BD910

ことほぎのみち

主から、やがて本霊に還ることが出来ると告げられてから数日。俺は風呂場に居た。
今まではのろいの龍が体を時折這いずるものだから、それを見られるのを避けて他の刀と同じ頃には入らないよう務めていた。だが既に解呪は進んでいる。刺青も元に戻った。そしてあまりに暑い日が続くものだから、汗を流そうと浴場に居た。
十ほどの洗い場と大きな浴槽があるだけの浴場はもうもうと湯気が立ち込めていて、そういえば夜中に入った折も常に迎え入れられるような状態だったのを思い出す。この本丸ではいつであれ整えられているのかもしれない。体を流して湯に浸かる。
すると、誰かの入ってくる気配があった。同じ考えのやつがいたのか。面倒だと思う。話しかけられても無視を決め込もうと浴槽の端へと寄った。
入ってきたのは同田貫だった。こちらを一瞥し、誰かがいるのだとそれだけを認識した様子で、特に話しかけられもせずあちらは体を流している。俺も無言で湯に浸かり、同田貫を見て、もし、浴槽に浸かるのなら、と思う。
やがて同田貫は俺よりも少し離れた場所から浴槽に入り、大きく息をついた。そう唸るのが分かるくらいに今日は暑い。
「同田貫」
名を呼ぶ。ゆっくりと傷のある顔がこちらを見やって、やや嘲笑も含めた表情を浮かべながら
「あんたの方から話しかけてくるとはな」
と答えられた。想定範囲内の言葉だからどうとも思わない。俺も話しかけるつもりはなかった。だが、こいつには聞いておきたいことがある。
「あんたの受けたのろいについて、聞いたらあんたは答えるか」
ざぱ、と浴槽の湯で顔を洗い流し、ふう、と再び息をついてから、同田貫が俺に僅かに体ごと向き直る。その表情から嘲笑は消えている。
「同じことを聞いたらあんたは答えるのか」
これは想定外の返しだった。だが、俺が応えないでいると、いや、いい、と、自分で聞いておきながら同田貫が手を振る。
「悪い。言っただけだ。本当に聞きたいわけじゃねえ」
「俺の質問に答えていない」
「ああ、まあ、そうだな。……あんた、顕現もしくじることがあるって知ってるか」
俺は瞬きをする。また答えられない質問をされた。
「審神者が顕現時にとちったらしくてよ。俺はこの身に顕現された時から痛覚が無かった。それのせいで上手く戦えねえで、割に審神者がそれを気にする矜持の高いやつでな。色々といじくられたんだよ」
「……何だそれは」
「俺を使えるようにしてやるつってたな。で、それが政府にバレて、あっちからすりゃ俺らは付喪神だ。扱いが雑な前の主殿は咎められて審神者を解任された。俺は、まあ御手杵やあんたみたいな分かりやすいのろいじゃないが、すぐに本霊に戻れる状態じゃなかった。それでここに下ろされた」
政府から本丸へと下ろされた順序として、御手杵が同田貫よりも先だったと誰かから聞いていた。それなのに同田貫が先に本霊還りを果たしたのはそれが理由だったのだろうか。のろいではないにしろ常ではない状態にされる。痛覚が無かった。どちらも想像するしかなく、したところできっと的を射られるとは思えない。へりに背中を預け、腕を大きく伸ばしている同田貫に、聞きたいことはそれだけか、と僅かばかり促される。
この本丸に政府から下ろされた刀たちは、別な本丸で一度刀剣男士としての営みを経てきている。そのせいか、どこか達観した気配を持っているのを幾度となく感じていた。
「本霊に還っても、ここに戻りたかったのか」
俺が聞きたかったことはこの一言でしかない。
恐らく見抜かれていた。しかし同田貫は座りなおしながら、ふう、と大きく息をついた。俺もそろそろのぼせそうだ。こいつは問いに答えるだろうか。
「ああ、そうだ」
それだけだった。言うと、ざぱ、と波を立てて立ち上がり、長湯すんなよ、と忠告しながら先に出て行く。俺は戸が閉まるまでを見送り、そして、短く息をつく。ややあって同じく浴槽を出た。
洗い場で水を流して頭から被る。始めは冷えて微かに震えたが、やがて馴染んで体の芯から熱を冷ましていく。
俺はどうだろうか。戻りたいだろうか。そんな質問、とうに。

畑当番が乱藤四郎と一緒になった時だった。
麦わら帽子を被っている姿に、そんなものがあったのかと思い、僅かに見ていれば、目ざとく見つかって
「暑いからかぶってけって同田貫さんが貸してくれたんだ」
と笑いながら言っていた。
つまるところそういうことなのだ。同田貫が本霊へと還った日、この本丸へと戻った日。骨喰藤四郎の戻らない本丸へと静形薙刀が戻った理由。
歌仙と鶴丸の理由については何も聞けてはいなかったが、あの二振りの中で、何かがこの場所へと引き留めたのだろう。疲れて暫く本霊から出ない刀の気も分からないでもなかった。暴走の折や、のろいをかかえている間の不快感は言葉にできるものでもない。全員が違う症状なのだろう。ならば、全員がどう受け取るかも様々なのだろう。
こんな場所、話に聞いたこともなかったのだから多くはないのだろうが、弟子とのつながりを見るに少なくも無いのだろう。この本丸は、俺が還っても新しい刀を受け入れ続けるだろう。つまりはのろいを受けた刀が生まれ続けるという事実もある。本霊に還って、洗われて、俺はどうなるだろうか。記憶は、その先は。

翌朝。
誰も居ない、奥庭のはずれにある竹の長椅子に座っている。青々と茂る生け垣の、その向こうに気配を感じて、見れば、そこには山姥切がいた。
問うたことはない。ただ、こいつはいつも俺を探しているんじゃないかという身勝手な期待がある。
「……早いな」
「あんたが言えたことか」
何を話せばいいのか困ったように呟かれた言葉に、思わず諫め言のように返してしまう。違う。そうじゃない。思いながらも、上手く話せないでいる自分の気持ちの整わなさが面白くなかった。
「山姥切」
「なんだ」
「俺と手合わせしろ」
口調が強くなったのはそれを回避されたくないからだ。蝉の鳴く声がする。やがて消えゆくものの声。椅子に座っている俺からは山姥切の顔が僅かに覗けて、薄く開かれた唇から短く息が漏れるのを見ていた。
「分かった」
この刀は物分かりが早くて助かる。
道場に向かう。早朝ということもあってまだ誰もいなかった。広い空間には澄んだ気が満ち満ちている。木刀を一瞥し、「真剣でいいか」、訊ねれば、山姥切はそれを了承した。
向かい合い、構える。息を整える。切っ先を互いに向け合い、僅かに引かれた襤褸布の向こうに山姥切の青い目を見る。一拍、呼吸が合ったと思った。その瞬間には踏み出していた。
一合、二合と斬り合う。互いの斬撃をいなし、突きを交わし、防具で払って、足でさばく。幾度か切り結べばすぐに分かった。俺がこいつに敵う筈がない。あの日襖を吹き飛ばし、突進を食らわせていたのは俺の力ではなかった。増幅された憎悪。注がれていた悪意が、俺の中で暴れていたのだろう。やがて押され始める。向こうもとうに解っていただろう。さばききれなくなり、交わしきれなくなり、そして俺は山姥切に切り伏せられた。息が上がる。あちらは乱れもしていないというのに。
互いに納刀し、礼をし、そのまま俺はその場で座り込んだ。気迫が違った。気を抜いたつもりはなかったが、堪える事も出来なかった己が情けなかった。練度の違いはある。俺はこの本丸に下りて戦闘にも出ていない。それでも。
「今日、本霊に戻る」
山姥切は動かなかった。ただ、小さく、今日か、とだけ言葉を落とした。
「随分急だな」
「長居しすぎた」
主からはいつでも戻れると言われていた。促されることは無かった。それでも、もう、ここに居続けてはならないと思った。このままでは役立たずのままだ。
「あんたは」
言葉が途切れる。俺が顔をあげると、山姥切は言葉を続けた。
「戻ってくるか」
まるで迷い子のような顔だった。いつも通り俺に見えていないと思っているのか、無意識に浮かべているだけなのか。床に座る俺と立ったままの山姥切では、布の奥に表情を隠すことはできていないというのに。
「戻れるかは分からない」
「……俺は、あんたじゃないあんたが来た時には、どうすればいい」
何故俺に訊くのか。無粋なことだ。問うべきではない。自己顕示のためだけに、この刀に恥をかかせるのは本望ではなかった。
「また飴でも寄越せばいい。そいつも甘いものは好きじゃないだろうがな」
立ち上がり、道場を出る。山姥切は動かなかった。俺は、そのまま審神者の室へと向かった。

「よろしいのですね」
再度の確認に、ああ、と頷き返す。主たる審神者が何かを言おうとし、それをやめたのを仕草で悟った。全て気づかぬふりをする。
「本丸の者たちには私が伝えましょう」
「頼んだ」
「謹んで、お請けいたします」
主が柏手を打つ。薄暗い中、主の姿が、ぼう、と光り、そこから幾重もの光の筋が、俺の体へと流れ込んでくるのを見ていた。政府から送られる際や、同田貫を送った時とは違った様子だった。刀に依りけりという事だろうか。
「在るべき場所へ」
祝詞を唱え、最後にそう呟くと、それが最後に聞こえた音だった。視界が白くなる。ぐらり、と体が傾ぐようで、なのにどこにもぶつからず、頭の奥が重くなっていき、まるで眠る時と同じような感覚があった。
憶えているのはそこまでだ。その本丸での、最後の瞬間だった。


大倶利伽羅が本霊に戻り、その後も本丸は粛々と与えられた任務をこなしていた。
告げてはいなかったが、あの日手合わせをした朝には、山姥切が引き受けた大倶利伽羅ののろいはほぼ解呪されており、薄く背中の右肩あたりに痣のような鱗の影がうっすらと残るのみになっていた。それを知らずに大倶利伽羅は去っていった。もしかすると、既にのろいが消えかかっていたのに気づかれていたのではないかと、突然去っていった姿を思い出してはその度に山姥切は考えている。
髭切が訪れ、去っていき、御手杵も去って、新たに加州清光が加わった。その際には大和守が世話役を買って出て、慣れた頃には加州が大和守の世話をするようになっていた。思わずその様子を見ては僅かに破顔してしまう。幼子同士のような喧嘩は見ていて山姥切を不安にさせるものではなかった。ただ、どこか空虚さを拭えずにいたのは確かだった。
近侍と隊長の任をこなす傍ら、どこか、常に、あの落ち着いた葡萄色が習得されないか、鍛刀されないかと望んでいる己がいるのを自覚している。それが顕現できるものなのか、果たして顕現した者は、山姥切の知る相手であるのか、全てが定かではない。それでも待ち続けた。季節は一巡し、また暑い頃になっていた。
戦闘任務を終えて哨戒を行っていた。その折、草むらの陰、不意に奥庭で見たような影の気配があって、思わず山姥切は足を止めた。
「おい、どうかしたのか」
突然立ち止まる隊長の様子に、敵かと大包平が本体へと手を添えるのを片手で制した。そうではない。山姥切が慌てて草むらへと入っていく。大包平と平野藤四郎は顔を見合わせ、歌仙と博多、鯰尾に声をかけてその場で待機した。
山姥切は見た。そこには一振りの刀がひっそりと横たわっており、戦闘によって拾得された刀として、大倶利伽羅広光、刀一振りが、本丸へと持ち帰られた。それを抱えた山姥切の様相に、審神者は急ぎ顕現の用意を整え、他の者は控えさせてから、室で顕現の儀を行った。
少し長くかかった。やがて、刀は光を帯び、淡い輪郭が凝り固まって、眩しさが消える頃には、この本丸では既に見慣れた一人の刀剣男士がそこに姿を現していた。
「……大倶利伽羅だ」
口上。語るものは何もないと言う。山姥切は早鐘のように打つ鼓動のせいで気分が悪くなっていた。顕現は成った。ならばこの者は誰なのか。審神者は顕現の儀に問題がないのを確認すると、山姥切を近侍として紹介し、後を頼むやその場から去っていった。室に二人きりになる。
「山姥切だ。……近侍を務める。よろしく、頼む」
どちらか分からない己に山姥切は歯噛みした。見分けがつかない。他の本丸の大倶利伽羅という刀に会った事はあるし、ただ個体差があるにしろ、概ねは皆同じ姿をしているのだから当然だろう。本丸に下りた加州も、審神者の弟子の近侍と並べば纏う霊力と練度以外に差異はない。もし違ったとして、まるで別の大倶利伽羅を示唆するような言葉をかけるのは良い事ではないと理解していた。故に何も言えない。山姥切が生唾を飲んだ時だった。
「随分他人行儀だな」
は、と顔を上げる。意図せず俯いていたのだと知った。大倶利伽羅の顔を見れば、僅かに口角をあげて、一振りの刀は少し力の抜けた立ち方でそこにあった。
「もう一等好きなものは分けてはくれないのか」
揶揄うような口調だった。それでも構わなかった。山姥切は駆け寄り、思わずその身を抱きしめていた。

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