BD910

ことほぎのみち

炎の中にいる。
轟々と鳴り響く音は体にも震えとして伝わって、熱が肌を炙り、視界を緋色に染めた。
敵を屠れ、と、人ならざる気配を帯びて声を荒げる審神者の命に従って俺の体は動こうとする。覚えがあった。ぞわ、と首の後ろが痺れる。柄に右手を添える。
と、その手首を取って止める者が現れた。
炎の中、白い襤褸布を被り、駄目だ、と一言だけ告げる一振の。

瞼が重い。目が覚めて、眠っていたのかと思う。そしてぼんやりと、ああ、違う、倒れたのだと思い出した。
手入れ部屋の中だった。戦闘部隊には駆り出されないのだから、先の日にあった鯰尾を運んだ折に初めて入った部屋だった。主の霊気で満ち、香が焚かれ、この本丸では布団が衝立を挟んで二組置かれているだけの小さな部屋。
今は何時だろうと思うが、視線を動かしただけの範囲には時計の類は見当たらない。体が酷くだるい。
己が暴走した時のことは全てはっきりと覚えていた。何をしたか。何を考えていたか。どう動いたか。こんな記憶など消えていればいいものを。
視線だけで隣を見る。衝立があるため判然としないが、恐らく山姥切が眠っているのだろう。あの時、最後に意識が途切れる刹那、聞こえたのはきっとのろいを吸い込んだ山姥切が倒れる音だった。誰かが呼んでいただろうか。俺を、山姥切を。いずれにせよ二人揃って手入れ部屋行きとは。そして先に目覚めるのが俺だというのか。
一人であればみっともなく涙が出てしまうところだった。かっと熱くなる目頭に、思わず眉間に力を込めて全てを飲み込む深い呼吸をする。鼻の奥が痛む。泣くとはこういうことなのか。かろうじて堪えきり、もう一度衝立越しに向こう側を見やるが、やはり何も状態が分かるものではない。仕方がなく、また目を瞑り、もう一度眠りにつくことにした。

はっきりと解っていた。夢の中だ。俺はこれから走り出して審神者の室に行き、倒れている光忠を見て、般若のような審神者を見て、遡行軍と対峙する。この炎の中で。本体すら火に晒されながら。
走りだそうとする俺の隣に、白い襤褸布が立っていた。山姥切国広。般若のような審神者が顕現したものではない、浄化する本丸の近侍たる刀。
「行くのか」
訊ねられる。そんなこと。疑問にすら思わなかった。今ならこれが過去だと判る。過去ならば、その通りに動くべきではないのか。
「もうあんたはのろいを受けている。……これ以上、苦しい思いをする必要はない」
俺の左腕が軋む。まだ審神者に命されていないのに。当然だ。これは夢だ。そうだ、既にのろいは受けている。
俺はもうこの本丸にはいない。もう、この本丸の審神者はどこにもいない。
「帰ろう」
帰る。帰るなどと。
「どこへ」
思わず声を出してしまった。ぐらり、と意識が揺らぐ。倒れるときと同じ感覚だった。やがて全ての感覚が遠のいていく。

また目が覚める。手入れ部屋、俺が寝る布団の横に審神者が座っていた。相変わらずの白装束に顔隠しの布で表情は見えない。けれど小さな所作の様子から、どこか安堵しているのだと分かった。
「おはようございます」
「……いまは、何時だ」
「夜が明けていくらもしない時間です。お気になさらず、どうか自分の身のことだけを考えて」
主の両手が寝ている俺の上に翳される。緩く重ねられ、見ていれば、気のせいだろうか、徐々にそのあたりに温度を感じるようだった。
「何故山姥切に俺ののろいを移した」
訊ねる。聞いてよい事だと思った。むしろ、俺は聞くべきだろう。明らかに体の重さが減っていた。その分が山姥切に流れ込んだのだろう。俺の中の空いたその場所へ、いま主が力を注いでいるのだろう。全て憶測でしかないがそれが大方外れているとも思えなかった。
「山姥切がそれを望んだからです」
主は手を翳したままそう呟く。
「のろいを肩代わりすることは、私や私の人形で行うことは今までもありました。それは私の力で直接のろいを浄化するためのもの。ただ、山姥切は私が起こした初期刀で、最も私の霊力を受けていますから、ならば自分の身でも同じことができるのか、と以前に訊かれたことがあったのです。そしてその時私はできると答えた」
翳されていた主の手が下りる。そのまま主の膝へと添えられた。
「まさか本当にそれを望むとは」
顔隠しの布越しにこちらを見ているのが伝わった。それがどこか喜を含んだような声音で聞こえたのは、俺が寝ぼけているからなのか、事実なのか。
途端にぐらりと頭の奥が揺れる感覚があった。目が回るような、体は横たわっているのに重さの感覚が狂ったような気持ち悪さだ。
「まだ万全ではないようです。もう少しおやすみなさい」
「……寝すぎた。もう眠くはない」
「眠らずとも、体を休めなければ」
不意に、主の手の平が俺の顔の上を撫でるように翳された。瞬間に俺はまた夢の中へと落ちていく。

起床と覚醒を繰り返して、どれが夢でどれが現実か境が曖昧になり始めていた。炎があればそれは夢だった。ただ、炎がない夢もあって、ただ縁側に座っているのだと思えば、はっとすれば手入れ部屋で目覚めている。眠気が波のように襲っていた。意識がまだ確りとしていないのだろう。
主が座っていたように、俺の布団の横に山姥切が座っている。手入れ部屋では気づけば浴衣を着せられていて、緩く結ばれた帯と、少しはだけた襟元を隠すように白い襤褸布が被られている。
俺を見下ろしているのだから山姥切の顔は窺い知れた。俺は目を開けているのか閉じているのかわからなくて、これが夢か現実かさえも定かじゃなかった。
それでも、見上げて窺える山姥切の顔と、緑のような青い目と、引き結ばれた色の無い唇がそこにあるのは何となしに気分が良かった。

長くそうやって不確かな意識の覚醒の中にいたが、それでもどうにか俺の体力は回復したらしかった。
最後にはっきりと目を開けた時、まさに長い夢からさめたような、胸の奥がすっとする心地があった。思わず無言で起き上がる。汗を吸った浴衣は気持ち悪かったが、それであっても体の軽さは明白だった。指先まで黒鉄が注がれたような重さはもう無い。思わず袖を捲り、左腕の龍を見るが、そこには彫り物としてさもありなんと黒い鱗が佇んでいるだけだ。
のろいが全て消えた気配はなかった。どこか、体の内の方にしこりのようなものは感じられた。それでもひどく小さなもので、本当に、何かが解かれたのだと自覚した。
布団から出て衝立の向こうを見る。もう一組の布団は空だった。どれほど寝ていたのかもう分からない。山姥切はどうなったのか。
ばちん、と音を立てて、武装を解いた戦装束に姿を変える。本体は無い。自室だろうか。木で出来た引き戸に手をかけて、がら、と開いた。
「……っ!」
そこには山姥切国広が立っていた。今まさに引き戸にかけようとし、突然開いたことに驚いたような様子で持ち上がった左手が浮いている。
「目が覚めたのか」
淡々とした声だ。手を下ろすその姿に俺は僅かばかり目を眇める。
「今は何時だ」
「あんたが……あんたののろいが、暴れて二日目の夕方だ。よく眠れたか」
「別に」
事実、眠れたかと問われれば分からなかった。
まどろみを繰り返す中で何度か以前の本丸に立った俺の、すぐ近くには必ず山姥切が現れていた。それが何を示唆しているかは分からなかったが、のろいを引き取られたせいで、こいつらの言う「縁」というものでも強まったのかもしれない。もしくは、俺が意識しすぎているだけか。
「そっちはどうなんだ」
「……? 俺か。俺は、そうだな。寝て起きたら回復していた」
そんな単純なことだろうか。分からなかったが、こいつがそう言うのならばそうなのだろう。
「ああ、そうだ」
まるで今思い出したように山姥切が言葉を零す。内番着である赤色の上下、その右腕を、袖の捲り上げられた箇所を布の下から俺へと差し出す。
思わず息を飲んだ。
「これがあんたののろいだ。まだ全部は消えていないが、主の力で解呪は進んでいる」
俺の左腕に巻き付く鱗のように、山姥切の白い肌には黒々とした龍がとぐろを巻いていた。こちらはよく見ると蠢いているようで、御手杵の頬に浮かぶ墨色の痣のように、皮膚の下で暗い色がぬらりと動く様は不気味でしかない。そして既視感だ。俺の肌に在ったもの。無意識にその腕をつかんでしまった。驚いた山姥切が、襤褸布が少しずれたのも構わずに俺を見る。
「……どうした」
「どうしたじゃない。返せ。これはお前が受けるべきものじゃない」
「これは良い物じゃない。あんたに負担をかけるものだ。俺の体は主の霊力で満ちている。あんたの中にあるより何も起こらず解呪できる」
「やめろ」
はき捨てるような言い方になってしまった。山姥切は、は、と短く息をはくと、自然な仕草で襤褸布を目深く引き下ろす。
「……すまない。余計なことをした」
「……違う。これを受けるべきは俺だ」
「そうかもしれない。だがあんたの体は一時的でも主の力が及ばないほどのろいに浸食されていた。今返すのは危険すぎる。それに」
「……何だ」
「……」
「言え」
「……のろいが、思いのほか馴染んでしまって、解呪するまで離せないそうだ。そう主に言われた。だが問題ない。あんたの中にもまだのろいは残っている。そっちはそれを解くのに注力して……」
山姥切の肩を掴み、体をどかせて廊下を歩く。待て、大倶利伽羅、と呼ぶ声がするが、それを無視して主の室へと向かう。
「どこへ行く!」
予想はついているだろうに。僅かに振り返り一瞥した。山姥切が小走りで追いついてくる。
「お前からのろいを引きはがすよう主に申し立てる」
「そんなことしなくてもいい。俺の中にあってもこいつは動いているだけだ、俺には何も起こっていない」
「そんな筈あるか。腕を締め付けられないのか」
「あんた、締め付けられていたのか」
舌打ちする。俺から出たのろいとやらはこいつの中では大人しいらしい。
「……やはりだめだ、今の状態のあんたには返せない」
「それは、俺が受けたものだ」
立ち止まり、振り返り、一言一言を突き付けるように山姥切へと告げる。あちらも歩みを止めていた。西日が廊下に挿し込んでいる。
「……何故受けた」
問う。山姥切は口を噤み、ややあって口を薄く開く。
「……言いたくない」
互いに無言になる。緋色に染まった本丸の中で、山姥切の目だけがひどく青い色で俺を見ている。
「だけど、俺にもあんたを助けさせてくれ」
懇願。縋るような声。そんな音を出したいのはこちらのほうだった。今は問題ないという。では明日は? その次はどうなる。本当に解呪は進んでいるのか。あの夢をこいつは見ないのか。だが、訊ねれば先ほどのように俺が夢を見ていたのだと知らせる事にもなる。こいつはどこまで知っているんだろうか。主はこいつに何か話しているのか? 何もわからず、何を打っても悪手にしかならない気がして、少しばかり歯噛みして呻き声をやり過ごす。
俺ののろいを肩代わりした山姥切国広の右腕を見る。襤褸布と内番着の下に隠されたあの黒々とした龍は、何を思ってこいつの中に納まっているのか。不可解だ。不愉快でもある。いい得も知れぬ不快感が、すっと開けた筈の胸の内で燻るように凝りを生んでいる。
「大倶利伽羅」
あれほど望んだ名を呼ばれても、今は重くなった胸に沈んでいくだけだ。恨みがましく見つめ返すことしかできない己の身が情けない。
「……何か起これば、そいつを返してもらう」
出てきた言葉はそれだけだった。
踵を返して山姥切の横を抜け、居住棟の方へと足を向ける。山姥切は追いかけてこなかった。居住棟では俺の部屋は山姥切の部屋から遠い。その事実に息をつく自分が嫌だった。

二日が経った。本当に何も起こっていない。
山姥切は今までのように主人の傍に控え、何をするにも近侍として勤めているようだった。俺はといえば、同じく何も起こっていない。随分軽くなった体を持て余しているほどに。胸の奥に残るしこりは確かに徐々にほころんでいく気配を感じさせていて、ついにはある時主に呼ばれた時
「もうすぐ本霊に戻ることが出来るかもしれません」
と言わしめたほどだった。
あれ以来。山姥切を外に出してほしいと一度頼んで以来、主は俺を呼びつける際は山姥切を外に控えさせるようになった。理由は判然としないまでも、俺が俺の状態を山姥切に知られたくないのだということに気づいたらしい。この男は聡いと思う。恐らく、俺ののろいを山姥切に身代わりさせたのも考えなしに行ったのではないのだろう。
「もしも、本霊に戻れるほどの回復が認められたら、すぐにでも戻りますか」
それは質問だった。そして俺は選択を迫られているのだと分かった。遠くない日にそれはやってくるのだろう。本霊に戻るのは決定事項だ。それを、いつにするかを俺に選ばせようというのか。
「……すぐにではないと言えば、どれだけ留まれるんだ」
「我が本丸であればいくらでも構いませんが、貴方の身は政府に監視されています。あまり長居はできないかもしれません」
忘れていた。この本丸に飛ばしたのは誰あろう政府の人間だった。監視されていたのか、俺は。気づかなかったのはのろいに意識を持っていかれていたからか、新しい本丸に馴染めなかったからか、己が愚鈍だからか。自嘲気味に少しだけ口角をあげてしまう。
「私たちの本丸は特殊です」
不意に主が口を開く。
「故に特権もある。それが記憶を保持したままの再顕現。今回の同田貫正国や、歌仙兼定、鶴丸国永、静形薙刀のように、縁を結んだ刀剣男士を本霊に戻したとして、その記憶を残したまま我が本丸に再顕現すること。これはある種の規則を超えた権利です。ただ、のろいを解いた本丸に顕現された方が貴方がたのような立場の刀剣男士は落ち着きやすいとの統計も出ているそうです」
「……何が言いたい」
「本霊に還ることは必ずしも別れではありません。いつか貴方が、望めば、この本丸に再顕現することもあるでしょう」
「記憶が消えることは無いのか」
主が黙る。俺は返事が口にされるのを待った。
「今までは全員が記憶をもって現れました。ただ、……貴方の問うように、記憶が消えることが絶対にないとは言い切れません。何しろ縋る縁のよすがは細く、切れてしまえばそれを結ぶことは容易ではありませんから」
目を瞑り、頭を垂れる。この主は信用に値する。無駄な期待は持たせないが、不必要に悲観視させないよう言葉を選ぶ癖がある。
「それだけ聞ければ十分だ」
「大倶利伽羅」
立ち上がろうとする俺を主が呼び止める。畳に手をついたまま、話し終われば立ち上がってしまおうという体で呼ぶ方へと顔を向ける。
「此度の貴方の身代わりについて、山姥切が自発的に買って出たのは、貴方との縁を深めたいからだったと私は思いますよ」
ただそれだけ、言って、主は静かに顔を伏せた。もう俺の方を見ていない。俺はと言えば、体が一瞬固まってしまって、やがてぎこちなくその場を立ち去った。
襖の向こうには山姥切が控えている。どういった力なのか、この襖越しに山姥切に話が聞こえる事はないのだと主が言っていた。お陰か山姥切は、大事ないか、と汎用的な事しか言わないから、俺も、ああ、とだけ返して、その場を離れた。何となしに、主は大なり小なり気づいているのだろう。俺の様子も、山姥切の様子も。けれどそれを飲み込むには俺の気分が悪すぎた。山姥切の身に移った俺ののろいは、俺が本霊に還るまでに果たして消えてくれるだろうか。憂いすら縁になるだろうかなどとくだらないことを考えている。


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