BD910

それでも涙は出なかった

雪山には嫌な記憶ばかりある。生きる訓練だと、領地内、すぐ近くに父上と小隊が備えている状況で、野営を真似たごっこ遊びをしたことがあった。言ってしまえばうちの庭だ。しかし遊びと称しても、雪山が子ども二人だからと自然の過酷さを和らげてくれるわけでもなく。単純に監視下でのサバイバルじみた、極寒の強制キャンプだった。
風を読んで雪を詰み、断熱のための準備を整え、寝袋に収まると、なんだかテントの外と中の境が分からなくなる恐怖があった。この場に兄上は居ない。目が覚めたら俺の寝袋だけ裂かれてたりなどしない筈だ。俺の隣で意気揚々と起きているフェリクスは、俺より三つも年下で、それなのにこの過酷なキャンプごっこに自ら志願した奇特な奴だ。俺と雪の中に閉じ込められて何が楽しいのか。
「なぁフェリクス」
「なんだ」
「やっぱり危ないからさ、お前だけでも城の中戻った方がいいよ」
「む」
もぞもぞと寝袋の動く音。見れば、フェリクスがこちらに体を向けて、至って不服そうに口を尖らせ俺を睨んでいる。なんで。別にこれはフェリクスは強制参加じゃないだろう。
「俺だって野営くらいできる。この前兄上と勉強したんだ」
「お前、グレンさんに無理矢理習ったんだろ」
「違う。近々シルヴァンがやるらしいからって、じゃあお前も参加したらどうだと言ったのは兄上だぞ。それに兄上もやったんだろう。なら、俺にだって出来る」
「どういう理屈だよ。……お前、怖くないの。こんな雪の中で。死んじゃうかもしれないんだぞ」
「この臆病者め」
フェリクスはそう言い捨て、俺に近づくように寝袋がもぞもぞ動く。俺は乾いてきた唇を少しだけ舐めて湿らせた。
「俺が居てやるから怖くないだろう。兄上はディミトリとやったって言ってた。あと残ってるのはシルヴァンだけだ」
「敬語使えよな。向こう王子様だぞ。それにイングリットも残ってるんじゃないか」
「イングリットは危ないからダメだ」
「お前はいいのに?」
「俺はいいんだ」
「それ、イングリットに言うなよ。俺まで怒られる……」
どこまで話したかは覚えていない。ぽつぽつと話し続け、とにかく先にフェリクスが寝たことだけは覚えている。俺は、吹雪そうなびゅうびゅうという風の音に怯えながら、すぐ横で寝息を立てるフェリクスの存在に救われていた。何故俺はここに居るんだろうか。どうしてこいつはここに居るんだろうか。何かあった時に、父上たちは本当に助けに来るだろうか。来るだろうな。俺は紋章を持っているから。
幼い頃の記憶だ。どこまでがその頃に感じたことで、記憶の美化や改竄なのかもう分からなくなっている。それでも、あの時一人ではないと、世界にはまだ俺以外の人間、フェリクスが側にいるのだと、実感できた折に泣くのを堪えられたことだけは鮮明に憶えている。

その朝は殊更寒かった。いつもなら陽の光が見え始めてもおかしくない頃だったのに、生憎の曇りで、視界は明暗がはっきりとせず、山の峰たちはぼやけた輪郭を冷えた空気の中に重々しく浮かべていた。
身軽な様相のフェリクスが俺の前に立っていた。もう、きっと、これで最後になるという予感があった。そしてそれは間違っていないんだろう。フェリクスの目元に浮かぶ小さな皺に、お互い歳をとったと無碍にも実感させられる。
「本当に行くんだな」
「ああ」
いつも通り、淡々とした言葉だった。もう少し惜しんではどうだ。もう会えなくなるんだぞ。
「元気でな」
「……それは無理な相談だ」
「ひでぇ奴。ここは嘘でもいいから頷くとこだろ」
フェリクスが笑う。これは俺が嫌いな笑い方だ。
「いつかの約束はもう守れない。お前にこれ以上嘘はつけん」
ああ、嫌いだ。こんな朝が来るなんて。
「じゃあな」
「フェリクス」
去ってしまう。あれほど幼い頃から、自分の世界に居た、絶対的な存在のフェリクスは今、俺から離れていってしまう。泣いてすがれば間に合うだろうか。行かないでくれ。なんでみんな俺の前から消えるんだ。
正真正銘の最後だった。振り返るフェリクスと目が合う。鳶色の目。俺を射抜く愛しい人。
「じゃあ、死んだら地獄でな」
俺の口から出たのはそれだけだ。この腰抜け。度胸が無いのだ。いつまで経っても。嘘ばっかりは俺の方だ。
フェリクスが笑った。俺が好きな笑い方だった。それまでだ。背中を向けられる。本当に俺の前から消えるのだ。俺は最後までお前にすがれない。お前にすら本当のことを言えない。軽口だけの自分がこの先ずっと、後悔して生きていくのを何となく勘づいている。
ひどい話だ。空が晴れ始めた。翻る青い外套に、声にも出せない悲しさを呼吸の中で吐き出す。
(臆病者な俺を置いて行かないでくれ)

ある日見慣れた剣だけが俺の元に届いた。その剣は何も語らず俺に全てを伝えた。
ただそれだけの話だ。