BD910

世界に生まれる

17

ダアトで初めて、ルークに現在のティアの様子を伝えることになった。例えそれが断片でも。彼にとっての彼女の存在は大きく、その存在を私の口から伝える事は憚られていた。アニスは聡い。必要な事だけを口にし、他のことは伝えなかった。私も同じように出来ただろうか。出来たとして、実行したかは判じえない。
去り際は見送られるのが難しく、教団本部での挨拶だけに留まった。昨日に比べればフローリアンの機嫌も幾分直っているようだったが、アニスとルークが話す間、寂し気に佇んでいたのを子供が気づいていたか。定かではない。
「ティアとルークの事、大佐にお願いしちゃうのは心苦しいんですが、気遣ってあげてくださいね」
小声でそう伝えてきた彼女はどこまでを理解していたのか。
艦が港を離れる。また移動だけの怠惰な時間が過ぎる。海が荒れる季節でもなければ、航路上に魔獣が出ているという報告も無いのだから、恐らくこのまま予定通りにユリアシティへと着くのだろう。
ダアトを離れてから既にルークの忙しなさを感じ取っている。キムラスカへ向かっていた時とは異なる、陰陽どちらの気も含めた居心地の悪い様子だった。彼も感情の制御が上手くいっていないのだろう。今は持ち主の手に戻った、あのノートを見た私に何を言う権利も無いが。
「今日は随分と大人しいですね」
嫌味だ。分かっていてルークがこちらを見る。その様子は居心地が悪そうで、彼の精神が不安定であることは確かだった。
――薬を。差し出すこともできた。それはマルクトのノヴァ保護施設でシュウ医師から受け取っているものだった。だが彼が望むかが分からない。不自然に鎮静化されたまま、彼女と会うのが正しいかが分からない。様子を見る事にした。ルークはどの表情にするかを迷った挙句、大きく溜息をついていた。
「変な感じだ」
やはり彼の言葉は私には分かりにくい。
「変、とは」
「行きたいんだ。ティアにも会いたい。だけど、なんとなく、行きたくねぇって気持ちがある。なんだろう、これ……」
胸に手を当てている。その体は、再会した時のケテルブルクでの様子に比べれば幾分も良い方に整い始めている。それでも旅の最後に比べれば細身であるのは変わりなく、恐らくティアも一目見てやつれたことに気づくだろう。
「いまの感情として一番近いものはなんですか」
訊ねる。白い眼帯と緑色の目が私へと向く。
「……不安、かな」
「何を不安に思っていますか」
「……」
ルークは口を噤んだ。私はこれ以上何も続けられなかった。
第六感とでも言うのだろうか。あまり私は当てにしないが、彼はどうにもそういった感覚に強い傾向がある。それはローレライとの同調の力によるものか、レプリカという存在がそうさせているのか。
「ジェイド」
「なんでしょう」
「ティアと二人で話したい」
西日が窓から入り込んでいる。ユリアシティに着くのは明朝になる。オレンジ色の光の中、眉尻を下げながらどうして私に許可を求めるのだろうか。彼のやりたいようにすればいい。それを成すための旅であるはずだ。
「あなたがそう望むのなら、私や他の者が断る理由はありませんよ」
「……そうなのかな」
「ダアトを出てから感情の浮き沈みが激しいですね。体調や、気分は如何ですか」
胸に当てたままの手を握り、何かを探るように肩をさすっている。寒いだろうか。むしろ気温は高いはずだ。不安が表情だけでなく仕草にまで出ている。
「体調は、……分かんねぇ。気分は、悪い」
「必要なものは酔い止めではなさそうですね」
「……」
何度も言葉は途切れた。目を瞑り、考え、私を見て、自分の手を見る。彼の中でも考えがまとまっていない様子がまざまざと現れている。
「眠れそうですか」
「……怠いけど、眠くはない。けど、ジェイドが言ってたろ。体は休めないといけないって。夜になったら眠るよ」
その言葉通り、ルークは早々に日記を書き終えると、陽が沈んですぐにベッドへと入った。食事は摂れていないような量でしかない。私は航路の確認をしつつ、少ない頻度で様子を見に戻ったが、彼が眠れているかはあきらかだった。
こちらに背を向けながら体を丸め、壁に向かっている子供が眠っているものとして部屋の中に入る。寝支度をし、眠りに入る少しの間で、彼が何度か寝返りを打つのを聞いていた。

ユリアシティの港に着く。降船し、手続きを済ませ、迎えに現れたテオドーロ市長の秘書に案内され長い通路を渡る。かつてクリフォトに浮いていたこの町も、今や両側にあるのは広大な海である。思わずグランコクマのある方角を見る。早くこの旅が終わればいいと感じさせたのはやはりこの場所だった。
ルークは私の後ろを歩いている。気分は悪いままのようで、秘書から心配の声をかけられた折は弱々し気に礼を言ってごまかした。市長は会議室で待っているという。恐らくそこにティアもいるだろう。私もルークも無言だった。
長い通路の筈だが、歩いてしまえばそれほど間もなく、会議室へと通されてしまう。しかしそこには誰もいなかった。秘書が、座ってお待ちください、というから、私とルークはかつても腰を下ろした卓の椅子へとつく。
そして扉が開く。現れたのは、テオドーロ市長、そしてその後ろからティアが続いていた。
「……っ」
思わずルークの肩が動く。私は促し、席を立って二人を迎えた。
「いやすまない、前の仕事が少し遅れてしまいました。お待たせしましたな」
「ご多忙とは存じておりました。お時間を頂戴し恐縮です」
「この機にお断りすることなどありません。どうぞおかけになってください。ほら、ティアも」
「……はい」
ぎこちなく、互いに向かい合って席に着く。ルークはティアを見ており、ティアは少しだけ俯きながら、時折顔を上げてルークを見ている。
「キムラスカへお行きになられたのですな。調印はいただけましたか」
「ええ。ただ、ルークという名のままでは何かと不便を被りますので、新しい名の元に存在証明を得させていただきました」
「なるほど。お伺いしても?」
「リュカと。古代イスパニア語を現代語に訳しただけではありますが」
「なに。根源たるものは名が変わっても不変でしょう。貴公に新たな光が灯らんことを」
テオドーロ市長の言葉にルークがはにかむ。ずっと、顔は青ざめているようだった。とりとめのない会話を私と市長がする横で、ルークは長く細い息を吐きながら顔をうつむけていた。そして顔を上げる。ティアと無言で目を合わせている。
「市長、よろしければ我が国王より預かりました親書についてお話しさせていただければと思うのですが」
「ノヴァ保護施設の件ですな。承りましょう。ティア、リュカ殿と少し外してくれんか」
「えっ、……は、はい。かしこまりました」
促され、二人が議会室の椅子を立つ。「控え室に」とティアが呟き、ルークはそれに頷いた。ティアの目が私を見る。私は微かにだけ頷いた。彼女ならば気づくだろう。
実際、ユリアシティ周辺ではノヴァの確認があまりされていない現状から、保護施設の設置や条約の例外対象に含まれている。そのため他地域に比べるとグレーゾーンとも言える対応が多く存在し、それを明文化させるための話し合いの場が何度か持たれていた。今回もピオニーからの親書を受け取ったテオドーロ市長から、中身を改めて議会を通すと約束を取り付けた。元はユリアの預言を順守することが「正常」であった地域だ。今度の議会とやらもそれほど期待はしていない。クリフォトに浮かび続けたこの土地を、どう扱うかはマルクトとキムラスカの水面下での問題でもある。
しばらく話していると一人の職員がティーセットを手に入室してきた。優し気な印象の、鳶色の髪をした男。市長と、私と、今は席を立った二人の分。セットを終えると無言で出て行く彼を私は知っている。
彼はティアと同じくテオドーロの補佐をしている。そしてティアの夫なのだ。

テオドーロ市長の元に二人は戻ってこなかった。
「積もる話もあるでしょう」
と告げた私に、市長が見せた表情は子を持つ親を思い浮かべさせるものだった。恐らく彼は知っている。私はここでも黙ることにした。
会議室を出てすぐ、角を曲がるとそこにはティアがいた。彼女の目には涙が浮かんでおり、それを拭った様子も垣間見えた。ティアは私に気づき、すぐに表情を引き締めると、しかし堪えきれず、両手で顔を覆った。
私は彼女の肩を抱き、盾になるよう歩いて通路奥の人目につかない場所まで連れて行く。
「無理をする必要はありません。貴女につらい役割を与えてしまいました」
「いいえっ……! ……いいえ、そ、そんなことはありません。私は、……感謝しています。自分の言葉で、彼に伝えられる機会を与えてくださったこと、本当に……」
喉が詰まるような声で悲痛に言葉を紡ぐ。それなのに私を罵倒せず、礼を述べるのは彼女の本質だろう。声を堪えて泣くのも、旅で見た彼女の気丈さを思えば理解できた。ここで私が出来る事は何もない。彼女の肩が震えるのを慰めるのは私の役割ではない。
「ルークは……」
何とか落ち着かせようと深呼吸を挟みながらティアが言う。
「……ルークは、桟橋の方へ向かいました。艦までは戻っていないと思います。彼も、……」
「分かりました。教えてくださりありがとうございます」
「……カーティス中将」
彼女は私への対応をアニスよりも徹底していた。私はなるべく平坦な感情を浮かべ、両手を後ろに回して立つ。
「どうか、ルークを一人にしないでください。貴方は……」
また顔を覆う。近くのベンチまでティアを支え、座らせる。手に持ったハンカチはくったりとしていた。また深呼吸をする様子を眺める。私の背後で、ティア、と彼女を呼ぶ声がした。
振り返ると彼女の夫がいる。彼はどこまでを知っているのだろうか。私と彼女の今の状況はどう見えているだろうか。確か、彼もここユリアシティの出身であり、テオドーロ市長の遠戚だったと記憶している。それだけしか彼に対しての情報は無い。だが、迷った末にこちらへと歩いていくる気概はあるのだと、僅かに笑って心の中で印象を上書きする。
「失礼。昔話も楽しい事ばかりではありませんので、少々哀愁を共有していました。よければ彼女を預けても?」
「……はい。勿論です」
「ありがとうございます。……ティア。貴女は素晴らしい女性です。それだけは忘れないで下さい」
「……っ」
彼女の傍らに寄り添うのは彼女の夫だった。世界の創りにそって生まれたその関係性に既視感を覚えて吐き気がする。私はそれを見送り、足を桟橋へと向ける。艦が止まっている港のほうだ。いつかそこで、私はアッシュと共にこの町を去り彼を見捨てた。
桟橋の入り口に彼はいた。右を向いているから、私に見えるのは白い眼帯の側で、果たして彼がどんな表情をしているかは薄く開かれた唇だけでは分からなかった。
「ルーク」
呼ぶと、彼は振り返る。医師に言われた通り、体ごと少しだけこちらに向けて。その目が想像よりも平時と同じように見えて、その実感情が浮かんでいないだけなのだと悟った。彼の左隣まで歩き、並んで立つ。
「……ティアから聞いた」
「……」
何を、と問えばよいのだろうか。どこまで。どのように。何も正解などありはしない。
「結婚、したんだって。ユリアの子孫を残したいって、言ってた」
「……そうですか」
それは初耳だった。想像できることではあったが。きっとルークが彼女と何を話したのか、どんな雰囲気を纏っていたのか。私は死ぬまで知ることはないだろう。ルークが桟橋の手すりを両手で握っている。何かを堪えているのが伝わる。
「……泣くかと思ったんだ。俺」
相変わらず子供の感情は分からない。私は右に立つルークを見下ろす。片目だけ見える緑の瞳はひどく遠くを見ていて、明るいはずの昼日中なのにこの場所だけ陽光が消えたように暗く感じられる。
「でも、先にティアが泣いちまって。そしたら出かかってたのが、何か、引っ掛かったみたいになって、……出てこなくなったんだ」
ルークが手すりを掴む両手に顔を伏せる。声はまだ震えているだけで、確かに泣いていないのだと伝わる。
「……苦しいな」
「……一人になる場所が必要であれば、艦内で用意できますが」
「いらない」
はっきりとした声だ。私は、直前にティアに言われたことを思い出していた。私は彼女と彼の感情が分からない。帝国立の研究者のレポートが不要であること判じることができるのに、たった一人の人間が望む正解が分からない。
「ごめん。……ちょっとだけなんだ。少しだけ苦しいんだ。だから、そこに居てくれないか。……少しで済ますから」
何の確約も無い言葉で乞われる。私は、遠くに見えた自軍の警備兵に、引き続き待機の指示を手で示す。警備兵は敬礼して艦内へと戻っていった。私は、半歩だけ彼の傍に近づく。
「何かが引っ掛かっているのなら吐き出してしまった方が良い」
「……うん、……うん」
頷くが、腕に伏した体は動かなかった。堪えている。私は、どうしたものかと思い、あたりを見渡すが人気は殆どない。心の中でため息をつき、そのまま懐からハンカチを取り出す。そして子供の伏せた顔の下に挿し出した。するとルークの顔が上がる。酷い疲労が浮かんだ表情だった。
「……ジェイド?」
「持っているのなら自分のものを使いなさい」
言うが、ルークはハンカチを見て、私を見て、おずおずとそれを受け取った。そして目の下に当てる。途端、彼の緑色は潤みだし、大きな粒となって涙が溢れた。
「……ぅ、く……」
再び顔を伏せる。今度はハンカチに押し付けるように。私は彼の眼帯を外してやり、代わってそれを懐へと仕舞った。濡れるのは良くないだろう。拭うのにも邪魔になるはずだ。
隣で子どもは泣いていた。私は、彼が泣き止むまで傍に立ち、私たちの間に会話は浮かばず、ただ穏やかな波間と震える苦し気な声がそこに揺蕩うだけだった。