世界に生まれる
19
彼が生きているのならそれで良かった。
人を殺したくないと怯え、己の存在が消えることに怯え、夜に泣きそうな表情を浮かべるこの子供が、どこか私が知らない遠くであっても心安らかに生きているのならそれで良かった。
彼が不幸を感じずに生きていればそれだけで。
そこに私の感情の介入は必要なかった。
目が覚めて、身支度を整える。出勤の用意をし、軍服を着終えて部屋の外に出るとルークが丁度階段から下りたところで、「いってらっしゃい」、と言ってくるから、それに馴染むことができず、「ええ」、としか返せなかった。
軍施設の執務室で書類に目を通し、許可と不許可を判じ、新しい機関の設計図に少々の難癖をつけた後で昼にピオニーが現れた。本棚の前が散らかる。粗雑に平された勝手な出入り口から立ち上がり私を笑う。
「明日、ルークがどんな答えを出すかもう聞いたのか?」
またこの質問かと肩を竦めた。まるで私が既に聞いているかのように訊ねてくるあたり趣味が悪い。こればかりはルーク自身の言葉で語られるべきだろう。私から答えるものはない。
「気が急くからとまた襲いに行ったら前回の分も含めてガイに共有しますね」
「つまらんな」
我らが頂はそう言いながら執務室にある書類を眺め、調整中である新機関の図面に感嘆の声を漏らす。これは難癖をつけた赤インクの線が入ったものだが、指摘についても「妥当だな」と実質的な許可を与えられる。もう少し耐久性が欲しいのだ。新しく得られるエネルギー量の上限値は未知の部分がある。
「ルークにはどこまで話したんだ?」
「何がでしょう」
わざと主語を省いた問いにはとぼけて返すに限る。お互い性根の悪そうな笑みを口元にだけ浮かべて見つめ合う。
「お前のことだ。まるで偶然大体のことが上手くいったように見せてるんだろう」
「大体のことが偶然上手くいっているのですよ」
「ジェイド」
ピオニーが笑む。これは自然と浮かぶものだ。まるで昔を思い出すから、私は嫌いな表情だった。
「お前が思うほど何でも悪いようには転がらないさ」
執務室のドアがノックされる。我らが陛下を探しにきたのだろう。今日は珍しく時間切れだとピオニーはさっさと退散していった。私は再び書類仕事に戻る。
ピオニーが察していることは私があの子供を欲しているということだけだ。それが手に入らなくてもいいのだとは知り得ていないだろう。彼の中での私は未だに狡猾で傲慢で、概ねそれは間違っていないのだが、生憎ルークに関してのみ表せば、私自身、自分がよく分からない時がある。
今がまさにそうだった。利害のために選ばれることを悪いことだとは思っていない。結果としてそれが彼の安心や安寧に繋がるのならそれで構わなかった。
いつだったか、ピオニーに「自分すら駒としか思っていないだろう」と言われた折に、胸に落ちる感覚があった。いつであれ私の意識は第三者としてある。自分自身すら他人事のように。そうあるはずだったのだが。
遅くに帰宅すれば応接室にルークが居た。既視感だ。手にしている本は園芸に関するもののようで、ただ、帰宅の音に気付いたのか、開いたままだった応接室のドア越しに私を見るや本はローテーブルへと置かれる。
「おかえり」
どうしたというのか。もう彼の中でこの邸は自宅に変わったのだろうか。
「こんな遅くまで読書ですか」
「この前ガイんち行った時にペールから借りたんだ。こっちの庭にもいろいろ咲いてたから、名前なんていうのか調べようと思って」
見れば図鑑のようだった。私の邸の庭にどんな花が咲いているか、見れば分かるものをわざわざ調べようと思ったことはなかった。
「探し物は見つかりましたか」
「え? ……うん、まあ」
私が話を続けると思っていなかったのだろう。少し目を大きくしながらルークが答える。図鑑を開けば、図と文章で植物のことを解説しているようだった。季節柄この辺りだろうと目星をつけてページをめくれば、「あ、これは咲いてるやつな」と途中の図をルークが示してくる。既に私の中で景観と化した花達の名前を教えてくる。私は、そうですか、と答えることしかできず、開いたままの図鑑をルークへと返した。
「興味があるなら訊ねてみなさい。庭師が喜ぶでしょう」
「それなら今日聞いた」
「なるほど。ところで、明日はピオニーとの謁見となりますが準備は出来ているんですか」
話を逸らす。これ以上自分が花について話し続けられるとは思わなかったし、実際訊ねたことは確認する予定だったことだ。ルークが口を噤む。彼の反応を読もうとするが、どうにも理解しづらい顔をしている。
「まあ、一応」
「パトロン先を陛下に変えることも可能ですが」
「それはない! あ、な、無いっていうか、……昨日言っただろ。俺はここにいたいんだ」
ルークの声が小さく、ただ意志は込められた音になる。
例えそれが彼の利によるものであったとしても。その言葉が私の心臓を貫くのだとこの子供は気づいているだろうか。
「明日は、ちゃんと話せると思う。今日もずっと考えてたんだ」
「それならよろしいのですが」
ルークの手に乗る図鑑を閉じてやる。眼帯に覆われていない左目と目が合う。私が笑うと、ルークは幾分不服そうだった。
「陛下との謁見は前回と同じく私とガイのみが同席し、それ以外は不在になります。あまり緊張すると舌を噛みますよ」
「噛まねぇっつの。……もう寝るのか?」
「ええ。明日は少し早く出ます。貴方も同行するのですからもう寝てしまいなさい」
眠れないのだろうか。不意に考えが過ぎる。だがその目の前でルークが欠伸をするから、すぐに杞憂だったと分かる。
「おやすみ」
「ええ。良い夢を」
まるで家族のような。言葉の数々が私をゆっくりと侵食する。
翌朝。頭数は絞ったとはいえ公的な陛下との謁見になる。ルークはバチカルで身につけた式服に袖を通し、私の代わりにメイドに手伝われながら身支度を終えていた。私は常と同じく軍服である。
「便利だよなぁ、それ」
「おや。兵に志願しますか。今ならマルクト軍も募集をかけていますよ」
「兵士か……この前の鑑を動かしたり護衛するやつか?」
「いいえ、まずは駐屯兵からでしょう。市街の見回りや基本雑務です」
馬車を呼ぶ。ルークは兵に志願しないことにしたらしい。
城に着いてすぐ控室へと連れて行かれる。バチカルでは形式上国内重鎮らを前にした口上もあったが、今回は基本ノヴァが怯えるからとガイを護衛にそれ以外を追い出している。あとで口上した内容をまとめなければならないが、勤勉な伯爵に頼めばどうとでもなるだろう。城の護衛兵が準備が整ったとの伝言を寄越し、私はルークを見て、共に兵士の後を歩く。
始終無言だった。怯えているノヴァを演じているのか、それとも話す言葉が漏れないよう口を閉じているのか。しかし顔面蒼白でもしているかと思ったのだが、隣を歩く子供は随分落ち着いた様子に見えた。
謁見の間に通される。これとほぼ同じ状況が数日前だったとは、過ぎる間は長く感じたというのに、今思えば一瞬でしかない。背後でドアが閉まる。
またこの四人だけになる。ガイは玉座下に立ち、平素と変わらない穏やかな様子を纏っている。恐らくそれはルークができる限り冷静でいられるよう努めているのだろう。本来ならばこのような場とガイに与えられた役割を考えれば許されない姿勢だった。
私はルークの斜め後ろへと立つ。今回話をするのは彼自身だ。
差し込む光を背負ったまま、調印書を手にピオニーは玉座からルークを見下ろす。
「似合ってるぞ、ルーク。いい仕立てだな」
不用意にその名を呼ぶピオニーを一瞥した。謁見の間が防音されていない筈はないが、「陛下」と釘を刺す。
「へいへい。まあ、今回のお前の身元保証に関するいきさつは既に聞いている。間違いなく今までで一番規模のでかい身元確認だったよ」
「はは……、その、ありがとうございました。お陰で調印書も頂けました」
「普通は事務書類みたいなもんなんだがな。まったく、大仰なもんになっちまった」
手にした書類を見ながらピオニーは呟き、それを玉座下で控えるガイへと渡す。ガイは恭しく受け取った。
そしてピオニーが姿勢を変える。両手を肘置きに、胸を張り、威嚇とも取れるほどの圧を見せる表情のまま笑う。
「さて、それじゃあこの前の話の続きといこうか。お前さんがこれから、この世界でどう生きるかについて」
圧を受けながらルークの唇が引き締められる。息を吐き、胸に手を当てて、すぐに姿勢を正す。準備をしていたというのはあながち嘘でもなかったらしい。
「俺は、マルクトの、グランコクマに残りたいです。そして許されるのなら、今のまま、ジェイドの元で暮らしたいです」
ピオニーの片眉が愉快そうに上がる。一度視線が私に移り、そのままルークへと戻される。
「ほう。理由は何だ」
「理由は、……それが一番、俺にとって安全だからです」
「安全?」
ピオニーが促す。ルークは一つ呼吸を置いた。
「今の俺は、他のレプリカ……ノヴァたちと、同じ作られ方をしていません。だから、今は平気でも、いつどんなことが起こるか分かりません。それを考えると、世界で一番安全なのはジェイドの近くにいることだと思ったんです」
「ほう。俺のジェイドは随分信頼されているらしい」
軽口を叩くピオニーをルークは表情を変えずに見上げていた。ガイはずっとルークを見ていた。私は、やはり、常と同じくどこか他人事めいた視点でこの場を眺めている。
「それが理由か?」
「……はい」
「なるほど。聞き届けよう」
ルークの動きが止まる。そして、僅かに力を抜いたようだった。
「リュカ。お前を我が国のノヴァとして受け入れよう。ノヴァ保護条約に則り、保護者としてジェイド・カーティスの監督下に置く」
ピオニーが宣言する。その言葉に安堵したのか。強張りが緩んだのか。ルークの体の横で強く握られたままだった手が少しだけ解けるのを見た。
「ジェイドはそれでいいか?」
「ええ。扶養が一人増える程度はどうということはない給金を国より頂いておりますので」
「そういやそうだったか。ガイ、残念だったな」
「中将の邸ならすぐに会いに行けますから。国が違ったらどうしようかとは思いましたがね」
謁見の間に詰められていた緊張感が緩やかに取り去らわれていく。ルークが一度、振り返って私を見た。私は前を向くよう彼を促した。
「それじゃあお前のこれからについてはこれで決まったな」
「はい」
「……ところでお前、この後暇か?」
「……はい?」
私がピオニーを見る。我らが王は明らかに私を見て不敵に笑ってみせた。
「どうかなさいましたか、陛下」
「いやなに。こいつと男同士腹割って話したいことがあってな。ガイ、ジェイド。悪いが外してくれるか」
「何ですって?」
思わずガイも尋ね返している。しかしピオニーは聞く耳を持たないように、ガイと私に手を振って見せ、本当に退場を促している。思わず一歩前へと出る。
「恐れ多くも申し上げます。陛下、調印書を頂いたノヴァとはいえ、護衛も無しに貴方と二人にするわけにはいきません」
「勘違いするなよ、ルーク。お前を疑っているんじゃなくて、これは形式上の問題なんだ」
「うん。分かってる」
フォローを挟むガイにルークが頷く。そして再び私を見た。私は、捉えどころのない不安だけを感じながらルークを見て、ピオニーを見上げる。
「どのようなお話をされるかお伺いしても?」
「退場しろって言ってるんだ。聞かせたいわけないだろう」
これは頑として意思を変えない時のピオニーだった。私はため息をつき、ガイに「退室しましょう」と声をかける。
「旦那、しかし……」
「私たちはここに残っていることにしますよ。控え室への裏道を使います」
「物分かりが良くて助かるぜ、ジェイド」
「後で宰相にでもチクりましょう」
「……そうだな」
ガイを促し、控室へと続く避難用の裏口に向かう。ルークは想定していなかった事態にやや青ざめていたが、ガイが肩を叩いてやり、何かを小声でやりとりして、頷いているのを声の聞こえない場所から見た。非常口起動用の音素を発動させる。本来はこういった使い方をしない出入口なのだが。
「悪いようにはしないさ」
「どうぞお手柔らかに」
全く信用ならない幼馴染の言葉に呆れながら返す。私とガイの目の前で、非常用出入口が音を立てて閉まった。ガイはため息をつき、「大丈夫かあいつ」、といつも通りの心配を口にした。
控え室でガイと二人、非常用出入口が謁見の間から開くのをただ待つだけの時間になる。ガイが手持無沙汰に淹れた紅茶は悪くなかった。
「陛下、何の話してんだろうな」
「さあ。どうせくだらない話でもしているんじゃないですか」
どうにもピオニーがルークを贔屓する癖がある。それはどこか、城内で好き勝手に飼育されているブウサギたちへの愛情に近いような、湧き出る可愛がりの余力をぶつけているような、つまるところあまり碌な事ではない。ケテルブルクから帰ってきてからの対応が如実にそれだった。まさか家主がいない邸から誘拐までしてくるとは思わなかったが。
それほど時間は置かれず、ぽつぽつと新しい機関の話をしている間に、非常用出入口の開く音がする。見ればそこには満足げに笑みを浮かべたピオニーと、何故か妙な顔をしたルークが立っていた。
「ほら、ジェイド。無事に返すぜ」
「お心遣いいただき痛み入ります。なにぶんつい先ほど保護者になりましたので、不審な者との単身での接触に不安で震えていたところですよ」
「何とでも言え。ガイ、お前らもこっちの出入り口から正式に出ろ。あとそれから、面倒だから宰相には黙っててくれよ」
ガイはすぐに別の用事が言いつけられてその場から連れ去られて行った。私の隣には妙な顔をしたままのルークが残される。この表情の原因は分からなかったが、一先ず先に邸に帰してしまおうと馬車を呼ぶため正面入口へと向かう。
「なあ、ジェイドも帰るのか?」
「……いいえ。私はこれから仕事ですので、貴方一人で先に帰って頂きますが」
「……」
ルークが黙った。私は、馬車を呼ぶのを止めた。
「まったく、陛下に何を吹き込まれたんですか。何か話したいことでも?」
「あ、ああ……でも、できれば二人で話したいんだけど」
珍しい事だった。二人きりで話すことをルークから望まれるときは大概重要な用向きになる。私は顎に指を当て、彼を軍内部にある私の執務室へ連れて行くことにした。
近くにいた兵士を呼びつけ、誰も通さないよう言付ける。この部屋はピオニーが公的にも私的にも現れる事が多いため防音となっているので会話の内容が何であれ問題無いだろう。
「それで、話とは」
ピオニーが現れないよう、本棚前の穴を蓋で塞いで振り返る。これは時折使われる「本当に今は入ってくるな」という意思表示の蓋だった。使用頻度はそれほど高くない。
きっと何か言い含められたのだろうと思う。それでなければここに来るまでの間も俯き、無言のままを貫く姿は彼にしては珍しい。ルークは、私の執務室に鍵がかかる音を聞いてようやく大きな息をついたところだった。
「……ジェイド」
「はい」
「ジェイドが、俺が帰ってきてからずっと、いろんな手配や準備をしてくれてたって本当か?」
私は瞬きをする。ルークの表情は酷く真剣で、まるでそれが何か重要なことのように訊ねてくる。
「いろいろ、とは。身に覚えはありますが、特に何を指していますか」
「その、……思いだしたら、ジェイドに、ケテルブルクで会ったときからそうだったんだ。俺が寝てる間に、俺の体を調べてくれてたり、何か書類を用意してくれてたり」
「必要だと思ったので行ったまでです。実際、あの時見つけたノヴァが貴方でなかったとしても私は同じように書類を用意していましたよ」
これは事実だ。保護条約を最初に掲げたマルクトがノヴァの保護を行わない理由はない。だが、確かにあの時彼ではない見知らぬ個体であれば、すぐにケテルブルクの駐屯軍へ引き渡して諸々の対応は押し付けただろう。
「……そうかも、しれないけど。じゃあなんで港までガイを呼んでくれてたんだ。陛下が言ってた。今回の調印書を貰いに行った船の旅のときも、俺がみんなに会えるよう取り計らってくれたのはジェイドだって」
ピオニーが吹き込んだのはこれか。思わずこめかみに指を当てる。脳内で幼馴染が「言うなとは言われなかったからな」と減らず口を叩いている。
「貴方が帰ってくるのを望んでいた人たちに、貴方が実際に帰ってきたのだと知らせることは必要だと考えました。その結果です」
「ユリアシティでも、……慰めてもらっちまったし」
「泣いている貴方を引き摺って帰るわけにもいかないでしょう」
「俺、泣いてなかったぞ」
ルークの緑色の目が私を捉える。私は、何故私が詰問されているかを考えている。彼の考えが分からないのはいつものことだが、こと今日に限っては彼が求めている答えの正体が掴めない。
「ジェイドが泣かせてくれたんだ」
「……泣かせた相手に、してくれた、とは。随分と前向きな捉え方ですね」
「ジェイド……」
ルークが私に一歩近づく。私はその場を動かなかった。反射的に下がろうとした体を止めたとも言える。
胸の奥を侵食している毒が頭をもたげてくる。ピオニーに厄介なことを吹き込まれたルークが何かを知りたがっている。それでも私は決してこの毒を吐き出してはいけない。この子供に毒を与えてはいけない。私は第三者でいなければならない。
「新しい名前も、眼帯も、式服も、日記帳も、俺に必要なものは全部ジェイドが揃えてくれた」
「必要なもの、ですから。あの場においては貴方を通常の服で連れまわしてはマルクトの威信に関わります」
「邸でも、オービルに俺の名前教えてくれてた……」
「貴方の本質は、ルーク・フォン・ファブレです。例えレプリカであったとしても。新しい名を受けたとしても、その本質を忘れなければならないわけではありません」
「……全部、必要じゃなきゃジェイドは何もしてくれなかったのか?」
ルークの声が変わった。どこか、悲愴を帯びた、泣き出しそうな声だった。
私は、追い込まれていると感じていた。口から溢れ出さないようにと飲み込み続けた毒は、いつしか私を蝕みその表へと滲み出ていこうとしている。指の先から。彼を民衆が持つ好奇の目から庇う腕から。泣いた子供を一人にしないでほしいという懇願を叶えた体から。
どうしろというのだろう。ここで私の毒が口からこぼれたとして、それが彼を蝕まない保障などない。
今、彼には縋る手が必要なだけだ。それを差し出せる一人が私なだけで。条件に見合うのが私だけなのだという、それだけで。
「ルーク」
私は私の言葉で毒を彼に飲ませたくはなかった。ただ、もし、もしも彼が自ら毒を飲み受けようというのなら、それならば、と頭のどこかで響く声がする。
この感情の介入が許されるのなら。
「……私は、貴方にこの先の世界を生きてほしいと思っています」
白い眼帯。緑色の目。明るい赤毛が私の目の前に在る。かつて失くしたと思ったものが帰ってきたあの日の高揚を越える感情の波はもうきっと訪れないだろう。
「それに必要なことがあるのならば全て叶えます。例え何であっても」
「……ジェイド」
「旅の終わりからそういったことを考えていました」
ルークは私から目をそらさなかった。以前より痩せた身で、記憶と同じ目で私を見つめてくる。
「あの時私にできる事は殆ど残っていなかった。今はある。ただそれだけの違いです」
光の柱を見送った四年前。三年前に花畑で迎えた夜。全てを越えて、今の彼があるのなら。それを留めおくにはどうすればいいのか。
その楔が何であるのか。
「もう勝手にいなくなられては困りますから」
彼を音素帯になど還したくはない。地上に繋ぎ止めていたい。手の届く範囲に置きたい。この子供が無事であることを私に突きつけてほしい。
この感情を人は何と呼ぶのか。幼馴染なら知り得るだろうか。私にも分からないことなどいくらでもあるのだ。それはことこの子供については特に際立っている事象だった。
「もういなくなったりしねぇよ」
「それは貴方にも分からないでしょう」
「そりゃそうだけど……」
ルークが俯く。首肯ではなく項垂れだった。私は彼のつむじを見下ろし、ここに来るまでに風に吹かれたのか、一束崩れた髪を指先ですくい耳にかけてやる。びく、と肩が動いた。警戒されているのか。
「そうじゃなくて……」
「では何だと?」
「……」
顔が持ち上がる。私と彼の身長差は広く、この距離であれば彼は少し見づらそうに私を見上げる。
「ジェイドは俺のことが好きなのか?」
問われる。
不思議な、心地だった。人生で言われたことのない言葉だった。もっと傲慢に、自己陶酔に近い無粋な人間から近しいことを問われたことならあっただろうか。
しかしこんな、確信も持てていないだろう言葉で、真顔で、問われるとは思っていなかった。
私が彼を好いているかと彼は私に訊ねているのか。
「どういう意味でしょう」
悪手を打ったと思った。茶化すか、曖昧な明確さで否定すべきだったか。間も明けてしまった。私は自分が動揺しているのだと気づいている。
「どうって、……その、そういう意味で」
「ピオニーに何か吹き込まれましたか」
「陛下に? 違う。陛下からは、さっきのいろんな準備をしてくれた話を聞いただけだ」
瞬きをする。見るが、彼が嘘をついている様子はなかった。これで彼が嘘をついているのなら、彼は音素帯に溶け込んでいる間に私を欺く術を身に着けてきたことになる。
「では何故その結論に至ったのですか」
「……」
黙る。考えているのだろうか。話したくないという意思表示か。しかし彼は何度かの呼吸の間を置いて再び私を見る。その緑色で私を射抜く。
「ジェイドが、変わったから」
「……」
「ジェイドの傍にいてなんとなく分かった。ジェイドはジェイドのまんまだったけど、俺が知ってる雰囲気より、もっと、……なんていうか、優しくなった」
「年齢のせいでは? 貴方もピオニーとガイが落ち着いたと言っていたでしょう」
「それは思ったけど……なんか違うんだ。ユリアシティから、帰る間ずっと、俺、ジェイドがいてくれて安心してた。いてくれるって思ってなかったのもあるけど。……ハンカチも嬉しかった」
「それは喪失感にうまく私の行為がはまっただけではありませんか」
「……そうなのかな。そうかもしれないけど、泣いてるところなんて見られて恥ずかしかったのに、目が覚めてそこにジェイドがいると嬉しかったんだ。……陛下には、自分の安全のためなんて言ったけど、俺、本当にジェイドの邸に残りたいって思ってるし、それに、この先どうなるかが怖いのは本当で、ジェイドの近くなら安心できるのも本当なんだ」
「……失礼。ルーク、いま貴方の話している内容では、先ほど貴方が提した言葉の裏付けにはなっていませんが」
「え?」
今度はルークが瞬きをする番だった。私は両手を後ろへ組んで姿勢を正す。
「その逆では? まるで愛の告白のようですよ。ルーク」
彼は私と共にいて安心することがあったのか。その言葉に少なからず驚きを感じながら、彼の言葉が意図する先を示唆する。ルークの唇が薄く開いている。そして、急に血が昇ったように赤面した。
「な、なに言ってんだ、ジェイド!」
張り上げられた大声に思わず目を閉じる。改めて見るが、ルークの見えている肌全体が赤みを帯びているようだった。
「生憎丸ごとその言葉をお返ししたいくらいなのですが」
「違うって、俺が言いたいのは、ジェイドが俺を好きなのかどうかってことで」
「私が貴方を好きであるという事実があったとして、何か今の状況を変容させるのですか?」
「へ?」
ルークが口を開けたまま私を見る。私は、少しだけの毒を零した口を静かに閉じる。
実際、私がルークを好いているという事実が、彼に伝わったとして、何か変わることがあるのかが分からなかった。平然と問うてきた答えを聞いて赤面こそしているが、恐らく彼はまだティアに好意を持っているだろう。それならば、私からの好意が、ルーク自身に受け入れられることは無い。それならば伝えるも伝えないも結論は同じことになる。
「そもそも、何故私が貴方を好きであるかなど確認したがるのですか」
「……そ、れは……」
ルークが黙る。私も黙った。二人分の沈黙が部屋の中に満たされて、どちらも動かずにいる。
私は卑怯だ。姑息な手を使い彼に言葉を紡がせようとしている。だが私は他人を愛してはいけないのだ。私が愛した人は必ずその人が不幸になる。
愛。愛とは。人を好くとはこの感情だっただろうか。私の奥底に滲む毒の正体はそれなのだろうか。私を蝕み、苦しめ、私たらしめんとする根幹を揺るがし、私自身を変えてしまう。その変容は彼にとって良い事なのだろうか。悪いのだと言われても解毒薬は見つけられていないのだけど。
「何にでも、明確な答えが無い方が良い場合もあります」
「……」
「私が貴方を好きであっても、そうでなくても、この先貴方に対する姿勢は変えないつもりです。そうだと理解いただいた上で知ってどうするというのですか?」
訊ねる。もう殆ど、答えなど出ているようなものだった。
それでもルークは考えているようだった。まるで陳腐な哲学書に載る問答を行っている私たちはよっぽど間抜けに見えているだろう。しかしそれが彼にとってはどうやら重要なようで、んん、と短く咳払いをしてようやくその顔が真顔になろうとしている。
「……から」
「何でしょうか」
「……俺が、嬉しいから」
真顔になりきれず、赤面したまま子供はそう答えた。
私は一つ、深呼吸をする。彼の精神面の未成熟さを感じる。しかしその熟れていない青い言葉の数々が私の中に溜まっていって、そうして段々と蝕んでいくこの状況があった。
「溜息つくなよ」
「溜息ではありませんよ」
「……呆れたか?」
「いいえ。それほど」
「呆れてんじゃねぇか」
羞恥からその身を離したルークに私が一歩近づく。元の距離だ。身長差のお陰でやはり彼の瞳は遠い。
手袋を外して、彼の耳に触れる。肩が跳ねたのは驚きからだろう。これもある種の警戒か。もしかすると先ほど耳にかけてやったときのもそうだったのだろうか。
「ルーク」
「……っ!」
耳朶を撫でる。ぎゅ、と彼の目は瞑られ、口は噤まれた。そして恐る恐るといった体で私を見上げる。その光景に優越感がある。
「私は貴方が好きですよ」
口にしてしまえばただそれだけだった。
ケテルブルクで、私の元へと降りたいと願ったと言った時。私に縋る目を向けた時。食事を摂った時。熱が下がった時。無傷でガイの家から戻った時。船で世界を回り、かつての仲間と会い、涙を流した彼を見た時。
愛しいと思った。それが私の中に蓄積された、ただそれだけだった。穴の開いたような私の胸を塞ぐように彼は私に存在を知らしめた。彼が生きているというだけで私は私が喜んでいるのだと知った。
「以上です。ご満足いただけましたか?」
「……」
先程から言葉が出てこないルークは、視線を彷徨わせ、まだ耳に触れていた私の手を取り、むず痒そうにそれを離すよう無言で訴えた。仕方なく手を下ろす。ルークは俯いて私につむじしか見せなくなる。悪戯心が湧いたが、あまり虐めては泣くかもしれないとも思う。
「貴方が問いかけてきたのでしょう」
「……そうだけど」
「嬉しいですか」
もしもそうなら嬉しいから、と答えていた子供に訊ねる。しかし返事はかえってこなかった。
俯いているルークを、腰をかがめて伺う。見たこともないほどに赤らめた顔と、高揚により潤んだらしい目の淵がうっすらと濡れている。
「泣くほど嬉しいんですか」
「ち、違ぇって! なんて言えばいいか……さっきは、なんか、勢いっつーか……ジェイドが俺を好きだったら嬉しいなって思ったから訊いただけで……こんな……」
「それが子供だというのですよ。人間が人間を好いた惚れたという感情はそれほど安易なものではないでしょう」
「……うん……」
手の甲で見える側の目を隠したルークは、何度か深呼吸を繰り返し、そしてようやく顔を上げて私を見た。私は緑色を見つめ返す。
「俺、ジェイドの事好きになりそうだ……」
「おや」
殊勝な言葉を漏らした彼の顎を掬い上げる。驚いたルークは色気も無く「わっ」と声を上げた。
「何でも言ってみるものですね」
「……急にこういうことすんのやめろ」
「お好みではないと。覚えておきましょう」
手袋を嵌め直し、両手を後ろで組むと、ようやくルークは警戒が薄れたようだった。どこか天敵にみつかった小動物のようにも見えるのは、恐らくこれが惚れた弱みとでもいうのだろうか。
果たして、私の中に溜まっていた毒を受けたルークがそれに浸食されるかは分からないが、どうやら初手としてはその傾向があるらしい。何も変わらないという仮説はまたしても彼によって覆されてしまった。
その後、それ以上近づくのを許されなくなった私は、一先ずルークを置いて仕事をすることにした。
執務室にあるソファの端で、いつかのケテルブルクのようにブーツを脱いで膝を抱えた姿勢をとったルークが、時折恨めしそうに、伺うように、私の方へと視線を寄越す。その顔がずっと赤いままなのは指摘しないことにした。私のその日の業務はそれほど捗らなかった。
家の馬車を呼ぶ。こういった日は早く帰るに限る。
作成し終えた資料を部下に渡し、顔を隠したりそっぽを向いたりと忙しいルークを馬車に押し込み邸へと向かう。到着するまで馬車の中は異様な沈黙が続き、邸に着いてしまえば一目散にルークが自室へと戻っていった。その様子にオービルが不思議そうな顔をしたが、あとで夕食を部屋に持って行ってやるようにとだけ伝えて私も自室に戻る。
明日の出勤にピオニーが現れることなど想像するほどのことでもない。思わずこめかみに指を当てた。