ことほぎのみち
赤い炎に照らされて立つあの人は正しく鬼と化していたんだろう。五虎退の仔虎が庭を走っている。ふと、足を止め、こちらを見やり、寄ってくることはなく元来た道を戻っていった。奥から五虎退が仔虎を呼ぶ声がする。それに応じたのだろう。縁側に座っていた。戦装束ではあるが帯刀しておらず、草摺りも外しているのは、審神者に呼ばれることになっていて、それを考えれば内番着でいることは憚られたからだ。今は先に呼ばれた御手杵が出てくるのを待っている。鳥の鳴く声がしている。ど、ど、と、隠しもしない足音があって、そのゆっくりとした歩幅と気配から件の御手杵が終えて出たのだと知れた。振り返る。廊下を向こうからこちらへと歩いてくる長い姿がある。「大倶利伽羅ぁ、主が次って」自分の後ろを指さしながら御手杵が言う。見れば内番着だった。無言で立ち上がり、装備が無い心もとなさを感じながら、一振の槍と入れ違いに審神者の執務室へと向かう。「あー! 御手杵さん、用事終わったんですか?」鯰尾の声が響く。「おー」「じゃあ一緒にバドミントンしましょうよ! ハンデでそっち秋田入れてあげます!」「お前らのバドミントン本気なんだもんなぁ。秋田はどっちのハンデなんだ?」笑いながら御手杵が縁側を降りていく。共用の下駄が置かれていたが、下駄はバドミントンをするのに向いていただろうか。振り返る。庭で遊んでいる脇差、短刀連中の中に御手杵が混ざっていく。その左頬には、大きな墨色の痣が浮かんでいる。あれは「のろい」だ。御手杵を蝕むものを俺はよく知らない。だがはっきりしていることは、この本丸が、そういった「のろい」を受けた刀剣男士を受け入れ、本霊に還る為の浄化を行う場所であるということだ。全員ではないにしろ、のろいを持った刀剣男士は他にも居る。踵を返す。主の執務室へと向かう。のろいを受けた刀はこうして定期的に主に呼ばれて話をする。きっと今日もさほど進展はなく、淡々と終わるのだろうと思っている。「随分うちの霊力が馴染んできていますね」透明な板を触りながら、嬉しそうに新たな主は言う。この本丸の主は全身白の和装で、顔には隠し紙を垂らしているためその相貌は依然として知れない。男であることは確かだろう。この本丸に下ろされひと月が経っていた。まさか顕現の儀を二度行うことになるとは思わなかった。主には透明な板に何かしらの情報が見えているらしく、時折頷きながら、読み終えればその板を傍に控えている近侍の山姥切国広へと渡す。山姥切は俺の記憶にある通り陰鬱な気を纏っていた。仄暗い主の執務室では、汚れている筈の襤褸布が、ぼう、と浮かんでいっそ白く見えてくるから不思議だろう。受け取った板を繻子の詰められた箱に仕舞うと、再び跪座で主の傍に控える。顕現をしたときもこの刀は近侍として主の傍にいた。聞いたところによれば初期刀で、ここでは必ずこの刀が近侍を担うのだと。顕現後の説明を思い出しながら主を見る。実のところ顔など隠れているのだから、おおよそ目であろう辺りを見るしかない。「加減は如何ですか」「さあな。悪くはない」「それなら良かった。数値としても安定した様子ですし、またしばらく経過をみましょう」主から聞いている俺ののろいは、かけた術者から離れることで自然と消えていくのだという。力は既に一定量注がれているが、離れることで相手ののろう力の供給路を絶ち、段々とこの本丸の中で浄化していくのだと。逆をいえば対処がそれしかなく、かつ、かけた術者、つまるところ前の本丸の審神者だが、その者の力が強すぎて下手に触れると俺が消えるのだと。隠すことなく主は言った。それを聞いて、ならばとこの新しい主の言葉に沿うことにした。そも俺にはどうしようもない。打つ手が有るだけマシだと思うべきなのだろう。「もし何かあればいつでも言ってください。私でも、山姥切にでも」「……何かあればな」言って立ち上がる。俺と主が話している間、山姥切は終始無言だった。ほとんど微動だにせずそこにあった。練度は上限に達し、この本丸では一番単純に強いのだという。俺はこの本丸へは浄化を目的として下ろされたのだから、部隊編成に参加して戦闘に出ることも無い。問うたことはあるが、今はまだのろいの力が強いために、万が一を見て組み込めないのだと。この刀と手合わせをしたらどうなるだろうか。手も足も出ずに倒されるだろうか。分からないが、普段から纏う空気は陰鬱でありながら、前の本丸に居た一振とはまるで別の刀であることは確かだと知れていた。執務室を出る。廊下を歩く。本当はそれだけでも億劫だった。体の中に溶けた黒鉄を流し込まれたように、四肢を動かすだけで疲労が蓄積されていく。首の後ろに汗が滲む。どうせ主には俺の虚勢などお見通しなのだろうが、それでも、どうしても、つらくて苦しいのだとは口が裂けても言いたくなかった。この本丸は極端に刀の数が少ない。同じ刀を同時期に保持することができず、いつどんな刀がのろいをもって政府から引き渡されるか分からないからだという。前の本丸の審神者は刀を揃えることに躍起で、顕現が難しい刀が現れた折は大喜びでそれを贔屓していた。それは俺にとってはどうでもよく、しかしこの本丸の刀を全て見知っていたのはある種幸いだったのかもしれない。大広間に全員が集まったおり、思わず「これだけか」と浮かんだのは事実で、二十にも満たない顔ぶれの中に、静形薙刀や大包平が並んでいたのはどういう了見だろうとも思った。戦闘に出ないわけではない。あくまで本丸設置の意図は時間遡行軍への対抗である。それでも、この主の持つ力には偏りがあり、顕現が叶う刀と叶わない刀があるのだという。それであってその中でも、出来る限りの少数のみで戦うよう、拾得した刀は一度主が「顕現するか否か」を取り決めるのだ、と説明をしてきたのは、厨当番が一緒になった折延々と話し続けていた歌仙兼定だった。以前の本丸ではさほど関わらず、係わらないよう過ごしていた相手であったから、どうしたものかと俺は口を噤んでいたのだが「僕は君の所にいた歌仙とは別の刀だからね。これから慣れてくれるよう頼むよ」俺の知るこの刀としては温和な対応だと思った。記憶を拭い去ることはできないのだから、どこか違和感は残ったままでいるが、どうにかこの歌仙が言うよう極力他と同じく平坦に扱うようにしている。ある日。畑当番を終えて厨に野菜を運んでいると、慌ただしく走る乱の姿があった。厨を覗き「山姥切さんいる!?」と珍しく声を荒げている。その表情は隠れ鬼の様相ではない。俺は首を振る。同じく畑当番であった日本号が屈みながら裏口を潜ってくるのを見るや、乱はこちらへと飛び込んできて、まだ土で汚れる日本号の手を遮二無二つかんだ。「日本号さん来て! 大倶利伽羅さん、山姥切さんを探して大庭に来て! お願い!!」言うや、先導するように厨を出て行く。何かに気づいたらしい日本号がこちらを一瞥し「山姥切呼んで来い」、と、つぶやく間にその瞳孔が、す、と朱に染まっていくのを見た。ばちん、と弾けるような音がして、日本号の姿が内番着から戦装束に代わる。廊下に出る頃には本体である槍がその手に握りこまれていた。俺は言われた通りに二人とは別の廊下に入り、主の執務室へと向かう。おおよそ乱が探しに向かおうとしていたのはこちらだろう。山姥切は部隊出征がなければほとんどこちらで過ごしている。執務室の前に来たところで、ばん、と勢いよく襖が開いた。現れたのは山姥切だった。こちらも既に戦装束で、左手に握られた本体の鯉口に指が宛てられた状態で走りださんとするようだった。布の下から青い目が、俺を見る。無表情だった。あまりこの刀の顔を見た記憶はない。「大庭だな」「……ああ」「あんたは離れていてくれ」ど、と踏み込む音がしたかと思うと、風を残して山姥切は消えていた。俺は息を飲みこみ、言われたことを無視すると、乱が呼んでいた大庭へと同じく向かう。大体はそこで短刀や脇差が遊んでいることが多い。あの日バドミントンをしていたように。着くよりも先に禍々しい気が、重く、ぶわりと、体を包んでくるのを感じた。思わず腕の龍の彫り物を抑える。見るが、体には何も変化が起こっていない。とにかく庭へと走る。そこには御手杵が居た。左手に鯰尾を抱えている。まさしく人さらいのように、だらんと四肢が垂れる小さくはない身を、まるで荷のように下げているのだ。鯰尾の意識は無いのだろう。御手杵を見るが焦点の合わない目をしており、左頬の墨色の痣が黒々と、喉へ耳へと広くなっているのが分かった。こちらも意識がないのかもしれない。激しい金属音と、強い攻撃の気迫が満ちている。鯰尾を抱えた御手杵が片手で制しているのは誰あろう山姥切だった。素早さや練度をみれば敵わないだろうその初期刀を相手に、御手杵は残った右手だけで本体を持ち、ぼうっとした目のまま何合も打ち合いを続けている。その周囲で警戒として対峙しているのは秋田と乱、その二人よりも前に立つ日本号で、全員が戦闘態勢だった。秋田は今にも泣き出しそうな顔をしている。俺は、もう一度腕を強く掴んで舌打ちし、ばちん、と、同じく装束を変えた。練度はこの本丸で一番低い。俺が飛び出してどうなることではない。相打ち覚悟で飛び出した挙句、俺の中に巣くうのろいを他に移す危険がある。これも主から聞いた話だった。何合打っても御手杵は下がらない。拮抗している。しかし機があった。攻撃と交わしを続けていた山姥切の刀の動きに変化があり、瞬間、ぐるりと槍を絡めて穂先を地面へと強かに打ち付けた。しかし御手杵はすぐに本体を離すとそれを蹴りつけ、竿部分を山姥切へと思いきりにぶつけてくる。襤褸布から出る肩の防具でそれを受け止める。刹那、俺の後ろから巨影が飛び出し、ど、ど、と御手杵の足音よりも広い歩幅で廊下を走り抜くと、高く飛び、その長い薙刀の切っ先を寸分違わず御手杵へと繰り出した。「おおおおおおっ!!」叫ぶ声は静形薙刀だった。黒い装束の赤い肩掛が翻り、長い本体が山姥切と御手杵の本体を超えて、鯰尾を抱える御手杵の腕を容赦なく襲う。初めて御手杵の表情がゆがんだ。衝撃で離された手から鯰尾が落ち、すばやくそれを山姥切が受け止めると、背後に降り立った静形へ意識の無い脇差の身を投げ、刀を持ち直してさらに踏み込み、ど、と槍の巨躯の鳩尾へと一閃を入れる。本丸内の刀は鈍らだ。見目は変わらないのに実際斬れることはない。それでも渾身の一撃は御手杵を制するだけの力はあったらしく、ぐら、と攻撃の流れに従い背後へと倒れた。それを駆け寄る日本号が受け止める。山姥切がひとつ、深い呼吸をした。本体を鞘へと納めないまま、手癖のように襤褸布を引きおろし、その場で意識の無い二振の脇差と槍の様子をそれぞれ一瞥する。粟田口と静形が青ざめた様子で鯰尾に声をかけている。「山姥切」抑揚の薄い声がした。現れたのは審神者と、その傍らには五虎退がいる。こちらも秋田と同じく泣きそうな顔をしていて、仔虎が足元で御手杵に向かって毛を立てていた。「主。鯰尾を見てくれ。御手杵はこちらで運ぶ。あんたの部屋でいいか」「ああ。頼んだよ」ようやく本体を鞘に戻し、山姥切が二振の槍へと歩み寄る。さすがに同種でも槍の人の身は重いのだろう、山姥切と両側から御手杵の体を支えると、日本号が「もっとこっちに寄せろ」と言い、二人がかりで縁側から運んでいった。意識の無い鯰尾を受け止めたまま、触ることが出来ないとでもいうように、不安げだが両手を持て余している静形へと主が穏やかに声をかける。「ありがとう。貴方が間に合っていて助かりました」「あ……主ぃ、俺では、駄目だ。鯰尾のを傷つけてしまうやもしれん……」「傷つきませんよ。だけど、ええ、私が引き取りましょう。仲間を襲わせてごめんなさい。ありがとう、静」主の手が静形を撫でる。びく、と薙刀の肩が揺れたが、まるで大型の犬のようにおとなしくそれを受け入れている。主が鯰尾を背負おうとしているのを見て、俺は装束を内番着に戻すと、代わって意識なく重さの増えたような鯰尾の身を肩に担いだ。「大倶利伽羅」「どこへ運ぶ」御手杵は主の執務室に運ばれただろう。この場合なら。「では、手入れ部屋へ」俺が運ぶ鯰尾へ、粟田口の面々と静形がおろおろとしながらついてくる。運ぶのは全く構わなかった。ただ、囲まれているようなこの状況は少し煩わしかった。御手杵ののろいは深いのだという。俺が来る幾らも前から浄化のために顕現しているのだが、その経過は遅々としていて、悪化はしないがみるみるよくなる、ということはないのだという。現状維持を基本とし、少しずつ解呪しているのだと。時折こうして暴走することがあった。あの姿を見たのは俺は二度目で、一度目はあまりのことに言葉を失っていた。御手杵をのろったのも以前にいた本丸の審神者だというが、何を思ってこれを施したのかなど知りたくもない。練度上げの出撃、遠征に出ていた面々が帰還してくる。御手杵の話を聞いて顔色を変える者は少なくなかった。出撃部隊に組み込まれていた平野は、すぐに手入れ部屋へと向かっていった。鯰尾はのろいにあてられて気を失っただけで実際に負傷したわけではない。それでも、審神者の霊気が満ちる手入れ部屋で、目を瞑ったまま動かない兄弟刀を見る心地も俺が知ることはできないものだった。赤い炎の中、轟々と、燃え盛る音と崩れ落ちる梁と。本丸が焼けている。大広間の中央には主が座っていた。怒り狂ったその表情は般若そのものでしかない。その腕の中には燭台切が横たわっている。火とは違う赤色にまみれ、動かず、目を瞑ったまま。「大倶利伽羅! 敵を屠れ!」命じられるがままに体が動く。振り返り、本丸を襲った時間遡行軍と対峙する。ぞくぞくと背筋に厭な気配があって、次に、己の腕に巻き付く龍が、まるで生きているかのように蠢いているのを見た。「……っ!」「屠れぇ!!」声が響く。命じる声だ。審神者の力だ。俺は抜刀し、迫りくる遡行軍へと脚を踏み切った。目が覚める。まだ夜中だ。障子の外は暗く、部屋の中はぼんやりとした輪郭しか感じ取ることができない。気分が悪い。水でも飲むかと起き上がり、見えもしない腕の龍を見下ろす。無言。部屋を出て厨へ向かう。夜中もここの戸は鍵がかからず好きに使えるようになっている。宵闇の本丸はひどく静かで、皆寝つきのいいものだと心内で独り言ちる。明かりをつけ、水を注いで一息に飲み干した。水は冷たいのに気は晴れず、腹の中に何か重いものが入っているようで、結局状況が良くなることはなかった。嘆息して器を洗い、戸棚に仕舞い、寝に戻る気分でも無くてそのまま厨に置かれた卓の椅子に座る。眠気はどこかへ行ってしまった。経験上、このまま起きていれば朝になるだろうが、昼頃どうしようもない眠気に襲われるだろう。気配がした。誰かが廊下を歩いている。夜中だからか、控えめな歩調で、それであってこちらの明かりを目指しているのか歩みに躊躇いは感じられなかった。厨の暖簾をくぐって現れたのは、何のことはない、山姥切国広だった。「……あんたか」こちらの台詞だ。思いながら何も言わない。山姥切は俺と同じように器を取ると、水を注いで一息に飲んだ。既視感だ。そして器を洗って仕舞うと、こちらはそのまま出て行こうとする。それを何となしに眺めていたのだが、不意に山姥切がこちらを見たものだから視線がかち合った。俺が座って低い位置にいるせいだろう。律儀に被ってきた襤褸布の下から片目だけが覗いている。「眠れないのか」面倒見のいいものだと思う。この本丸の本質を考えればこうも違うのか。俺が知る山姥切は他人に気を遣っている余裕などない、いつであれ自己反省と自虐に忙しく、こんな顔をしていたのかすらもう記憶にはない程関わりのない刀だった。「放っておけ」「……どこか体に不具合は」「ない。……放っておけ」二度でも言えば去るかと思った。存外この本丸の山姥切は人の話を聞かないらしい。否、元からこうだったのかもしれない。厨の卓の、俺の斜め向かいに山姥切が座った。正面でないあたりがこの刀らしいとも言える。あからさまに嘆息すれば少しは居心地が悪そうにしたが、改めて立ち去ることはしなかった。慣れているのかもしれない。「この本丸に、……来てすぐの刀は、大概が一度顕現を行った前審神者の力が残っているから、環境に、順応するのに時間がかかるのだと言っていた」「主の言葉だな」「……ああ。俺は言われただけだ。一番長くこの本丸に居て、一番多く、あんたのようなのろいを受けた刀を見てきたが、俺は初めからこの本丸にある刀だ。そう思えば、一番あんたたちのことを理解できない身であるとも感じる」訥々と話す姿は、声が小さいにしろ頼りなさはなく、ただ、喋ることが得意なわけではないらしいことだけは伝わった。恐らく主に気にかけろと言われているんだろう。「歌仙がいるだろう」「……ああ」「うちの歌仙は、一度のろいが解けて、本霊に戻ったんだ。そして主の刀として改めて顕現した。あいつ自身の希望もあって」俺は目を細めて山姥切を見る。こいつが何を言おうとしているのかが分からない。「何の話だ」「希望があれば、呪いを解いて後もうちの本丸に残ることができるんだ。ただ、大概がのろいを解く間にもう、疲れてしまって、しばらくは休みたいと本霊に還ってあとは分からなくなることが多い。おそらく本霊と共にあるとこの本丸との縁が次第に切れるのだと思う。それと、本霊に戻ってから改めての顕現を希望していても、うまくうちに下りてこられないこともある。……鯰尾がいるだろう」「ああ」「鯰尾はうちの刀だ。拾得して、主が顕現した。前に、骨喰藤四郎がのろいをもってうちに来た。骨喰も、歌仙と同じくうちの本丸にもう一度下りるのを望んだ。だけどそれ以来うちの本丸には骨喰藤四郎が現れていない」「別のやつが来たのか」「違う。鍛刀でも習得でも来ないんだ。もし来たら主はきっと励起させられる。その骨喰が、前の骨喰なのかは分からないが……」「つまり、」水を飲んだことで湿らせた舌が山姥切の言葉を遮るように言葉を落とす。山姥切がハッとしたようにこちらを見た。主の傍に控えないときはこの刀はどこか見覚えのある心もとなさを纏っている。「何が言いたい」「……」会話は止まった。明かりがついているのは厨だけで、起きているのは俺と山姥切だけだった。無言の時間が過ぎる。別段面白くも無いが、然程苦しいわけでもない。「あんたが」言葉を始めるがまた詰まる。一呼吸置いた。「……あんたが、この本丸を気に入ってくれるといい。早く呪いが解ければいい。あんたはきっと戦場にいるべき刀だ。俺はあんたと戦いたい」そう、言うだけ言って、山姥切は立ち上がると先に厨を出て行った。俺は山姥切に言われた意図が汲み取り切れず、よく分からないな、と正直に考えたところで、厨に来た理由であった息苦しさがある程度緩和したのを感じていた。この本丸の刀と接触したり交流を持つことでより力のなじみが早くなると。そう教えられていたことを今思い出した。そのつもりだったのだろうか。果たして、どうだったかなど定かではないが、近侍刀殿は俺が見るにそれほど器用そうな刀だとはとうてい思えなかった。純粋にこの本丸で顕現した刀は、山姥切、五虎退、秋田、鯰尾、博多、日本号、大和守、平野、大包平、乱の十振りで、練度もこの面々が順当に高く保たれている。うち山姥切と五虎退は上限に達しているが、この本丸から極の修行に出た刀は一振りも居ないという。理由は教えられなかったがおおよそ見当はついた。のろいを持った刀を抑え込むのに頭数も必要なのだろう。歌仙、静形、鶴丸は一度本霊に戻り再顕現された元のろい保持の刀だと。そして今、のろいを持っているのが御手杵と同田貫と俺の三振だった。同田貫はほとんど解呪が進んでいる。定期的に行われる主の診断でも、一番に呼ばれてさっさと出てくる。御手杵とは違いのろいが表に出ていることはなく、俺が顕現してから暴走したところも見てはいないから、本当にもう落ち着いているのだろう。近いうちにいなくなるのかもしれない。どうでも構わないのだが。内番などで一緒になることもあったが、記憶にある通りあっさりとした返しがほとんどで、割合短刀の多い本丸内では組まされても面倒ではない数少ない相手ではあった。残る面々の癖が強すぎる。特に鶴丸国永などは、まるで旧知の仲であるかのように接してくる。前の本丸でもそうだったのだが、この特殊な環境の中、あちらも前の本丸の記憶が残っているだろうに、よくもそんなに距離を詰めてこられるものだとむしろ感心すらしてしまうほどだ。見習うつもりなどさらさらないのだが。「人の子らと同じ身を与えられた混乱を、とうに経験した俺達が、記憶をもって別の本丸の刀になるなど、まるで人の子のように憂うことがあるなど。これ以上ない驚きじゃないか? のろいを食らったのは不運でしかないが、この本丸に下りられたことは幸運でしかない。俺にとってはな。お前さんはどうだい、伽羅坊。面白くないか。刃生一度ではないのだと知れただけでも楽しくないかい?」全く共感しえないことだった。相変わらずこの刀の考える事は解らない。憂う、憂うだと。まるで前の本丸に未練でもあるような口ぶりだろう。やがて来た春の日。同田貫は解呪を終えて本霊へと戻ることになった。主が尋ねる。この本丸に戻ることを望むかと。「縁がありゃあ、たぶん来るさ」それだけ言って、気配のない刀となり、主の手の中から桜吹雪が舞い上がると、同田貫正国がこの本丸から消えていった。その日見た乱藤四郎はどこか気落ちした様子で、粟田口の面々に慰められながら、夕食の席には不在だった。どういうわけだか見当はついたが、それを俺が口にする必要も、気に掛ける必要もないと思った。歌仙が握り飯を秋田に持たせ、回廊を走っていく足音がする。厨当番に当てられていたせいで皿を洗いながら、その足音が遠くなっていくのを聞いていた。