世界に生まれる
16
翌朝。良く晴れた空を背景に、アニスは約束した時間丁度に迎えに来た。その際昨晩の教団服ではなくシンプルなワンピースを着ており、無事ルークを動揺させることに成功していた。
「こんな朝早くから自分のために時間使えるなんて嬉しくって。すっごい早起きしちゃいました♡」
馬車の中、両手を合わせて小首を傾げながら幸せそうに彼女は言う。その爪先は綺麗に整えられ、磨かれて光り、ルークがしげしげと見つめるものだから笑ってそれを見せてくる。
「本当なら色も塗りたいんですけどね。今日は午前だけしかお休み取れなかったから、せめて磨いておこうと思って」
「すげぇな……やっぱアニスって器用だよな」
「そんなに珍しいかな? ナタリアだったら専属のメイドさんがいるだろうけど、普通の女の子はだいたい自分で出来ちゃうと思うよ」
ルークが恐る恐る磨かれた爪を撫でたものだから、その仕草がおかしかったのかアニスが笑いを深めた。この二人のやりとりは、昔は兄と妹のようで、今は姉と弟のようでもある。
「ところで目的地がどこにあるか、伺っても?」
訊ねればアニスが目を輝かせた。
「新しくダアトにできたカフェでブランチしましょ!」
この申し出があったために私とルークは朝食を摂らずに来ていた。以前から巡礼者向けの施設が多く存在するダアトだったが、今や自国以外に行ける制限の少ない観光地の一つとして発展している一面がある。
アニスが予約していたそのカフェも例に漏れず観光者向けの様相で、かつどちらかといえば女性向けの外観を擁していた。
「このメンバーで入るにはいささか趣向が可憐ですね」
「私がいるので大丈夫ですよぉ」
「すごい人気なんだな。結構並んでるぜ」
「両手に花で羨望の眼差し受けるの最高ですぅ」
私とルークそれぞれの腕を引きながら店内へと入る。案内された席は窓際に面していて、明るいながらも衝立で仕切られた配置は他の客層が気にならない。渡されたメニューにはおよそ小ぶりな量が盛られていると予想できる洒落た品名が並び、旅の頃であればそれに苦言を呈しただろうルークも今となっては丁度良い量になってしまっているか。
「へー、種類あんだな。何にしよ」
「うーん、私も……中将はどうします?」
「コーヒーと、今アニスが悩んでいるもののハーフサイズを。朝はあまり食べませんのでお味見で選んでいただければと」
「はう~、中将のそういうところ大好きです~」
結局ルークは軽食を選び、ハーフサイズのクレープとミニパフェはアニスの前に並べられた。「フローリアンと一緒だとお世話するのに忙しくって」「団内の友人とはお休みが合いづらいんです」と軽やかに会話を繰り広げるアニスと、適宜拾っては言葉を返すルークがいるため、私は特に会話に混ざらずとも場は穏やかに明るかった。空になったアニスのカップに紅茶を注いでやる。礼を言ったアニスは、そしてすぐに大きく溜息をついた。
「はあ~、こうやって中将やガイの対応に慣れちゃうと、他の男性を見る目が厳しくなっちゃって大変なんですよぉ」
「おや、褒められてしまいましたか」
「だぁって多感なお年頃に? あんな紳士的な振る舞いを見せつけられちゃったら? その辺の年齢が近い男性なんて目に余るところが多いというかぁ」
「言いすぎだろ」
「ルークはそっちの枠入りかけだよ」
「はあ!? なんでだよ」
「あはは、嘘ウソ。どっちかというとパーティメンバーはアニスちゃん的オッケーライン寄りだから」
独自目線の評価の対象にされていたとは。明確に気づいていなかったにしろそれほど意外性は無かった。彼女はきっと一人でも逞しく生きていけるタイプだろうが、どちらかといえば結婚を望む意思は旅の頃からあったように思う。それは両親が関係しているだろう。お会いしたときに感じたのは、夫婦仲はとても良い方たちだろうということ。何かと身分を持っていたパーティの男性陣へのアプローチが本気であったかは定かではないが、よい年齢に向かっている彼女の口からそういった話題が出る事自体不思議ではなかった。
「ナタリアも結婚しちゃうし、ティアは教団を辞めてユリアシティに帰っちゃうし、私だって寂しいなぁって思ったりなんかしちゃうんですよ」
「……ティア、ローレライ教団辞めたのか」
かた、と、ルークの持つカトラリーが下りて皿に乗せられる。アニスが一瞬だけ私を見てから、そうだよ、と首肯した。
「三年前のタタル渓谷のあとにね。それまでは第七音素士の再就職斡旋の部署に志願異動してたんだけど、あのタイミングでユリアシティに戻る気持ちが固まったみたい。正式に辞めちゃった」
「今は何してるか知ってるか?」
「確かテオドーロ市長さんの補佐だったかな? ユリアに関する書物の編纂だとかのお仕事だった気がするけど、会ったときってあんまり仕事の話しないから詳しくは分かんないや」
「……そっか」
片目だけの緑色が私を盗み見る。ただそれだけの仕草で、私がそのことを知っていたかを如実に問うていた。しかし言葉は出てこない。そのため、自ら答えはしないことにした。
「全員が異なる土地に去ったのはお会いした時お話しした通りです」
「うん。そうだな」
食事が再開される。私が言葉にしないということがどういった意味を持つのかを、この子供は以前からの旅の間に理解したという事だろうか。つまるところ、これ以上訊ねるのを辞めたのは私のそういった今までの身の振りによるものだろう。コーヒーを一口嚥下する。
「そうだ。フローリアンとトリトハイム副司祭にはお会いになりますよね? 今日一日はダアトに泊まるって伺ってますけど」
「ええ、その予定です。もしお二方のスケジュールが合えばお願いできますか」
「勿論です。あ、でもちょっとだけ確認したいので、近くの警備兵に言付けてきますね。しばしお待ちを~」
颯爽と店を出て近くの警備兵を捕まえる様が窓の外で繰り広げられる。今日ダアトに一泊することはルークに伝えていた。流石に艇での連泊は体に良くはない。
「なあ、ジェイド」
意を決したような声で呼ばれる。私は緩慢に彼を見た。
「なんでしょう」
訊ねる。正面から人を見られるようになったのはかつての旅の途中からだった。特に私に対して。苦手意識があっただろうに。
「今日泊まって、船に乗ったら、ユリアシティに行くのか?」
肝要な箇所は外した質問だった。だが考えた末に出てきた言葉がそれならば私も答えるしかない。
「ええ。グランコクマへ戻る前の最後の経由地です」
久しぶりに会ったフローリアンは酷く機嫌が悪そうだった。彼は情緒がなかなか成長しない。赤子のような感情を持ったまま、いつかの導師イオンと同じほどの年齢に見えるのだから、いつかのルーク・レプリカを見ていたときと同じ気持ちが湧いてしまう。まだ建前や堪え性を備えられていないのだ。お陰で一時的にでも彼からアニスを奪った私達に外面を向ける事が出来ないでいる。それでも、四年の間で感情が増えたのは良い傾向だった。
「お久しぶりです、導師フローリアン。トリトハイム副司祭」
「お久しぶりです、カーティス中将。グランコクマでのノヴァ条約締結の調印式以来ですか」
フローリアンの様子に気圧される子供を置いて副司祭に挨拶を済ませる。訊けば、やはり世界中での信者の数は目に見えて減っているらしい。だが、新しい教義に賛同した信者も少なくない数が残り、以前の大詠士モースが掲げたものとは別の新生ローレライ教団としてなんとか保てているのだという。
「心の拠り所を求めるのは人の性かもしれません」
それを宗教に求めるか、別なものに求めるか。その違いでしかないのだろう。
ルークはといえば、教団服に着替えたアニスがフローリアンを宥める姿を少し離れて眺めていた。そして弱く私の袖を引く。見下ろせば、小さな声で、なあ、と言葉を漏らした。
「フローリアンってアニスが好きなのか?」
意外な質問だった。それにこの子供が気づくとは思わなかったのだ。だが、フローリアンが抱えている情が果たして親に対する幼子の独占欲なのか、色恋沙汰に絡むものなのかは、私も推測の域を出ない。ただ彼は名付け親でもあるアニスに依存しているきらいがある。それは現状悪い方向に進む様子があまりないものだから、私も然程気にしてはいないが、いつかそれが何かに作用することがあれば口を出すこともあるだろう。それはそれとして。
「さて、どうでしょう。鳥の子どもは殻をやぶり初めて目にする動くものを親だと刷り込まれるそうですが」
「そういうやつかぁ? 分かんねぇな……」
うーん、と控えめに唸る子供の様子を目を細めて見る。この先、グランコクマに戻るまでにあと一山、超えなければならない試練があることも感じとってはいないだろうか。
ローレライ教団に戻ればアニスは多忙の身となってしまった。結局午前の時間だけを共に過ごし、謁見を交えたあとは私と子供が暇を持て余すことになる。ダアトのノヴァ保護施設を視察したが、さほどグランコクマの状況と差異があるわけでもなかった。
「そういえばキムラスカのほうの施設、見なかったな」
思い出したように子供が言う。
「規模の差はあれある程度は同じようなものですよ。そういった施設規定を整備することもノヴァ条約には織り込まれていますから」
世界は冷戦になっている。大きな変動が起きて星が疲れ切ってしまった今は、その修復に力を注ぐことを諸国も優先しているのだ。だがこれが落ち着いたらどうなるだろうか。これ以上増える事はないだろうノヴァであってもその扱いが容易であるわけではない。未だ根強い差別意識はあるし、被験者となってしまった者の家族たちの対応も場合によりけりだ。全てが前向きなものではない。そして、エネルギー源確保のための施策と同じように、ノヴァを保護するための資金も常に潤沢にあるわけではない。
必ずしも歓迎されないわけではない。だが無条件に存在を許すという、それだけの余裕が保ち続けられない。星が止まれば世界も止まるのだし、それを阻止しなければ自分たちに全て影響は出てくるだろう。星の命を長らえさせることが一先ずの全世界的な人々の課題である。その課題をこなしながら、新しく生まれた彼らを優先することはひどく難しい問題だった。時折ままならない余裕の無さが吹き出すように事件も起こる。それを聞いたら子供は悲しむだろうか。私は既に麻痺させてしまったのだけど。
ダアトの宿でルークが日記を書いている。彼だけが相変わらずこの世界で特別な存在であり続けている。第三のルークが新たに存在を始めた今、第七音素の具現化であるローレライとの振動数が同一である個体が彼一人となってしまった事に、気づいているだろうか。気づいていないかもしれない。それとも、その事実は彼にとってあまり重要ではないのか。
既に星の音素は減り始めている。新しいエネルギー源の開拓を急がされているのはそのためだ。この星は終焉に向かっている。そういった主張を持った集団が現れ始めているのも事実だ。
そんな世情の中に改めて戻ってくるとは。それほど生きることを彼は望んだのか。私が成し遂げられなかった彼の願いは、果たして今叶っているだろうか。この短い旅の終わりに、彼が新しく生まれたことを後悔しないよう願っている自分がいるのだと、自覚して、心の中でため息をついた。