BD910

世界に生まれる

18

ユリアシティには立ち寄るだけの予定だった。時間は少々遅れたが、予定通りに艦は港を離れる。見送りに来たのはテオドーロ市長の秘書と、まだ目を赤くしたティアだった。ルークも同じく腫らした目で、出来る限り互いに笑い、艦は進んで港は見えなくなった。
私はルークを部屋まで送り、どうしたものかと思ったが、そのまま部屋に残り書類仕事を片付けることにした。子供はユリアシティに向かうときと同じく壁に向かって背を丸め、簡易ベッドで横になっており、時折本当に寝ているのを感じている。疲れたのだろう。しばらく目の腫れは引かないかもしれない。
航路を確認する。少佐との移送作戦の確認をする。それ以外は部屋に居た。何をするでもなかったが、そうする必要があると思ったのだ。ルークはベッドに寝てばかりだったが、時折起きては私のほうを見て、枕を抱えてすぐに向こうへと寝返りを打つなどしていた。
マルクトの領海に入った旨が伝達管から響く。グランコクマまでもうすぐだろう。そこでようやくルークが起き上がり、喉が渇いたのか、水差しからコップ一杯の水を飲んだ。
「日が暮れるまでには港に着くでしょう。顔を洗ってきたらどうですか」
「んん……でもこれ、洗ったくらいじゃ腫れたままだろ」
眠そうに目を擦る。その仕草も腫れの一因になるのだが、言っても大して変わりはしないだろう。一先ず出て行ったルークはシャワーも浴びてきたようだった。比べれば先ほどよりはさっぱりした様子で、面倒くさそうに髪を拭くのを書類を片付けながら眺める。紙面に水しぶきが跳ねるのだ。
「瞼の二重が三重になっていますね」
「るっせーな……瞼おっもいんだよ」
目開いてるか? と尋ねてくる程度には気持ちの切り替えも出来たらしい。開いていません、と答えれば、だよなぁと再び髪を拭く。
さて、この後はどうするか。着いてすぐに登城することは考えていなかった。ユリアシティを最後の目的地としたときにこうなることは容易に想像できたからだ。子供の体調が崩れたと日を稼ぐことにし、ルークが二日ほど置いて謁見する旨の書簡の作成を始める。
「今日から二日後にピオニーに謁見してください」
「あ? 二日後?」
「グランコクマに着いたら一度私の邸に戻りますが、旅の疲労から貴方はそのまま二日後まで療養することになります。私は一足先に調印書を持って登城しますので、あらましは伝えておきましょう。ああ、それから。私が不在の隙に貴方にちょっかい出さないようにも言っておきます」
ピオニーの名に動揺を見せたルークも、最後の言葉に僅かであれ安堵したようだった。私の執務室に連れ込んだ際は一体どうやって攫ったのだろうか。どうでもいい興味が湧かなくもない。
「ジェイドも一旦邸、戻るのか」
「生憎と相手が我が国の頂きですから。身支度を整えていきますよ。何かありましたか」
「ん、いや……別に」
言い淀む。何かあったのだろう。だが言わないのならば聞かないことにする。
ガイでも呼べれば重畳だろうが、恐らく私がいない間はピオニーが酷使しているだろう。登城ついでに様子を見るとして、確認し終えた書類を部下たちに回せば仕事も進む。そういえば機関の汎用化はどうなっただろうか。スポンサーはどうするか。それこそ近いうちにガイの予定を取り付けなければならないのを思い出す。
「ジェイド」
「はい」
思考を切ってルークへと振り返る。ほとんど髪は乾いたようだった。まだ腫れた目、眼帯を外したままなので緑の双眸が、私を見上げている。
「二日後に、陛下に会えるんだよな」
「会える、と表現するのは憚られますが、仰る通りです」
「じゃあ俺、その時に、答え出すよ。俺がこれからどうするか」
答え。
胸の奥に何か重いものが置かれた心地だった。旅の当初の目的だったろう。一つはルーク・フォン・ファブレの正式なノヴァ――レプリカとして認められること。そしてもう一つが、これからを彼がどう生きていくかということ。
何度も考えた。何度も答えは出ている。つまるところ答えは彼の中にしかない。何を選んでも、私が口を挟めることではない。
「分かりました。そのように陛下にお伝えしてもよろしいですか?」
「……ああ」
子供は口を引き結ぶ。いつかの決戦前のようだった。常に戦う前に彼は表情を強張らせる。命を失うことを畏れていた子供が、今は何を畏れているのか。私には到底想像するしかない。

グランコクマの港で作戦終了の旨を伝える。少佐と兵士たちの敬礼を解かせて、私はルークと共に迎えに来ていたカーティス家の馬車に乗った。中には私達二人きりで、ルークはまだ重そうにしている瞼を指の腹で触れている。
「あまり触り過ぎると腫れが引きにくくなりますよ」
「そうなのか」
「民間療法ですが」
「……そういうの、ジェイドが知ってるとなんか意外だな」
昔泣いた妹にピオニーが言っていたのを伝えただけだ。私よりよっぽどあの男のほうが世俗慣れしている。それとも私に興味が無さすぎるだけか。肩を竦めるだけに留めることにする。
「貴方こそガイにそういったことは教わらなかったんですか」
「どうだろ。……俺は教わってないや」
その言葉の意味を図る。馬車は王城ではなく私の邸に向かっている。マルクトのノヴァ保護施設からの帰りのように、小さな揺れに晒されたルークは大きな欠伸をして、既に眼帯を着けているため片目に滲む生理的な涙を指先だけで拭った。
しかし眠るほどの距離もなく、ただ微睡んだだけで邸についてしまった。馬車のステップを下りる際思わず手を貸してやる。歩きを覚えたての幼児のようだ。
「お帰りなさいませ。旦那様、リュカ様」
荷物を持ち出す使用人に指示を出しながらオービルが迎え出てくる。リュカと呼んだのは他の使用人がいる手前だろう。そして恐らくルークの目の腫れについては気づいただろうが何も言わず、ただ眠そうな様子に「すぐお休みになりますか」と尋ねた。ルークは頷くから、部屋へ連れていくよう私が指示する。
「ガキ扱い」
「客間は二階でしょう」
そう返せば拗ねた言葉は返ってこなかった。ルークが連れていかれる。私は自分の部屋へと戻る。
シャワーを浴び、身支度を整え終えた頃にノックが鳴った。オービルだ。私が身支度をし直すのを察して事を理解したのだろう。予備の軍服を用意していた。
「ありがとうございます」
「ご登城ですか」
「まったく、忙しなくて困りますね」
襟元を整える。手袋を嵌めながらオービルに向き直る。
「そういえば、ルークの日記とペンは随分と良い物でしたね」
「相応しいものをとのご希望をいただきましたので。習慣にされている方ならば良い物をお持ちになられるのが相応しいかと」
「既に礼があったかもしれませんが、私からも感謝を。ありがとうございます」
「畏れ多いことでございます」
必要な書類をまとめて馬車を呼ぶ。城に向かいながら外を見るが、グランコクマは今日も温かな天気のようだ。飛ばした伝令からガイは多忙で城にいないことを聞いている。甲斐甲斐しいことである。

謁見の間で一人、ピオニーへの報告を終える。重鎮たちは特に問題なく事が済んで安堵したようだった。今回の作戦について、本国への説明はキムラスカへ伝えた表向きの内容と同様になっている。そこに齟齬が出ても仕方のない事であるし、実際正しくルーク・フォン・ファブレが一人であるほうが良いのはキムラスカだけではないのだ。あの長い旅を越えたルーク・レプリカがそのままの姿で帰ってきたことは、ごく一部の人間にしか有益ではないのだと。子供に伝える必要は無いのだし、勘付かれないよう仕向ける必要がある。
キムラスカの調印書、ダアトの現状、ユリアシティでの会合について。今回公的に認められたノヴァに改めて会ってみたいとピオニーが宣えばそれが叶うのだ。これも茶番でしかない。二日後に連れてくる旨と諸々の報告を終えて私が執務室に戻れば、それよりも早く抜け道を通ってきた我が陛下が待ち構えている。ぞっとするだろう。いつだったか、表の通りを歩くよりこちらのほうが近道だからと誘われた時には丁重にお断りした。
「ルークはどうするんだろうな?」
訊ねられたところで私は答えを持っていない。曖昧に笑うにとどめて、すぐに我らが陛下を探しに来た兵士に引き渡した。

溜まっていた執務を終えて帰る頃には遅い時間になっていた。オービルによれば子供は使用人たちの仕事をいくらか手伝い、今は疲れたのか眠っているという。動いて眠るという生き物の本能を手本のようにこなすのがレプリカである彼だというのは皮肉だろうか。
自室に戻り、持ち帰った幾らかの書類を広げる。急ぎで対応が必要なものと、必要になるか分からないもの。眺め、確認して再度まとめていると、ドアをノックする音がした。オービルではない。応じれば、ドアの向こうから返したのはルークだった。
「……入ってもいいか?」
掠れた声。寝起きなのだろう。どうしてここに来たのだろうか。分からないことの方が多かったが、一先ず了承を口にする。
ドアを押し開いて現れたルークは、まだ少しばかり目を腫らしているようだが幾分見られる程度には落ち着いていた。何を話しに来たのか。憶測を並べ立てても意味はない。
私の部屋にはデスクチェアが一つきりで彼が座る場所もなく、仕方なしにベッドを示せば、ルークは大人しく端に腰を下ろした。
「どうしました。こんな時間に」
「ジェイドが帰ってきたみたいだったから、……俺、話したいことがあって」
この様子だと部屋で眠ってはいなかったのだろう。ならば長い話になるか。しかしそれを聞くのに、白い眼帯を着けた彼が私を見るには少々家具の配置が良くなかった。ルークに座る位置を示して、彼の左隣に座り直す。ルークは私の所作をじっと目で追っていた。
「……ジェイドも、やっぱり変わったな」
「……何が変わりましたか」
「なんか、……俺、優しくしてもらってる。帰ってきてから、他のやつらもそうだけど、みんな、俺に優しくしてくれてるよな。……旅が終わったからだと思った。大変なことを終わらせたからだと思ってた。でも、違った。みんな、色んなことが変わっちまったことで、俺がつらくないようにしてくれてたんだ。……って思って」
ルークが胸を手で押さえる。それは艦内で見た所作との既視感があった。息苦しさを感じている。私は子供の様子を伺った。
「みんなが言う三年とか、四年間が、俺には分からないんだ。だから、少し前のことみたいにエルドラントでの約束を思い出せる。だから、こんなに突然世界が変わってて、俺、本当はすごく混乱してるんだ」
ルークが私を見る。髪を切り、目の色が変わった私を彼は変わらないと感じていた。そう感じたかったのか。変化に気づける心的余裕ができたのか。分からないが、その私に変わったのだと彼が言うから、恐らくこの数日の航海の間に彼の精神も大きく変化したのだろう。
「ノヴァって言われても、リュカって言われても、なんだかしっくりこないんだ。アッシュが伯爵で、ナタリアと婚約してて、アニスはすっかり子供から大人になっちまったし、ティアは結婚してて……ガイだって、ピオニー陛下だって、本当は俺が覚えてるよりもずっと落ち着いて見えるんだ。ジェイドだって、……」
「変わりましたか」
「譜眼解いて、髪切っといてよく言うぜ」
「それならばあなたも以前同じように切っていたでしょう」
「そりゃそうだけど……、そうじゃなくて。……」
子供の両手が彼の顔を覆う。そしてすぐに顔を上向け、私に視線を移した。
「新しくなった世界を、見て回ってみて、余計に分からなくなっちまったんだ。俺って生きてていいのかって」

生きるとは何か。命とは何か。
この世界に生きていてもいい命の定義とは。

「構いませんよ」
「……え」
用意していた答えなどなかった。彼の考えを読もうとするのに、どうやらそれが当たることは稀だった。彼は私が思うよりも子供で、大人で、大雑把で、繊細だ。
「生きていても良いと言ったんです」
「……どうして」
「経緯はどうあれ、貴方は願い、この世界に生まれたのですから。構いませんよ。お好きに生きていただいて」
「……でも、ルーク・フォン・ファブレはもう居て……」
「だからあなたがそのノヴァであると調印をいただきました」
「フローリアンみたいに、何か出来るわけでもないし」
「それは他のノヴァにも言える事でしょう。あなたに生きる価値がないのならば、他のノヴァたちも同様ということになります」
「それは……!」
「否定できませんよ。事実ですから」
そもそも、彼の言葉は哲学的で、突き詰めていけば世界の全てに絶対的な意味などない。そこにあるという事実だけが確かで、それ以外のことで勝手に意味を見出しているだけに過ぎない。そう説いても子供に伝わるだろうか。ただ混乱を酷くするだけか。
「あなたが生きてもいいという理由が必要なら、それを探すことを生きる意味にしなさい。誰も答えなど持っていませんよ。ルーク。あなたの答えはあなたにしかない」
眉尻を下げ、ルークが視線を前に向け、そのまま俯く。私に答えを求めていたのだろうか。何を言えば彼を納得させられただろうか。
薄暗い部屋の中で、私が灯したランプが彼の表情を静かに照らしている。薄く口が開き、下唇が噛まれ、再度開かれる。
「俺、ここにいてもいいのか」
そう呟いて瞬きをする。そして私へと向き直る。彼は緑色の目の奥で一体何を考えているのか。
「初めにそう伝えた筈ですが」
「……はは、……そうだったな」
弱々しく笑う。その表情が私は嫌いだった。けれどそれを彼に伝えるつもりはない。これ以上私に怯えさせる必要はない。
短く何度か頷き、ルークはゆっくりと立ち上がった。そして私を見下ろす。一つだけの緑色。眼帯の下の目も私を見ているのだろうか。
「なんとなく分かった。……俺の気持ち、考えかな」
「そうですか」
「ジェイド」
名を呼ばれる。彼を見上げる。
「もし俺が、これからもこの邸に居たいって言ったら、許してくれるか?」
今度は私が瞬きをする番だった。は、と短く息をはいて、なんとか呼吸が止まりそうになるのを回避した。
「ガイの邸の方が良いのでは?」
流れるように出てくる言葉が旅の頃と変わらない。ただ、実際己がそう思ってしまっているから仕方がない。マルクトに残るという意思表示だろう。それならばもっとふさわしい場所があるのではないかと。
「……俺、まだ怖いんだ。まだ消えるかもしれないって思ってる。だから、こんなの卑怯だって分かってるのに、ジェイドに傍にいてほしい」
真っ当な理由だった。この子供は愚かではない。怯えながら、困惑しながら、最適解が何であるかを探している。私はその答えに不思議と胸を撫でおろしていた。私の奥底にある毒のようなものが、この子供に見透かされたのではないかと疑ってしまった。この毒は私を侵食している。いつか滲み出て、彼をも飲み込んでしまうかもしれない。
それでも。
「存外、至極まともな理由ですね」
「……ごめん、ジェイド」
「謝る必要はないでしょう。私があなたにそう言ったのです。力を持つ者を丸め込んでしまえば大概の事はうまく運ぶと」
謝る姿は鬱屈とした雰囲気を纏っていなかった。まるで最初から私が否定することがないと踏んでいたような。気のせいかもしれない。だが今はそれでも良かった。
「もう夜も遅い。今日は寝てしまいなさい。二日後の謁見は取り付けてしまいましたので、それまでにピオニーにどう説明するか、考えておくといいでしょう」
眼鏡を押し上げ伝えると、明らかに苦々し気な表情へと変わる。それを見て薄く笑ってやった。この場ではこの感情が正しいと思ったからだ。
「……やっぱ俺が言うんだよな」
「艦での気概はどうしましたか」
「いや、うん……考えとくよ」
とぼとぼと。ルークが出て行き、私は一人になる。立ち上がり、デスクチェアに座り直し、薄暗くほとんど見えない天井を仰ぎ見て溜息をつく。そして眼鏡を外して、デスクに頬杖をつき、不要になると思っていた書類の束を眺める。細く長く息を吐いた。人はこの感情を高揚と呼ぶ。これからも、いつまでも私は彼の考えは分からないのだろう。それでも、かくあれと望んだ流れになっていることに喜びを見出さずしてなんとするのか。卑怯なのは私のほうだ。怯える子供の心に入り込んで、傍にいる事を望んでいるのは私のほうなのだから。