BD910

世界に生まれる

10

ひどく楽しそうだった。早朝迎えに来た馬車に乗るルークは気が浮いているのが見て取れて、それを使用人とオービルが玄関先まで見送っている。私はといえば己の支度も整ったのでコーヒーを飲んでいた。朝の騒々しい出発をリビングの椅子から見送り、馬車の去る音、やがてオービルがリビングへと戻った。両手は空になっている。
「お預かりした荷物をルーク様にお渡し致しました」
「ありがとうございます」
「御用があればお呼びください」
そう言って部屋を後にする。私はカップを置き、眺めていた書類をまとめて携え、ドアの近くの鏡を見て身だしなみを確認すると、自分でドアを開けて出勤のための馬車を呼んだ。そういったことにオービルも慣れている。今日はそんな気分だっただけのことだ。

仕事をしていると時間がすぐに過ぎるので助かる。昨日のように邪魔が入らなければ、流れるように作業は進み、今日終わらせるべき書類と手が空いた時にまとめる予定だった書簡にまで着手できた。まずまず順調だろう。四年前の大災害とも呼べるこの星の転換期に、我が国も多くの国民を失った。優秀な人材など希少でしかないのに、そういった状況に於いては優秀な者から亡くなってしまうのも世の常なのかもしれない。割に私は生き残っている。優秀である自覚はあった。単に運が良かっただけかもしれない。横たわる骸はいずれは我が身でしかない。
もうすぐ定時だがキリがよいところまでやってしまおう。片づけかけの書類を開いたところで、廊下を走る音、ドアの直前で止まり、間があってノックの音が響く。こんな時間に何だ。また鼻たれでも脱走したのだろうか。
「どうぞ」
「失礼致します」
応えれば入ってきたのはよく見る下士官だった。栗毛の彼は比較的物分かりが良いので嫌いではない。その彼が、両手で恭しく一つの封筒を渡してきた。
「速達とのことです」
言って、彼は礼をして出て行った。封蝋はガルディオス伯のもので、自分は去るべきだと判断したのだろう。無論、なるべく早く私と二人きりの空間から逃げ出したいというのもあるだろうが。
ペーパーナイフで開けば、一筆、端的に書かれている。
『予定通り今日ルークはうちへ泊まる。昼食も摂ったが、あまり量は食べなかった。急に動いたせいか熱が出た。あんたが持ってきていた薬を飲ませて今は寝ている。明日の朝、朝食後に送り届ける予定だ。もし熱が下がっていなかったらまた報告する。これで足りてるか?』
あまり気を遣った様子の無い流れるような筆記体で、最後に軽く書かれたガイのサインを見てこめかみに手を当てる。やはり体調が万全ではない。昨日の今日で、食事を再開したところでこの程度ならばまだ良い方だと思うべきか否か。しかしなるべく事柄は早く進めたいところはあって、同時に急いて仕損じる事がないよう慎重さも求められるのだ。短く息を吐いた。予備で薬を持たせておいてよかった。
ノヴァ、というのが今の世界のレプリカへの呼称だ。これは被験者から生み出された彼らを模造だと称するのは蔑視に値するという「高尚な哲学を持った団体」からの抗議が発端で、新たな者という意味を込めた呼称がこの一年ほどの間で広まっていた。マルクトでノヴァを保護する施設に勤めるシュウから処方された薬は、成分だけを見れば品ぞろえの良い一般的な薬師の店でも売っているもので、きっとこれからガイの家に頻繁に出入りするだろうと踏んで、今日の訪問時にルークに持たせたのだった。常備薬だ。本人は中身を見てもいなければ、それが自分のために用意されたものだとも思ってはいないだろう。何か配達の手伝いをした程度にしか感じていないのかもしれない。それが早速役に立ったというわけだ。喜べばいいのか呆れればいいのか分からないだろう。
「……まったく」
開きかけの書類を一度閉じ、間をおいて、再び開いた。今は寝ているのだという。ならば様子を見るのはガイに任せていいだろう。あの男はルークに関しては全面的に信用に足る人物だ。無論、人材の減ったこの国においても重要な人物であることは間違いない。それは我が国が頂く陛下が大変お気に入りで勝手にいろいろと仕事を言いつけるほどだからある種お墨付きだろう。
書類を終わらせることにした。そして残業もすることにした。帰ったところでルークがいるわけでも、あの子供の熱が下がるわけでもない。ならばと常に増え続ける書類の山を切り崩しにかかる。今までの動きが、ルークが現れたことで起こっていたイレギュラーだったのだ。あの日のケテルブルクより前の状況に戻っただけだ。ペンにインクを含ませる。

遅く帰ればオービルに出迎えられた。私の残業について概ね経緯を理解しているのだろう、特に何も言うことはなく寝る前の紅茶を一杯だけ用意すると静かに部屋から去っていった。
着替え、飲み干し、ベッドへ横たわる。眼鏡をサイドボードに置き、目を瞑ると、その日終えた仕事が様々に蘇ってきて、特に何も問題は無いのだと再確認して目を開ける。そして浮かぶのはルークの事だった。あれから私は返事を送らず、ガイからの追伸も来なかったのだから、予測するに熱は下がり今は楽しいお泊りと相成っているのだろう。天井を眺める。この屋敷の客間は私の部屋の真上から少し外れた場所にある。いま、その部屋はどうなっているだろうか。使用人たちがベッドメイクをするだろうから、いつか見たあの子供の部屋のように散らかってはいないだろうが。
全て幼馴染が指摘した通りだった。私はルークを欲している。ケテルブルクであの日感じた高揚の発端を私は理解している。
それでも、私はそれを表に出すつもりはなかった。出ているのかもしれない。或いは幼馴染が聡いのか。ともかくとして、ルーク自身がそれと気づくような下手は打たないと決めていた。何故ならあの子供は既に愛する者がいて、その他にも多くあって、私と彼では似合わない。不釣り合いなのだ。どちらが浮いているか分からない天秤が、果たして正しいものであるかも分からないまま、ただ、口にしてはいけないことがあるのだと昔から分かっている。分かっているのだ。私が求めたものは往々にして手に入らないのだと。
三年前のタタル渓谷で、赤髪の青年を見た時にどこか安堵したのを覚えている。腹立たしくも私の理論は正しかった。そしてどんな形であれ、私が愛した者は必ず消えてしまうのだ。あの時はっきりと自覚した。そのまま時と共に霧散させてしまう筈だったのに。私の手の届く場所にまた愛しいものが現れてしまった。

翌朝。いつも通り家を出た。諸々のことはオービルに任せて問題ないだろう。ルークもあの執事に慣れたようだから、ガイの邸から戻ったときに私がいなくても上手くやるだろう。初見ではやや怯えた様子すらあったというのに。
旅の折にも感じたことだが、子供は老齢の者に好かれる傾向があるようだった。孫と祖父母のそれに近いのかもしれない。
昨日残業したお陰である程度巻いた仕事ができていた。ケテルブルクへ配備するエネルギー供給機関に関する内部会議から執務室へと戻れば、そこには再び幼なじみの王と、その横に、縮こまった様子のルークが並んでソファに座っていた。そうだった。老齢でなくてもこういう手合いにも好かれるのだった。
「何をしていらっしゃるんですか。陛下」
「何って、お前の邸を訪ねたらルークが暇そうにしてたんでな。連れてきてやったんだ」
子供は言葉を発せず、冷や汗でもかいていそうな表情と目だけで私に何かを訴えている。嘆息して指先をこめかみに当てた。まったくこの男はどう料理しても食えないだろう。
「私が出勤しているのはご存知の筈でしょう。よくもまあぬけぬけと。王城に一度戻りましたか? 探されているのではないですか」
「みんな俺がいなくなったらお前に聞きに来るさ」
からからと笑いながら王は言う。これが我が星の二大国のひとつの主なのだから恐ろしいだろう。しかしこういった抜け出しももはや慣れたもので、恐らくはこの施設内の誰かもしくは受付あたりから既に城へと王の居場所は知れている筈だ。またジェイド・カーティスの執務室へ脱走していると。
二人を無視して自分の仕事机へと座る。その動きを終始にやにやと見ていた我が王が言う。
「謁見に来る予定じゃなかったのか?」
「今からその指示の馬車を出す予定だったのですよ」
「なら手間が省けたな。なあルーク」
まだ一言も発していない子供へ王が砕けて話しかける。きょと、と少し驚いたような顔になったのは自然な流れだ。彼にはまだ何も言っていない。
「陛下。私はまだルークに伝えていませんよ」
「なんだ。そうだったのか」
「何をですか」
「今日お前は俺に謁見に来る予定だったんだ。そんでその後軍港からバチカルへ向かう船に乗る。お前の被験者であるルーク・フォン・ファブレ侯爵に謁見するためにな」
私が一言も伝えていなかったことを全てこの幼馴染は話してしまった。私は再度溜息をつく。ルークは一度時が停まったように固まり、
「え!?」
とえも言われぬ声を上げた。
仕事にならないだろう。この男が来た時点で分かり切ったことだった。私は仕事机から彼らの座るソファの対面へと座り、ルークを見た。ルークの緑色の目が私を見る。
「バチカル、行くのか。今日?」
「ええ、これから馬車が貴方を迎えに行き、私の執務室に連れてきてから全て説明をする予定でした。それを全て狂わせることが起きましたが」
じろ、と幼馴染を見る。もしや話していないことを織り込み済みで連れてきたのではないだろうか、この男は? 疑心を傍に置いて、私は改めてルークへと向き直る。
「グランコクマの軍港からバチカルへはほぼ一日かかります。今日このあと日暮れよりも前に出る便に乗り、明日の昼過ぎにキムラスカ着、その翌朝正式な謁見となります。既に手筈は整えてあります。船のチケットも、私たちの荷物も、先方への取次も全て」
「それをルークには話していなかったんだろう? 酷い奴だなぁジェイドは」
「ルーク。貴方だけでなくガイも知りませんでしたよ。貴方の息抜きに水を差すようで憚られました。きっと事前に聞いていれば上の空で過ごしていたでしょうし、それをガイに問い質されても昔の禍根を理由に貴方はガイには相談できなかったでしょう。違いますか?」
尋ねる。ルークは口を噤んだ。きっとその通りなのだろう。おいおい責めるな、と最も戦犯である幼馴染が諫めてくる。まったくもって邪魔でしかない。
「俺のために言わなかったのは解った」
答えたのはルークだった。先ほどから見せていた子供然とした頼りなさは鳴りを潜め、僅かに内唇を噛んで、小さく頷く。
「でも今日か。結構急だな」
「これでも時間を要したほうですよ」
「行くのは俺とジェイドだけか?」
「ええ。そうなります。貴方は今やキムラスカ王国妃となられたナタリアの伴侶たる、ルーク・フォン・ファブレのレプリカ……ノヴァであると、公的に認められにいくのです。ただキムラスカへ通常のノヴァを移送するだけであれば相手国の代理人もしくは身元引受人への引き渡しになりますが、今回においてはマルクトのノヴァに関する代理人である私が同行します」
「まあ今回は特殊だからな。こいつの機転が大いに役立つだろ」
茶化すようにピオニーが言う。私は肩をすくめて見せた。
「過剰な期待はなさらないでください」
「お前以外の誰に期待すりゃいいんだ俺は」
言い捨てるように立ち上がる。そして部屋の隅にうずたかく積まれた本の山をちらと見て、流石にダメか、と独り言をつぶやくと、堂々ドアを潜って出て行こうとする。
「陛下」
「うまくやれ、ジェイド。全部。完璧にだ」
陛下が出て行く。誰一人供もつけていないが、恐らく誰かが途中追いかけていくだろう。なまじ腕が立つだけに無防備になりやすい人だった。
振り返ると、ルークがぼんやりと立っていた。頭の中で整理をしているのか、これから向かうキムラスカへと思考が飛んでいるのか。
「ルーク」
呼べば瞬きをした。
「な、なんだよ」
「陛下の戯れにはほとほと呆れますが、貴方を呼びに行く手間が省けました。少々時間が出来たのでやり残していた書類を片付けたいのですが、貴方はどうしますか」
「どう、って……どっか行ってろってことか?」
「いいえ。どこかへ行ってもいいですし、ここに居ても構いません。ただ何か飲み物が出たりなどを期待しているのならそれは叶いませんが」
「いいよ、そんなの。……ここにいる」
きっと子供は解っていない。それだけの答えがどれほど私に浅はかな喜びを与えているか。仕事机へ向かう。するとそれにルークがついてくる。
「ジェイド、あのさ」
そして言い淀む。何を言おうとしているのだろうか。いくつか予想は立つのだが、何しろいつであれ私の予想の斜め上をいく言動や結果を見せつけてくる子供である。
「なんでしょう」
「謁見の前に、……父上と、母上に会いたいんだけど、できるかな」
それを望むと思い、使いの彼女に渡した書簡にはそのように書いてあった。これも行く船上で話そうと思っていたことだった。それでも、先んじて自ら願ってくるくらいなのだ。彼にとってあの二人がどのような存在であるかを私はもう少し考え直した方がいいのかもしれない。
「分かりました」
既に取り計らっていると伝える事は簡単だった。だがそれは、きっと、彼の気を複雑にするだろうと思えた。それがなぜかは判らないが、恐らく、これが以前ガイの言っていた「空気を読んで動く」ということなのだろう。空気は読んだところで無視してきた人生だった。この子供にくらいは動いてしまうのも構わないだろう。
「謁見は明後日の朝になります。明日の到着後、遅い時間にはなりますが、お会いできるよう取り計らいましょう」
「……ありがとな、ジェイド」
大きく呼吸をしながら、心底安心したようにはにかむルークを見て私は僅かなりと罪悪感を感じていた。幼馴染が積んでいった本の山は業務に関係ない物ばかりで、ルークがその山の中から一冊を取り出すと大人しくソファの隅に座り読み始める。
罪悪感など。とうの昔に消えたものだと思っていたのだが。