世界に生まれる
1
彼が消えてから四年の月日が経った。
あの日交わした約束はまだ守られないままでいる。
冬のケテルブルクの朝は遅い。まだ薄暗く譜業灯のともる街路は雪に覆われ、家人や店番、雇われた者たちが日の出に向けて雪かきに励んでいる。
街中央に据えられたホテルも例に漏れず、定時ごとに作業員が道の具合を確認し、着飾りおおよそ足元の怪しくなった服装であっても問題なく歩けるよう整えている。ホテルの正面を通り、作業員からの会釈に軽く手で返しながら住宅区画へと向かう。この時間ならまだ人も少ないだろう。
エネルギー生成研究に関して、ロニール雪山での案件はマルクトが主体となって行なわれている。吹き荒ぶ寒気、地に湛えるマグマと活火山。そこに漂うエネルギーを扱いやすく還元する研究には膨大な資金が投入されている。そして汎用化の理論構築は素早さを求められ、容易ではないと理解していても要求は緩められない。
現場視察を兼ねて妹に顔でも見せてこいと言われたが、知事と視察団として会合した以外での接触はなかった。妹が私を苦手としているのははっきりとしていて、しかしここ二年ほどの兄妹仲は過去を考えれば良好だった。ただ互いに忙しいのだ。見るに彼女がなにか困っている様子はなく、少しだけ交わした近況を尋ねるような二言三言のやりとりで僅かでも彼女が笑ったから、それで上々と取るべきなのだ。それでも構わなかった。彼女は夫の傍らで安らいでいるようだった。
巡回の警備兵から向けられる敬礼に返す。軍服ではなく私用の服だとしても見間違えられるような風貌ではない自覚はある。譜眼を解いて久しいが、かけることに慣れてしまった眼鏡も、ガラスのはめ込みであってその一端を担っているだろう。
吐く息が白い。呼気が霧散しながら流れていくのを眺める。あと幾ばくか経てば急ぎ足に日は昇り、私はやらねばならない仕事を片付けるため部屋に籠もるだろう。そして夕刻には本国へと戻る艇に乗らなければならない。日々は常に忙しない。
顔を上げる。私は眉根を顰める。
空気が揺らいでいた。
かき乱されている、という感覚が正しいのかもしれない。空気中の音素が、保たれていた均衡を崩し、肌の上をざらりと撫でていくような心地だった。端的には不快で、振り返り見たのは今し方歩いてきた道だった。まだ私の足跡が残っている。点在する街灯と、どこかで雪かきの音がしている。
あたりを見渡すが気になるようなものはない。ロニール山の方角を見るが、音素のざわつきはその頂から溢れたものではないようだ。
コートポケットから両手を出す。むき出しの掌で空気の流れに触れる。ざわつきの発端を探すが、混ざる音素は落ち着きなく指先を撫で、私に必要なことを伝えてこなかった。
不快なさざめきが徐々に収まっていく様、まだ濃く不安定な気配を感じる。その元へと足を速める。人の音が聞こえ始めた住宅街を抜け、子供のいないがらんとした公園を通り過ぎ、知事邸が見えた時には不穏に思ったが、音素の混乱はその邸の方角ではなかった。道を曲がる。
やがて見えたのは旧ピオニー邸だった。私は口を噤む。その邸には今、私が一時的に滞在しているのだ。ホテルを取るよりも格段に安く済み、私は人に干渉されずに済む。
玄関ポーチから街路への雪は既に管理のために同伴させた使用人が取り除いている。塀や花壇へと夜に降り積もった雪が片付けられていたことも、ドアを開いた時既に確認している。好ましく謹厳な人間なのだ。そんな使用人が景観よく整えた花壇の縁へ、腰掛ける者が居た。体へと巻きつけるマントが寒々しい。
ケテルブルクは野宿をするのに適さない街だった。それにより保たれた治安でもある。花壇の人が身につけたマントは生地が北国に適したものではない。旅には扱いやすいだろうが、今こうして身を切るような寒さの中、じっと膝を抱えるには薄すぎるだろう。フードで覆われた頭は項垂れており、膝を抱えた腕に突っ伏すようにして体のシルエットを極力縮こまらせている。
「そこの方」
私はその人を怪訝に伺った。
「この邸は空き家ではありませんよ」
照らされる街灯の下、私の声に花壇の人は軋むような所作で顔を上げた。ひどく億劫そうな動きだ。それもどこか不安を煽るのだった。
出したままであった手で音素をなぞる。周囲の音素の乱れはその人の周囲から起こっているように感じられた。何者かは知らないが、あいにくとコンタミネーションは解除しておらず、槍は腕から現れるのだから、襲われたところで脅威ではない。マントのフードが深く、こちらを向いたその人の顔は見えない。色の無い顎だけが覗いている。
「……ジェイド?」
弱い声だった。私は瞬きする。人の記憶は聴覚情報から失われるという。しん、と静まった冬の空気に私の指先が止まる。
ひどく聞き覚えのある声だった。
ただ、すぐにその仮定を私自身が排除する。この心のゆらぎを世では動揺と呼ぶ。
花壇から下り、その人はゆっくりと私へ体の正面を向けた。薄いマント、その合わせがひらめき、隙間から伺えた着衣もこの気温にふさわしくないほど薄着らしかった。目眩がする。黄色の縁取りと白い生地と。思わず半歩足が前へと出てしまう。
緩慢に外されたマントのフード、現れるのは薄闇でもわかるほどの鮮やかな赤毛だった。朱色に近い。夕暮れの陽の色だ。瞬く目は明るい緑だ。
今私は酷く間の抜けた顔をしているだろう。
「良かった。……本当にジェイドだ」
ほう、と吐き出したのは安堵だろう。彼の顔を覆う白い霧。
それが晴れて、いざまざまざと、私の前に彼は、ルーク・レプリカは、突如として現れたのだった。
死とは何であるか?
この世界から消える。壊れる。動かなくなる。生命を失う。生命とは?
死ねば終わる。複製は原物ではなく、等しい物は何一つとしてありえない。
タタル渓谷へ三年前に降り立った青年は、全てが同じ様相で、まったく違った一人として、二人分の記憶を持ち合わせていた。
彼は一体誰だったのか?
私達が約束を取り付けたルーク・レプリカとは何だったのか。
「ジェイド。……あれ、お前なんで、髪切ったのか?」
私が呆けている間に、ルークは、寒そうにマントの前をかき合わせながら首を傾げてみせた。驚いたように私の髪をまじまじ眺めている。かつて毛先が肩を越える長さだった私の髪は、いまや肩につかない程度の長さで切り揃えられている。そんなどうでもよいことをこの子供は尋ねてくる。尋ねることなんてこちらから溢れ出んばかりだというのに。
「ルーク」
言葉に詰まり、口にできたのは名前だけだった。情けないことだ。
「……ええ。長さも胸を超えると邪魔になりまして」
果たして彼が望んだような言葉だっただろうか。微笑を浮かべるにはこの寒さは厳しすぎる。頭の中を、かつて並べ立てていた理論が蘇り、ありとあらゆる計算を伴って駆け巡っている。この確率は。この存在の発生条件は。素体は。魂は。記憶は。音素は。
頭痛でも起こりそうだ。
「胸って、そんな長くなかっただろ。……でもなんか、変じゃねぇけど落ち着かないな。違う奴みたいだ」
微笑みながら彼は言う。何から尋ねるべきだろうか。これは本物だろうか。落ち着かない、という彼の言葉は正しいらしく、そわそわと指先でマントの裾を弄っている。私は、左手を差し出し、ルークが私の掌を見下ろすに任せた。
既視感だ。かつてあった光景だった。ルークがちらと私の顔色を伺う。この子供はいつであれ私を伺い盗み見ていた。
んん、と短く唸り、ルークが私の手を握る。傍目に見れば稚拙な握手だ。私は聞こえないほどの声で、極僅かな第三譜術を唱える。
静電気程度の雷が生まれた。しかしルークは何も感じないらしく、照れくさそうに唇を引き締めながら、私の手を握るばかりだ。
味方識別が作動している。
タタル渓谷に現れた青年は、今までルークやアッシュに打ちこんでいたはずの味方識別が効かなかったのだとナタリア王女が言っていた。その時の表情が、不思議と穏やかだったのを覚えている。
彼女はあの時何を考えていたのだろうか。まるで別物であるという事実を受け止められたのだろうか? 幼い約束を結んだ相手でもなく、ともに旅をした子供でもなく、一年越しに別人となり現れた三人目のルーク・フォン・ファブレを、彼女は。
私は左手に力を込めた。手を引き、驚いた顔をしているルークを、目の前の彼を、囲うように抱き寄せる。
やはりこのマントは冬のケテルブルクでの防寒には向かないだろう。冷えた布の下、ぬるい温度の塊がそこにある。骨ばった肩だ。記憶にあるより痩せたのかもしれない。ルークは寒さから体を震わせ、私のコートの胸部に頬を当てたまま固まり、両腕をやり場なく体の横に垂らしている。どうしたらいいのか分からないのだろう。生憎と、私も彼に教えられることは何もない。
少しだけルークが力を抜き、私の肩に頭を寄せた。
「……ジェイドにされると思わなかった」
そうだろう。ガイならきっと上手くできる。ともに喜び、思いの丈を、浮かぶまま口にできるだろう。もしくは吐き出せずに黙ってしまうかもしれないが、それでも、今の私とルークよりもずっと正しく、実にふさわしい慈しみとして表すことができるだろう。
だがここにいるのは私だった。冬のケテルブルク。薄暗い早朝。気づけば空が白み始めている。息は目に見えて霧散し、冷えた子供の身を抱えている。彼の髪から土の匂いがした。
「私も考えてもみませんでした。……中に入りましょう」
「ああ」
腕の中で頷かれる。衣擦れと、もぞりと動くルークの気配と、私は、少しだけ間を置いて抱いていた腕を離した。ようやく息を吸えたようにルークが深呼吸する。それがどこか不快だった。見れば頬が赤くなっているらしい。
「あなた。なんて顔をしているんですか」
「ばっ、……違ぇよなんか、こういうの照れるだろ」
バツが悪そうに頭を掻いたルークが、次の瞬間くしゃみをする。私とルークの目が合う。瞬きと、思わず彼が破顔した。
「寒い!」
恥を隠しもせず声を上げ、やけくそ気味にルークが旧ピオニー邸のドアへと向かう。その所作には見覚えがあり、何度でも、記憶をなぞるようなルークの仕草に私は胸をかき乱されている。表情を取り繕うことに慣れていてこれほど助かったこともないだろう。
「待ちなさい」
「なんだよ!」
両腕をさすり僅かでも暖をとろうとしている彼を呼び止める。玄関ポーチで振り返り、動こうとしない私を見下ろすルークの顔を見つめる。やはり少し痩せている。襟足で鳥の尾羽根のように跳ねた髪がフードから飛び出ている。
「おかえりなさい、ルーク」
は、と息をはいてルークの目が丸くなる。腕をさする手が止まっている。
三年前に言えなかった言葉だった。もう言うこともないのだと思っていた。剥き出しのままであった私の指先に、じわり、と血が通う感覚がある。これを世では高揚と呼ぶ。
「うん、……うん」
消え入りそうな声で頷く。そのまま俯くルークが立つ玄関ポーチへと近寄る。開錠されたドアは裏口なのだ。そこに誘導してやらねば。
「ただいま」
掠れた声だった。緑色の双眸が瞬く。私を見ながらそう呟き、すぐに視線を逸らされる。これは恥だろう。耳の端が赤い。
日が現れ始めて街は明るくなっていく。
四年越しの約束はどうやら果たされたらしかった。