BD910

世界に生まれる

12

バチカルのキムラスカ王城は常の通りそこに聳え立っていた。
王城を右手に見ながら、セシル中将の立つファブレ公爵邸前へと向かう。上下の移動が多いバチカルにおいて馬車は然程有益な移動手段ではなかった。
「お待ちしておりました」
敬礼と、セシル中将が部下に合図を送り公爵邸の門が開く。この光景を幾度か目にしていた筈なのだが、これほど門の音が重々しく聞こえたのは初めてかもしれない。
私の後ろでルークが息を吐いたのが分かった。緊張しているのだ。それを無視して先を進む。私と子供が入ったところで門は再びその堅い口を閉じた。
「こちらへ」
招かれる先は応接室だろう。概ねの間取りは理解しているが、セシル中将の案内に従うことにする。視線だけでルークを伺うが、彼もこちらを見ていたようで、片方しか見えない緑色の目が不安げに揺れているのが分かった。
邸内の警備はいたって厳重だった。これがノヴァに対するものなのか、私に対するものなのか。分からないふりをしている方が賢明だろう。
「公爵様、公爵夫人様、マルクト帝国よりジェイド・カーティス中将がいらっしゃいました」
扉の無い応接室の、立ち並んだ柱の向こうから、ロングテーブルの上座に座っていた公爵と夫人が立ち上がる気配がある。私は一歩下がり、ルークの背中に手を当て、僅かに押し出すようにして促した。ルークがこちらを見る。私は何も言わず、もう少しだけ強く背を押した。
「……ルーク!」
声を上げたのは夫人だった。ベッドから起き上がれたのだろう、ただ、記憶にあるよりも確かに青白い顔をしていて、それであって頬は紅潮しているのが見て取れた。淑やかに、夫の手を借りながら急く気を抑えられないようにこちらへと向かってくる。思わずルークが駆け寄った。
「母上……っ!」
「ああ、ルーク……本当に何も変わらないで……、その目が見えなくなってしまったのね……なんてこと……」
夫の手を離れ、駆け寄ったルークに縋った夫人は、思わず涙を浮かべながらルークの眼帯に隠された目の辺りに指を沿わせた。私はその奥に立つファブレ公爵を伺い、こちらは最敬礼を、あちらは軽い礼を済ませた。
「シュザンヌ。一度座らないか。……ルーク、お前は母上の隣にいてやりなさい」
「でも、俺……、はい。分かりました」
母親の手を引いてルークが応接室へと向かう。私はその後に続いた。ファブレ公爵はセシル中将へ警備に戻るよういいつけ、中将はそれに従った。恐らく私たちが帰る頃にはまた戻ってきているだろう。
示された席に座り、夫人が浮かべた涙をハンカチで拭うのを眺める。ルークはたどたどしくその手を取っている。私は公爵へと向き直り、明日正式に調印予定であるノヴァとオリジナルの間で結ばれる証明書を開いて渡した。
「この度はお時間を頂戴し感謝致します。明日の謁見も急なお取り計らいをいただいたものと存じます」
「構わぬ。これはそれほど急を要する話であった。そうであろう? カーティス中将」
「恐れ入ります。こちらが明日、ルーク・フォン・ファブレ伯爵に調印を頂きたい証明書です。内容は一般のノヴァとオリジナルの間に結ばれるものに、我が国王よりご提案させていただくいくつかの追加項目がございます。ご覧頂き、何か変更をご希望されることはございますか」
ファブレ公爵は静かに調印書へと目を通す。その眼光は厳しく、確かに読み込んでいるのだと知れた。
「いや、無い」
それは、少しばかり予想外の言葉だった。何かであれ追加や変更することがあるだろうと踏んでいたからだ。だが表情には出ていないだろう。無いなら無いで僥倖だ。
「畏まりました。では、正式に明日、彼を御国伯爵のノヴァとして認めていただけますようお願い申し上げます」
「ああ」
「……カーティス中将」
小声でルークと話しこんでいる様子だった夫人が、私の方へと体を向けた。ルークもこちらを見ている。少しだけ体をこちらへ向けて。この子供はよくシュウ医師の言いつけを守っている。
「ルークは、……この子は、これからどうなるんでしょう」
それは皆が気になる事なのだろう。二度目となるその質問にも、私は、分かりません、と答えた。
「彼はそれを見つけるために、このバチカルへと参りました。明日の謁見までにはまだ時間があります。そして、謁見を経てからも。四年という月日は容易にあらゆるものを変えていきました。彼は、一度世界を見て回り、それからこの先の事を決めたいと考えているそうですよ」
促すようにルークを見る。ああ、と小さく頷いたルークは、自分の腕に添えられたままの夫人の手を握り、父親であるファブレ公爵を見つめ、
「少しだけ、俺に時間を下さい。俺がどうしたほうがいいのか、俺が自分で考えるべきだと思うから」
その後は静かな話がぽつぽつと続いた。ナタリアと伯爵の結婚式が近づいている事、その準備や、跡継ぎとしての勉強のためほとんど伯爵は出払っている事、ただ、今日は敢えて席を外している事。夫人はルークのどんな小さな言葉も聞き漏らさぬようにと身を寄せて話を聞いていたし、ファブレ公爵は、まだ旅の頃のわだかまりを溶かしきれていないのか、少しばかり堅い印象ながらもかつての息子であるルークレプリカの様子を時折目を細めて眺めていた。私は場違いでしかないのだが、ここで席を外すタイミングも無い。時間にすればほんのわずかな謁見ではあったが、セシル中将が迎えに来るまでの時間、微かな昔を思い出すような三人の様子をどこか遠くに感じながら見つめていた。
帰る折には門まで夫人が出てくるものだからセシル中将が動揺していた。ファブレ公爵が自らの腕につかまるよう手を添えながら、私とルークが昇降機に乗り込み、見えなくなるまで、二人は門の前に立ち続けていた。

「では、また明日お迎えにあがります。恐縮ながら謁見の際には式服をご用意いただけますよう、お願い致します」
「畏まりました。ご苦労様です」
「いいえ。何かあれば警備の者に申し付け下さい。私も待機しております。それでは」
式服を求められるのは想定範囲内、もとい、当然であるだろうと思えた。オービルに用意させた荷物の中に、かつて見た子爵の服ほどではないにしろ、マルクト式のフォーマルな一式が入っている。果たして子供が気に入るかは別だろうが。
「見たよ。あれだろ」
ルークの部屋に入ってみれば、荷物鞄へと形よく収められていた式服はきちんとクローゼットへと吊るされていた。どう扱うかは分かっているらしい。その感想が顔に出ていたのか、なんだよ、と拗ねたような怒ったような声で抗議される。
「いえ、一番にクローゼットへ出しておくよう伝えるのを忘れていたのですが、気づかれていたようで何よりです」
「なんかやたら重いから、何が入ってんだって思ったんだよ」
良い生地を使っているからそう皺にはなりにくいが、シャツなどは繊細な生地を使っている。見ればきちんとジャケットにブラシまでかけられていた。いまだにこの子供の貴族として育てられたスキルを見誤る時がある。いざとなれば譜術やホテルのサービスでどうとでもなるのだが。
真っ黒ではない、濃い藍色染めの厚手のジャケットは我が国の軍服を模したデザインになっている。テーラードの形式でも構わなかったのだが、私は軍服で参加することと、子爵の服に近い方が子供も着やすいだろうと思ったのだ。これは言わないことにする。
「なんかちょっとジェイドの軍服に似てねぇ?」
「我が軍の制服に似せて作られていますから」
「やっぱそうなんだ」
しげしげと、改めて眺めていた子供は、やがてクローゼットを閉めてこちらへと振り返る。
「あのさ、ジェイド」
「はい」
「ありがとな、父上と母上に会わせてくれて」
まるで今生の別れのような。片目だけでも彼の表情は解りやすく動いていたが、やはり両眼が見えないとまだ落ち着かないのは私も同じだった。
「許可を出されたのは貴方のご両親の方ですよ」
「そりゃそうだけどさ。一応、礼言っとこうと思って」
かつて旅をした折に、何を考えればその未来で、子どもと二人で再び世界を回ることになると思いついただろうか。
礼を言う事に照れているのだと手に取るようにわかる。だが揶揄することはやめておいた。今はその流れではないと思ったからだ。
そして。
「……腹減ったな」
そういった私の気遣いを無視してくるのがこの子供である。しかし空腹を感じるようになったのは良い傾向だろう。
あからさまにため息をついてみせれば、顔を赤くさせて、なんだよ、と言い詰めてくるのだから、それを遮りルームサービスの冊子を代わりに渡すことにした。