BD910

世界に生まれる

2

「今は私と、私の邸の者が一人いるだけです」
裏口前で雪を落とす。先ほどの邂逅でルークの体に乗っていた雪はいくらか溶けているが、つむじのあたりに残っていた結晶を撫でてやる。驚いてこちらを振り返った顔に笑えば、恐らくそれが彼をからかうときにしていた表情であったらしく、やや不満げに自らの髪を撫でつけている。暖かな邸内に入る。
「お帰りなさいませ。旦那様、お連れ様」
帰宅の音に奥からバトラーのオービルが現れた。白髪混じりと低い声に伸びた背筋であって、初老に至ろうかという彼は厳格さが表情にも滲み出ており、明らさまにルークが驚いたのがわかった。オービルの目がルークへ向かい、すぐに私へと流れる。
「ただいま戻りました。お茶と、彼のサイズで服を一式応接間へ持ってきてください」
「かしこまりました」
二人分の防寒具を受け取り、コートハンガーへ掛け終えるとオービルは奥の部屋へと下がった。彼との付き合いは旅が始まる少し前からの数年間だが、要不要の判断は正しく、削ぎ落とした言葉のやり取りであっても補完し、無駄なことは尋ねない。よい執事だ。
「びっくりした。……あれがジェイドんとこの使用人か? つかここ人いたのかよ」
「ええ。オービルといいます。私的な秘書を兼ねていますから今回同行させました」
応接間へルークを入れ、暖炉の火がよくあたるソファへ座らせてやる。マントを取ったことで彼の細まった体躯が如実となった。単に痩せたのではなく筋肉が減っているらしい。半袖から伸びる腕の細さは痛ましさすらある。雪で濡れたブーツを脱がせ、ちょうど客間へと戻ったオービルから服の一式と、タオルを受け取った。
「どの程度の時間、花壇にいたのですか」
オービルが客間から出ていく。
「ジェイドがくる少し前かな。そんな待ってねぇよ」
「なぜあんな場所で待っていたんですか。その服装も、ケテルブルクを訪れるには些か軽装ではありませんか」
「それは、……ローレライに頼んだんだ」
ゆっくりと、珍しく言葉を選びながらルークが語る。私は彼の傍らに座り、口にされる次の句を待った。
「エルドラントで、みんなと別れてから……俺、アッシュを見つけたんだ。崩れてく地面から落ちてきて、たぶん……死んでた。俺はアッシュを抱えて、ゆっくり下におりていってた。そこにローレライが来て、俺の体から色んなものが、出て行って、それで、抱えてるアッシュに流れていくのがわかった。アッシュから俺に流れてきてるのもあった。難しいことは分かんねぇけど、なんとなく、これでいいんだ、これが正しいんだって分かった。
そこから眩しくて目の前が真っ白になった。何も見えなくなって、ただ、俺とアッシュは同じとこにいて、そこにローレライの気配もあった。俺たちがどんな風になってたかは……分からない。ごめん、でも本当に、アッシュとローレライと一緒にいたんだ。会話もできた。声を使ったわけじゃねぇけど。なんか、考えというか、向こうが思ったことが分かるというか。……あれはなんだったのかはやっぱりよく分かんねぇや。
それで、ローレライがアッシュを戻すって言った。世界に戻すって。その準備が出来たから、帰すって。俺は……ちゃんと覚悟してた。俺は消えるんだ。アッシュが戻るのが正しいんだって。でも……」
辿々しく語るルークはそこで言葉を詰まらせる。私は促すべきか逡巡し、今は黙る方が良いと判断した。受け取ったままのタオルを握り、まだ冷えが残るだろう薄着であることも忘れたように、やや前の虚空を見つめながらルークは何か言おうとしている。動かず、彼を急かすこともせず、幾ばくか待てば、ルークは乾いた唇をわずかに舐めてまた口を開く。
「俺は帰りたかった。まだ生きたかった。アッシュが帰れたのなら、俺も、もしかして帰れるのかな、ってローレライにきいたんだ。そしたら、少し足りないって言われた。アッシュに渡したから、俺から少し足りなくなってるって。……図々しいんだ。俺は、でも、帰りたかった。ローレライに駄目だって言って欲しかった。勝手なやつだよな。でも、足りなくても、出来るのかって俺はきいた。俺は、……くそっ……」
ルークが顔を覆う。後悔と恥が彼を苛んでいる。何故泣くのだろうか。生が目の前にあり、触れられると言われれば手を伸ばすのは生き物の性(さが)ではないのか。恥じることはなく、悔いる必要もない。そう思いながら彼を見るが、震える肩は私に触れられるのを拒絶しているようだった。
「あなたが、そう罵られたいのなら私が施して差しあげましょう。それに身勝手で傲慢なのは今に始まったことではありませんよ。ローレライにあなたは生きることを望んだ。そうしてどうなったんです」
「……ごめん、……うん。頼んだんだ。……俺も帰りたいって。でもアッシュからもう奪うのは駄目だ。これ以上アッシュに悪いことしちまうのは駄目だから。それで、足りなくていいから、俺も戻してほしいって頼んだんだ。ローレライは、少しかかるって言った。でもほんの少しだったよ。俺がぼうっとしてる間に、なんだか温かい感覚があって、ぼんやりしてたのが段々固まる感じがして。それで、整ったから俺を世界に下ろしてくれるって言ったんだ。
そしたら目が回る感覚がした。なんとなくもう下ろされてるって分かった。俺はローレライに、どこに下りるんだ、って聞いたけど、ローレライの声は聞こえなくて、ただ、ジェイドんとこかなって思ったんだ」
「それは何故です」
「なぜって……んなの分かんねぇよ。頭に浮かんだんだ。それでフワフワした感じがして、足が地面について、気がついたらこの邸の前に立ってた。めちゃくちゃ寒いんだもんな! 驚いて、ドアをノックしたんだけど、誰も出ねぇから、空き家なんだと思って」
「それは私の指示です。 裏口から以外の訪問者は私の想定外なので、基本対応しないよう言いつけていました」
「じゃあさっきのやつはマジで中に居たんだな。……うん、それで、なんでローレライはここに下ろしたんだって花壇に座って考えてたんだ。で、ジェイドが来た」
あとは知っているだろうとでもいうようにルークが私を見る。明るい緑色の双眸。新緑の色が暖炉の炎に照らされている。
ノックが響く。私の応答にドアは開き、オービルがトレイにティーポットを乗せて現れた。淀みなくカップをソーサーに合わせ、ポットから湯気の立つミルクティーを注ぐと、細やかなセッティングを手早く済ませて再度出て行く。オートマティックに用意されたティーセットをルークがぼうっと眺めた。私はカップを手に取る。
「飲みましょう。あなたは冷えているようですから」
「あ、ああ……うん」
ややあって、ルークはシュガーポットへ手を伸ばした。すると指先が目測を誤り、ポットのつまみを弾いてガチャリと音を立てる。驚いたのはルーク本人で、反射のように私を振り返る。私はソーサーにカップを戻した。
「そう慌てずとも砂糖は逃げませんよ」
「わ、悪ぃ」
ルークが目をこする。眠いのだろうか。
「つまりはローレライがアッシュを世界に戻し、続いてあなたも戻したのだと?」
「ああ」
「俄かには信じられませんが……実際あなたがこの場にいるのでは反論のしようがありませんね」
もう一度、ルークが目をこする。眉間に皺が寄っているのを見て、私は怪訝に彼の様子を伺った。
「ルーク」
「うん」
「左目を瞑ってみなさい」
「へ?」
驚いた様子でルークが瞬く。そして刹那、バツが悪そうな顔をして、すぐに作り笑いを浮かべる。虚勢をはる時の癖だった。
「なんだよ急に」
「あなた、右の目が見えないんじゃありませんか」
単刀直入に尋ねる。彼は私を見た。場違いにしんと静まった表情をしている。腹を据えたのだろう。暫く沈黙が下りる。
「……ジェイド」
「何でしょう」
「目が悪くなったら、もう良くはならないのか?」
ややずれた質問だった。私は眼鏡を押し上げ、返ってこなかった答えに浅くため息をついた。
「人によっては回復することもあります。ただ、おおよその場合悪化すればもとの視力には戻らないでしょう」
「じゃあ、見えなくなったら、もう、戻らないのか」
私は黙った。彼も言葉を続けず、黙した私を見て、視線を落とし、己の指先を見下ろした。
広げた手のひらには見慣れたグローブがはめられている。手を握り、緩めて、ルークは顔を上げた。
「足りないってのはこういうことか」
ローレライ。第七音素の顕現した姿。その者がルークを再構築したのだという。忌々しいことだった。私は私の理論でレプリカを作り、結果、その崩壊を止められなかった。限られた時間の中、私の頭はただの飾りとなり、欲した成果も挙げられず、ただ眠りを恐れる子供を嘯いて宥めることしかできなかった。すべてが偽りではなかった。限りなくゼロに近い可能性に縋り、終わりを見れば不可能だったという事実が残ったというだけで。
ローレライですら、ルークの再構築は完全には成し得なかったのだ。全知全能である確証はなく、しかし己よりいくらも理を曲げることができる存在が、ルークを不完全に復活させた。この不快さは恐らく私の驕りと虚栄心であって、誰とも共有することのできない自身への腹立たしさだった。
ルークの額へと手を伸ばす。長い前髪をよけて、きっと見えなくなったであろう右目、そのまぶたに親指を添える。ルークは私の行動をまじまじ見ていたが、何を思ったのか、添えられた指を払うでもなくおもむろにその目を閉じた。
「なんでそっちだって分かったんだ」
「かまをかけました」
「かま、って……はあ、なんだよそれ……」
肩を落としてルークが笑う。その表情は私が嫌うものだった。困ったように、笑うしかないと口角を上げるのに、眉尻は下がっている。彼の意に反する笑みだ。
「表情を見れば分かります。あなたも今、気づいたのでしょう」
「……」
「他にどこか不調は」
「さぁ、どうだろうな。まだこれしか」
ルークの手が私の指ごと右目を覆う。彼の言葉から、視力が完全に無いのだろうと知れた。驚いただろう。落胆したかもしれない。しかし一度音素にまで分解され、元の形に組み直された人間の、視力喪失など想定範囲外だ。……人間ですらない。第七音素のみで賄われた体だ。これから不調がいくつも見つかるのだろうか。
それよりもすぐ傍に問題などいくらでもある。脳内を駆け巡ったあらゆる情勢、事情、彼は理解できていないことが多いようだった。
「ルーク」
「なんだよ」
「あなたがあの日エルドラントで消えて、様々なことが起こりました。確かにアッシュ……本人ではありませんが、それに近似の者も帰ってきました。あなたはこれからどうするつもりですか。この世界には既にルーク・フォン・ファブレが存在するのですよ」
ルークが私を見る。見覚えのある悲哀の表情だった。