方は帰ってきていますから」
「……そうだな」
「ただ、忘却は人間に備わった防衛反応です。失くしたことばかり鮮明に覚えていては人は耐えられないでしょう。私は……」
不確定なことは言いたくなかった。やはり耳障りの良いだけの言葉は口にするのを憚ってしまう。
相手を慰めたいのならば、何も余計なことは考えず、そう言ってしまえばいいのに。私はつくづく人間でいるのが下手なのかもしれない。
「徐々に、忘れたでしょう。貴方の声や存在感。思い出すことはあるでしょうが、それは一度忘れていることと同じです。永遠には留めていられない。ただ」
「……うん」
「貴方を忘れていくことをひどく悲しんだと思います」
正しくただの慰めだった。安い同情の問答だ。こんな憶測、三文芝居で、実際近似なことを考えてはいるのにどこか言葉が口の中で滑る心地がした。気持ちがついていかない。まったく呆れてしまう。「そうだろうと思った」、なんて。馬鹿でも言えることだ。
私は私が望まない姿に変容していくのを感じていた。事実だけを伝えればよいのに、ルークに与えたい言葉を口にしてしまう。私は第三者的な目を持ち続けなければならないのに。私の感情が介入してくる。頭をもたげて生温く心臓を包まれる心地がする。要らぬことだ。その筈だった。
「……珍しいな、ジェイドが想像だけで話すなんて」
子供にまで見透かされては笑えもしないだろう。私は、彼に自分の中の毒を僅かにでも与えてしまったことを後悔し始めていた。告白などしなければよかった。いや、それすら浅はかな悔恨だ。もう堪えきれなかったのだ。近くに置けばいずれ毒は漏れていただろう。
ルークをバチカルに留まるよう画策すればよかったのか。どこか遠くで、勝手に幸せになるのを祈っていればよかったのか。もうそんな分岐路はとうに超えてしまっていて、こんな考えも無駄でしかない。無責任で独りよがりな願望だ。
「でも、想像だったとしても、そう考えてくれるのはなんか嬉しいな」
「……そうですか」
「そうだよ」
「貴方の傷心につけ込んでいるのかもしれませんよ」
「うん」
互いに上半身を相手へと向けていた。ベッドに座ったまま、二人でこんな夜中に話をしている。
不思議な感覚だった。まるでこの夜は明けないとさえ思えた。
「だから、そうやってつけ込んでまで、ジェイドが俺の事好きだって言ってくれたのはなんでなんだろうって考えてたんだ」
子供の問いは純粋で、難解で、ひどくシンプルなものだった。そんなもの、私ですら解を持っていない。何が答えになるのだろうか。彼はどんな言葉を聞きたいのだろうか。
私にそれを言う資格などあるのだろうか。彼という歪な存在を作り、それを自ら愛したなど、愚かな男でしかないではないか。
「つけ込めると思ったからですよ」
「そっか」
「私は上手く出来ましたか」
訊ねる。まるで子供のようだ。問いには必ず明確な答えがあると信じている幼子のような。ルークの右目が見える。彼からはきっと、今、私がよく見えていないだろう。
「……多分」
口ごもり、ルークが答える。恥を感じているようだった。僅かに私から顔をそむける。
「嫌悪感はありませんか」
「……ない。と、思う」
人を愛するという感覚を彼は既に知っている筈だった。私と同じく。過去の感情と照らし合わせればすぐに導き出せるはずだ。今感じているものが、それと同類か、異なるものか。
私はルークの首筋に触れた。びく、と肩が大げさに跳ねる。そしてすぐに顔が私へと向けられた。その反応は想定通りで、そのまま寝巻に薄く包まれた肩へと手を滑らせていく。
「ジェ、イド」
「人には急所に触れられることを警戒する本能があります。それを許せるのは警戒を解いた相手だけです。……ルーク」
「……何だよ」
「今、悪寒を感じていますか。それとも別の感情でしょうか」
訊ねる。恐らくここまでされると思っていなかっただろう。浅はかだ。だから子供なのだ。私自身、素手で他人に触れるのはほとんど好まない。パーソナルスペースは広い方だろう。それが、ここまで彼の侵入を許している。私はどこまで彼への侵入を許されるのだろうか。
「……分かんねぇ。でも、」
ルークの手が持ち上がる。そして恐る恐るといった様子で、指先が私の肩へと触れた。
「俺も、触ってみていいか」
不意打ちに触れた相手に許可を求めてくる。私よりも礼儀正しくて、思わず口角が上がってしまったのは誤算だった。
「お好きなように」
僅かに私より熱の高い掌が、私の髪を少し摘まみ、そろそろと首の後ろへと回される。同じく急所に触れられる。恐ろしいことなど何も無かった。
他人に触れられた記憶の無い場所だった。ピオニーに肩を抱かれることはあっても、パーソナルスペースなど無いような間柄に特別な感情もなく触れられるだけだ。私が基本的にそういった接触を嫌っているのだと分かっていてあの王も行っているきらいがある。だからすぐに解かれる。私が嫌悪を現わす前に。
ルークの手はじわりと熱を帯びて私の肌に触れている。私は目の前にある真面目な表情の子どもが愛しいと思えた。
「もう、髪伸ばさないのか」
「それほど気になるのならば伸ばしましょうか」
「うん。……うん」
私は再び彼のうなじへと手を当てた。今度はそれほど肩も揺れず、ただ、やはり平静を保てていない様子なのは確かだった。
この至近距離で。互いにこの姿勢で。それ以上顔を近づけようとはしなかった。彼にそんな気持ちがあるかは定かではなく、私は、定かではない子供の感情が読めずにそのまま動かずにいた。灯りも無く、ただ窓から入る月明かりだけがあって、ベッドの上で二人黙っている。
流石にこの雰囲気は読めているだろうと思う。それであって動かない私を怪訝に思っているかもしれない。それはただの願望でしかないが、それでも、彼の感情が明確でない間は私からこの先に進むのは正しくないだろう。
やがてルークの手が離れた。私の手は、それからややあってルークから離れた。彼の中の答えは段々と固まりつつあるようで、それでいてまだ確信が持てていないようでもあった。
「なあ」
「なんでしょう」
「今日、そっち向いて寝てもいいか」
許可を取る必要などない。そう思ったが、訊ねられたのだから答えは与えるべきなのだろう。
「構いませんよ」
どちらともなくベッドに横になる。ルークは宣言どおり、こちらに横向けた姿勢になっていた。見える側の左目が私を見つめている。私は、仰向けのまま、顔を少しだけ彼へと向けた。
「やっぱ髪長いほうがいいな」
眠気を纏った声が呟く。そうだろうか。私自身、どちらでも構わなかったから、ならば伸ばしてもいいだろうと思う。
しばらくもなくルークから寝息が聞こえていた。私を隣にして緊張しなくなっているのか、睡魔の力が勝ったのか。分からないが、エルドラントで別れたあの日、彼が四年越しに現れたあの日から比べれば、距離はひどく近くなったものだと感じられる。
私もすぐに微睡みが訪れた。考える事はまだ山とあって、世界に対してやらなければならないことは五万とある。それでも、今この夜が少しでも長く続けばいいと思えた。隣で静かに立てられる寝息を聞きながら、自分以外の誰かの熱を纏ったシーツの中、私はようやく目を閉じた。