世界に生まれる
14
幾つかある書類の中から一冊のレポートを取り出す。本国から持ち込んだ、帝国立の研究所が出した代替エネルギーに関する論文だった。目次を眺め、初めの数ページに目を通し、最後の結論部分を読み込む。そして眼鏡を外してため息をついた。
危うく無駄に時間を失くすところだった。立ち上がり、暖炉にくべ、燻る熾火で紙の束を燃やす。
よくあることだった。ここまで生きてもあまり賢い人間に会うことは出来ない。軍施設に隔離されたどこぞの鼻垂れのほうがいくらもマシな話をするだろう。著者が以前提唱していた説はある程度見どころはあったのだから、今回はどうだろうと取り寄せていたのだが、どうやらあれが上限値だったらしい。凡庸な天才ならある程度数は足りている。
鼻垂れの考えていた機関の図面を思い出しながら、帰国した折にはどう改良されているだろうかと目測を立てる。取り回しを考えれば作業効率が犠牲になりやすいのは理解していて、だがそれでは許容できないのだ。少なくとも八割が最低ラインだろう。機関自体の生産にかかる費用についても悩ましいものがある。事業が事業だけに、スポンサーはいくらか見繕えるが多いに越したことはない。誰でもいいわけではないのだし。今度は何を出汁に炙り出せるだろうか。どうせ持て余している私財ならば有効活用させていただかなければ。
ルークの眠る部屋から物音と動く気配がした。ややあってこちらへ出てきたルークは、少し眠たげな様子を残したまま私の向かいのソファへと座る。私は手元にある書類を読むことを優先させた。ルークがこちらを見ているのには気づいていた。
「……結構寝たと思ったんだけど、そんなに経ってなかったんだな」
「あまり長く寝ては夜寝つけませんよ」
「うん」
まだ言葉がぼんやりとしている。目覚めきっていないのだろう。赤子のようだと茶化したつもりが霧散して、仕方なしに視界の端に子供を置きつつ、放っておこうと書類に視線を戻す。
そこでドアがノックされる。私が顔をあげ、ルークがはっきりと私を見たから、思わず目が合ってしまった。控えめなノックだった。それがもう一度鳴らされる。
「どうぞ」
私が返事をするとドアは静かに開かれた。そこに立っていたのはダークグレーのマントを羽織った青年で、更に言えば、そこからこぼれ落ちる鮮やかな赤毛が彼が誰であるかをたらしめている。
「あっ」
ルークが思わずソファから立ち上がった。私は瞬間的に考え、同じく立ち上がることにした。
「これはこれは」
取り去ったフードの下にはルークと同じ顔がある。伯爵殿直々のお出ましとは。予想はしていても現実味はなかったのだが。険しい表情の眉間には皺が寄っており、ただそれだけでも彼がアッシュを思い出させるには十分だった。
「どうぞ中へ」
「……非公式だ。そういった扱いは御免被る」
「それは失礼しました。一先ず中へ。この場で話をしては兵士が震え上がってしまいます」
ドアを挟んで立つ兵士が最敬礼を堅く向けているのを見て、ため息をついた伯爵は入室しドアを閉めた。ダークグレーのマントの下は、軽装ながら貴族然とした質の良い服で、つまるところ然程お忍びは得意ではないのだろうと察する。
テーブルを片付けながらソファを勧め、私はルークの隣の一人掛けに腰を下ろした。
「お茶でもいかがですか」
「構うな、用件を伝えに来ただけだ。……」
告げた割にすぐ彼は黙った。前髪を上げていた頃はもう少し似ていないのだと思い込めた姿形は、今私の隣に緊張と共に座るルークと全く同じものでしかない。
「お前に渡す物がある」
ようやくそう口にする伯爵が見るのは私ではなくルークだった。え、と薄く開いた唇から間の抜けた声を出し、驚いたルークは伯爵を正面から見つめ返している。
「俺に?」
「……今は俺の所有物となっているが実際は違う。これを手元に置き続けるのは後味が悪い」
伯爵は懐から数冊のノートを取り出した。
それは現在、キムラスカの国宝とされており、王城内の展示室では写本が置かれている書物だ。ルークの日記。長い旅の間、ルーク・フォン・ファブレが、事細かに非常に主観的視点で書き残した貴重な記録である。
「あ!」
ルークが思わず立ち上がる。
「キムラスカの所有になったのでしたね。確か、国宝扱いになったのでは? 見たところ原本のようですが」
表紙の端は擦り切れ、角は曲がり、旅の間の扱いを示すように少々くたびれた数冊のノート。本来なら白手袋でも嵌めて扱われる対象になっているはずだが、それを知らない当の持ち主は、バッ、と勢いよく全部を取り上げる。
「な、なんっ……」
「彼が旅をしたルークであると証明するために開示が必要だったのですよ。勿論立会人などその対象は限られていましたが。あの旅を通しての記録はその日記しかありませんから、伯爵の証言との照合に使用しました」
「読んだのか!?」
「必要な箇所を必要な分だけです」
「……つまり……」
「いやあ、ミュウが書いたページの解読は少々難航しましたよ。聖獣が書く習得間もない文字も人の子と同じく鏡文字が混ざるという、貴重な研究資料にもなった書物でした」
「俺の日記だっつーの!」
怒りか羞恥か。恐らくそのどちらもだろうが、顔を赤らめたルークに伯爵があからさまなため息をつく。ぐ、と言葉を飲み込んだルークは、ソファに座り直し、手の中の日記を少し弄るような仕草をした。
「そうだ、お前の日記だ。だからお前が持っておけ」
「けど……これ、今はキムラスカのものなんだろ」
「元の所有者はお前だ。俺は預かっていただけだ。返すあてもなかったが、手放せて清々する」
「……アッシュ」
思わず溢した呼び名を彼は否定しなかった。ただ、小さく口角が上がったように見えた。
「ですが伯爵。国宝が失くなったと知れば騒ぎになるのでは」
「今も厳重な箱に入れられてるんだ。その箱は『所有者』の俺しか開けられないようになっている。いざとなれば羞恥で燃やしたなりどうとでもなる」
まあ写本があるのだ。伯爵自身は構わないのだろう。ルークを見れば、また私が汲み取れない表情でノートの束を見下ろしている。
いつだったか、日記を書くために何でもいいからノートが欲しいと言われた時を思い出す。彼にとってその行為は毎日の仕組みの一つで、当たり前に存在する習慣だった筈だ。また記憶が失くなったときのための予防線。失くした記憶などそもそも無かったのだが。
「ありがとう、ルーク」
ぽつりと。子供が言葉を落とす。伯爵は何も答えず、ひどく間を開けてから、ああ、と低く頷いた。
本当に用件はそれだけだったのだろう。彼は名残惜しさの欠片も無く去っていった。子供はといえば、ノートを抱えて部屋に籠ってしまった。眠ったわけではないだろう。
ルークの日記が開示された時のことを思い出す。左利き特有の癖のある字をどうするのかと伯爵に訊ねた折、彼は普段は右利きだが、筆記と武器だけは左手で行うのだと知らされた。どこまでルーク・レプリカの情報が混ざっているのだろうか。以前に見た実験体チーグルではそのような結果が出ていただろうか。今思えば、子供の言っていた『自分から何かがアッシュに流れ込んだ』ことと関係があるのかもしれない。
文字の照合は問題なく、伯爵の中に宿るレプリカの記憶は流暢に言葉を紡がせた。ルーク・レプリカが旅の中で残した足跡を、彼ではない者の口から彼の声で、聞くことは心穏やかなことではなかった。
いつであれ子供の書いた文章には感情があり、日記の最後、彼が書き留めた言葉を私は未だに覚えている。そのページを見たのは伯爵と、旅の仲間を代表して同席していた私だけだった。ナタリア、法務官、その他の立会人たちには必要な箇所だけを開示した。今、キムラスカで保管されている写本は伯爵自身が書き写したものだ。私達や世界にとって都合の悪いことは全て省略させたのを確認している。
私が持参していた書類を粗方片づけた頃、ルークが再び部屋から出てきた。その手に日記は無い。あの部屋には暖炉が無いから燃やされることもないとして、鞄の奥深くにでも仕舞われたかもしれない。
「……あー、あのさ、ジェイド……」
「あなたの鞄にある革袋の中をご覧なさい」
へ、と口だけが動いて驚きの声は出てこなかった。緑色の双眸が瞬きをする。
「え、何が」
「日記を再開したいのでしょう。あなたの鞄のどこかに革袋が入っています。それがあれば話が早く済みます」
もう一度瞬きをすると、ルークは部屋に戻り、すぐに革袋を手に飛び出してきた。荷物を開いて何があるかを全て確認していなかったのかもしれない。中身の分からない革袋に対し、気を遣って開けなかったか、目に留まらなかったか。彼の今の精神状態は測り切れない。こうした指示が今後必要になることもあるのかもしれない。
「これか?」
私が頷くよりも先に、ソファに座り膝上で革袋を逆さにする。転げ落ちてきたのは装飾された表紙をもつハードカバーの日記帳と、キャップに緑色のあしらいが入った万年筆だった。これは私も初めて見るもので、ルークの余りに気が急いた所作で現れた、高品質な文具に思わず目を細める。
「粗雑な扱いはしないように」
「いや、ちょっとこれは豪華すぎんだろ。何だよこれ。うわ、鍵ついてるじゃんか」
表紙に簡易な施錠があるのは飾りだろう。ついている鍵を見ればわかる。それでも、今まで安価なノートを扱っていたルークからすればグレードアップが過ぎたのか。狼狽えが目に見えている。
「それもオービルが見繕ったものですよ」
「は? どんな注文したらこんな豪華になるんだよ」
「私は『彼に相応しいと思うものを』と依頼しました。オービルからすればそれがあなたにふさわしいということなのでしょう」
「いやこんなん、逆に書きにくいって……」
そう言いながらも、きゅ、と音を立てて万年筆のキャップを外している。すぐに使うだろうからと、これも過剰な包装はしないよう取り付けていた。試し書きか、一ページ目に日付を書いたルークが再び気を高揚させたのが伝わる。
「すっげー書きやすい。なんだこれ。インクも緑だ。あんま見ない色だな」
「きっとあなたの目の色が彼の印象に残っていたのでしょう。帰ればあなたの部屋にその色のインク瓶が置かれていますよ」
茶化し、間違えたと思った。これではまるで、この旅程が終わってもルークが私の邸に留まることが確定しているようではないか。
しかしそれに気づいていないのか、ルークはもう暫く文字を書き、素早く書いても手にインクがつかない速乾性に驚くのに忙しいようだった。私は聞こえないように細く息を吐く。中身を読まれるのは嫌がる割に、誰かが居ても気にせず日記を書くのは旅の間もあった事だった。私は手持無沙汰に立ち上がり、外を警備する騎士に時間指定のルームサービスで夕食を頼むと、それが届くまで、残った書類を片付けながら、感触を楽しむように万年筆のキャップを開け閉めするルークを眺めていた。